決して小さいとは言わず、大きいとも言えないマンションの一室。

それは、俺と彼女の揺らぐことのない「楽園」だった。

 

「すき」

 

という感情が、ダイレクトに流れていく空間。

それが、俺達の城だ。

まだほんのりと可愛い吐息を奏でる唇を見ながら、自分の腕で眠る彼女を見つめて、自分が「自分」でいられる場所は、この子の傍だと言うことを実感していた。

 

思う存分彼女の寝顔を眺めた後は、彼女に代わって朝食作り。

苦手な料理を頑張って拾得するべく、家庭科の授業に気合いを入れてはいるのだがなかなか上手くいかない。

作り方通りに作ってはみるのだが、本人は納得しない様子。

だが、俺は作られたものは文句を言わずに食べた。

いくら料理が苦手でも、やっぱり好きな人が作ってくれたものだ。俺に食べさせたい一心で作ってくれた「心」は素直に嬉しいと思える。

だから、無理に頑張らせようとしないように、一人暮らしの長い自分が彼女の代わりに何か作れるようになろうと思った。それが逆に軽いプレッシャーを彼女に与えるだろう、ということも考慮して。

 

「人間、向上心は必要だな」

 

まぁだからといって、彼女も俺にずっと「料理」をさせるつもりはないらしい。週末は、「せめて一品だけでも」と奮闘しながら料理をする姿は可愛いし、料理以外の家事をしっかりこなしてくれる。俺は料理以外はそんなに得意じゃないから。

 

「よし」

 

リビングで、朝食の準備がされているテーブルを見ながら一人呟く。

本日の朝食は、ちょっとしたサラダと目玉焼き。

そして、力作のカニの形のウィンナー。

満足そうに眺めながら、料理も作ってみれば案外面白いな、と思った。

こういう細かい作業をしていしまうのは、はまるととことんのめり込むタイプだからだろうか?

などと考えていたら、寝室から寝ぼけた様子で尋未が「おはよう」とリビングに歩いてきた。

 

「───おはよ」

 

こちらも、にっこり笑って朝の挨拶を交わす。

もともと仏頂面な顔をしているだけあって、周りにいろいろと誤解を招いたりする顔だが、彼女の前でだけは筋肉が自然と緩んでくれる。

やっぱり、好きな子と他人は違うんだろうな。

 

「朝ご飯、出来てるよ。尋未はパンで良いだろう?」

「…うぅ…」

 

返事なのか返事じゃないのか迷うところだが、毎週末泊まりに来たり、こうして夏休みの間も一緒に過ごしていればだいたい慣れてくる。

なにを言おうとしているのか、どうしたいのか、そういうのが自然と伝わる。

 

「……」

 

まだ少し寝ぼけた顔をして、眠そうに目をこする彼女を見つめる。

パンは、起きるタイミングを見計らって焼いてあるから、あとはマーガリンを薄く塗って、尋未の大好きなマーマレードのジャムを塗ってやる。

そこで初めて虚空を眺めていた尋未が、俺を視界に捉えてからにっこりと笑んだ。

 

「おはよ」

 

改めて挨拶してやると、今度はしっかりとした口調で「おはよ」と答えてくれた。

こうした何気ない挨拶が、幸せに浸れるひとときだと感じる。

 

少しの違和感を覗いては…。

 

尋未が起きてきたときから感じてはいたが、改めてまじまじと彼女を眺めてしまうとなんとなく、こう、背徳感がむくむくと肥大していくのが解った。

 

「…なぁに?」

 

パンを銜え、下から見上げられると思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。

いかんいかん。

いくら久しぶりの彼女の制服姿を見たとしても、冷静でいなければ。

 

「…いや、なんでも…」

 

吹き出しそうになるのをぐっと堪えながら、視線を明後日の方向へ向ける。

 

「先生…?」

 

朝からどうやってそんなに甘ったるい声が出てくるのか、毎日不思議に感じるが、彼女の甘い声から発せられた「禁断」を思わせるような単語に、いつも以上に自分が敏感になっていることが解った。

これはいつも聞きなれている彼女の呼び方なのだが、なんか……悪い事してるような気分になってくるぞ…。

困ったことに、素直に反応する事が出来ずに、曖昧な返事を返す。

 

「あー…、うん」

「…どうしたの? …風邪でも引いた…??」

「いや、そういうわけではない」

「…でも、……なんか、困ってる…?」

 

確かに困ってる。

困ってるが…、その理由だけは素直に言えない。

 

「……別に?」

「……先生…?」

 

訝しげに、向かい側に座ってる彼女が更に下から見上げてきた。

その瞳は少しだけ怒りの色を含んでいて、唇が少しだけ前に尖っている。

いつもならそこでキスをしてしまうのだが、今は少し遠慮したい。

 

「…だから、なんでもないって」

 

わざと笑顔を形作って傍にあった新聞を広げる。これ以上は、本気でまずい。

なんかこう…彼女を見てると、ヤバいんだ。

ちくちくと良心が痛むというか、なんというか…。

……これまでこんな風に思わなかったのは、きっと彼女が家に居る時はいつも私服だったせいだ。

制服姿の彼女はあまりにも純粋すぎて、結構クル。

普段、学校という場所で見ている限りは何も思わなかったのだが…。

こうしてプライベートな場所で制服を着られていると、妙に変な気分になってしまう。

申し訳ないような気持ちの反面、そういう彼女だからこそ手を出したくなるというか…。

 

「……はぁ」

 

教師失格だな、俺。

明らかに教師失格な自分を見つけて、少なからずショックを受けた。

 

「先生!」

 

咎める意が含まれてる呼び声に反応すると、いつの間にテーブルを回り込んできたのか、尋未が隣から俺の防護壁を奪った。

 

「うわぁっ!!」

「もー、さっきから一体どうしたんですか!?」

 

あまりにもいつもの俺と違う、と感じたのか、尋未が頬を膨らましながら拗ねた顔して隣りにちょこんと座った。

 

「…えー…」

 

急に飛び込んできた制服姿の彼女に、朝からなんてことしてくれるんだ、と思いながらドキドキと煩い心臓をなんとか戒める。

この様子じゃあ、尋未、怒って────

 

「…怒ってるの…?」

 

それはこっちの台詞だ。

先ほどとは違う近距離で、下から見上げられると本当に困ってしまう。

しかも、それは自分の台詞であって、決して尋未が言う台詞ではない。

怒っているのか、と思っていた彼女の表情は既に不安に歪んでいて、彼女にこんな顔をさせてしまった自分に腹が立った。

 

「怒ってないよ?」

 

白くて滑らかな頬に右手を滑り込ませると、さらりと彼女の髪が柔らかく動いた。

それでもまだ不安げな表情は柔らぐことはなかったが、包んだ俺の右手にほんの少し顔を預けてきた。

 

「……本当?」

「本当」

「……なら、良い…」

「そうか」

「…うん」

 

両手を前について、頬を触る俺の手に顔を預けながら瞳を閉じている姿は、なんだか妙にいやらしかった。

………相当参ってるんだな…、俺。

 

「先生?」

 

気持ちよさそうに俺に顔を預けてくる尋未から手を差し抜くと、「もう少しだけ」と瞳で訴えられた。

でも、それは出来ない。

これ以上彼女と一緒にいてしまったら、───自分が我慢できる自信が、ない。

 

「そろそろ支度しないと」

「……はぁい」

 

不満げに立ち上がった彼女の後ろ姿に「ごめんな」と思いながら、俺は洗面所に向かった。

その間に、彼女が食器の片付けをしてくれるだろうから、今空いた時間で、高ぶった気持ちを冷静にさせようと思った。

洗面所に行ってハブラシを取り、歯磨き粉をつけて口に含む。

鏡に映った自分の姿は、確かにどこか不機嫌そうだった。

不機嫌というより、「疲れてる」の方が正しい表現かも。

まぁ確かに、昨日の京都への出張は疲れたには疲れたが、そこまで疲労困憊(こんぱい)というわけではなかったし…。むしろ、たくさんの人たちと話が出来て、ある意味面白い出張だった。

 

となると、この疲労は…。

 

……やっぱり、朝から制服姿の彼女を見たからだよな…。

よく、コスプレがどうのという話が出るが、あんなもんは比じゃ無い。

何しろ彼女の場合は女子高生が本職、無理な年齢で制服着てる女とは違うぐらいに制服姿がしっくりきているんだ。いくら学校で見慣れてるとはいえ、プライベートな自分の空間に本職の制服姿の彼女がいると、「イケナイ事」をしてるようで疲れるのは必死。

しかも、自分も本職の教師だ。自分の教え子に手を出してるなんて、背徳感が大きすぎる。

 

「………はぁ」

 

本日、二度目のため息。

……あぁもう、朝からなんつー事ばかり考えてるんだか…。

しゃかしゃか歯を磨いてから口をすすぐと、少しはすっきりした気分になる。

ついでに気持ちの方もすっきり…、というわけにはいかなかったが、とりあえず彼女の顔を直視するぐらいは出来そうだ。

リビングを通って寝室に向かい、ネクタイとスーツを取り出して手早く着替える。

ワイシャツはもう着ていたのだが、下はまだあの可愛らしいパジャマ。

朝食を食べるまでは、ついパジャマで過ごしてしまうクセがまだ抜けない。

ベルトを締めてからリビングに戻ると、洗い物を済ませた彼女と目が合った。

 

「……なんか、先生って感じがする…」

 

まじまじと眺められて、こちらも恥ずかしかった。

 

「それ、この前も言われたぞ?」

 

どこかで聞いた台詞だな、と苦笑を浮かべてネクタイを締め始めると、彼女が小走りで目の前に来た。

 

「ん?」

「ネクタイ。…結ぼうか?」

「……え…」

 

まさか、自分がネクタイ結んでもらう日が来るとは思ってもみなかった。

襟を立て、ネクタイを首にかけ、襟を元に戻すと彼女がにっこりとネクタイを掴んだ。

 

「結べるの? …結ばれるの間違いじゃなくて?」

 

思わず口元を押さえる。

いくら自分が彼女の制服姿に参ってるからといって、朝からこんなことを言うなんて、どこまで変態なんだ…!

 

「…え? なにか言った…??」

 

幸いなことに、ネクタイを結ぶことに集中している尋未はきょとんとした顔でこちらを見上げてくるだけだった。

取り繕うように笑顔を向けると、「お父さんのやってるのを見て覚えたの」と一言添えた。

立ったまま、目の前の彼女にネクタイを結んで貰う、……なんか、いいな。

これはこれで。

少しゆるめに首元へあててくれたネクタイをもう少し締めると、気持ちが引き締まる。

 

「ん。ありがとう」

 

微笑んで頷くと、彼女が嬉しそうに笑ってくれた。

その頬に手を伸ばしてそっと捕まえ、上を見上げたままにさせると、彼女はいつものように体をこちらに預けてきた。

 

「ネクタイぐらい化学の成績も良ければ、文句なしだな」

「………ネクタイと化学の成績は関係ないです!」

「そうか…?」

「そうです…」

 

くすくす笑いながらその唇に、そのまま重ね―――

………ようとしたが、重ねられなかった。

彼女の顔ぐらいは直視出きるようになったが、さすがに今キスしたら歯止めが利かなくなりそうだ…。

 

「……先生?」

 

キスを待っていた彼女が、先ほどの瞳でふと尋ねてくる。

それもそうだ、キスをしようとしていた唇が方向転換したんだから、頬に。

 

「…唇が良かった?」

 

少し意地悪く笑むと、尋未は頬を赤く染めながら小さく頷いた。

どこまで俺を参らせれば気が済むんだろうか?

我慢だけはしっかりしなければ、と必死に自分の戒め、もう一度ちゅ、と頬に口づけをして彼女を離し、くるっと背中を向けさせて洗面所へと促した。

 

「え?」

「支度しておいで、時間、迫ってるから」

 

一度こちらを振り返って眉を寄せると、尋未はぱたぱたと洗面所へ向かっていった。

 

「………はぁ」

 

危ない。

どうして今日に限って、あの子はあんなに俺を誘うようなことをするんだ。

朝っぱらからこんなんでは、話にならない。

昨日食べたハンバーグに、媚薬でも入ってたんじゃないかとさえ思う、彼女への渇望。

昨夜は結局、俺も疲れていたし、彼女も先に眠ってしまっていたので、一緒に眠るだけだった。

今日こんなにも彼女が欲しくなるのは、そのせいか?

そんな事を思うと、なんだか無性に駄目教師のレッテルを貼られているような気がして、切なくなった。

 

「…なんなんだ」

 

悪態を付いたってどうしようもない。

彼女が可愛くて可愛くて可愛くてどうしようもないんだ。

それに対して、彼氏が「欲しい」と思うことは当然のことであって、彼女と結ばれたのだって、この間がようやっとだったんだぞ…?

…ん?

 

「………ちょっと待て」

 

逡巡した後、どうして今更ながら見た彼女の制服姿にドキドキしたのか理由が解った気がした。

 

「…俺、…最低…」

 

思わずため息をついて頭を抱える。

そうだ。

そうなんだ。

付き合ってからも学校で普通に彼女を見れていたのは、まだ彼女を抱く前だったからだ。

そして、今日が彼女を抱いて初めて見た、「彼女の制服姿」。

 

「…………はぁ」

 

参った。どうりで、制服姿の彼女を正視出来ないわけだよ。

しかも、今日から二週間、夏休みの夏期講習で、彼女の制服姿を、学校でも自宅でも毎日見なければならない。

───「二週間」

日付に換算すると14日。

時間に換算すると、……良い、めんどくさいから計算しない。が、その時間が気の遠くなるような時間に思えてきた。

 

「……我慢、出来るのか? 俺…」

 

思わずそんな言葉が漏れた。

だが、彼女の両親に、受験生である彼女の勉強をみっちりやらせると言って夏休みの同棲を許可して貰っている為、うかつに手を出す事は出来ない。

……というか、やはり自然に阻まれる。

かと言って、二週間彼女の制服姿を見ながら悶々と過ごすのかと思うと、非常に耐え難い。

 

「…先生? どうしたの??」

 

身支度を終えた尋未が、ソファの背もたれから体を乗り出して俺を見た。

にこやかに微笑む少女に自分の理性がどこまで保てるか、「賭け」だ。

ゲームは嫌いじゃない、若干、アンフェアな気がしないでもないが、自分を試してみるのも面白いかもしれない。

どちらかと言うと、企業戦略にのせられるよりかは自分で流れを掴む方が上手だと思っている。

 

「……遅刻、しちゃうよ…?」

「ああ、行こうか」

 

 

─────ゲームスタートだ。

 

 

そんなこんなで、長い夏期講習が幕を開けたのだった。



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