ツキアカリ。

幸太郎は、ソファに長く脚を投げ出して、テレビの画面に見入っていた。

 今日は12月31日、大晦日。
 年越しの特別番組が、だんだんと佳境に入っていたが、特に観たくて観ているわけではなく、することがないのでなんとなく画面を眺めているという感じだった。

 彼が、チラリとリビングからフロア続きのキッチンに目をやると、そこには、鼻歌を歌いながら忙しく立ち働く佐和子の姿が見えた。
 マメな彼女、作法通りに年越し蕎麦を用意し、その後は、おせちだ雑煮だと正月の支度に余念がない。
 幸太郎は、おせち料理などどこかの料亭かホテルの仕出しでも構わないと言ったのだが、佐和子が自分で作ると言って聞かなかったのだ。
 おかげで、昨日は買い物客でごった返す築地にまで付き合わされた幸太郎。独特の熱気とにおいと人いきれには辟易したが、これで佐和子が喜ぶのなら、なんて考えてしまう辺りなど、すでに末期症状の彼である。
 その上、黒豆だの焼き豚だの昆布の煮しめだの、甲斐甲斐しく料理に精を出す佐和子を眺めていれば、自然と頬も緩むというもの。
 例年であれば、元旦ですら自分の家で過ごそうとしない幸太郎が、こうして大晦日の夜にテレビを観ながらのんびりしているというのも当然の成り行きなわけで。
 有名料亭の三段重箱でも、高級ホテルの洋風おせちでもなく、佐和子の作る質素で素朴なおせち料理が嬉しい幸太郎なのだった。

 年明けのカウントダウンが始まる頃、佐和子がやっと幸太郎の隣に腰を下ろした。
「はぁ〜、準備完了。これで安心して年が越せるね?」
 大きく息をついて、ソファの背もたれに凭れた彼女は、本当に清々とした顔をしていた。
 幸太郎は、そんな彼女の頭に掌を置き、ゆっくりと撫でた。
「おう、お疲れさん。随分と張り切ったな」
 佐和子は小さく頷くと、甘えるように幸太郎の胸に頬を寄せた。
「うちね、貧乏だったけど、年末の大掃除とお正月の準備は毎年きちんとしたの。来年こそは、良い年になりますようにって」
「そうか……」
 恵まれない環境で育ってきた佐和子、その思いには切実なものがあっただろう。
 幸薄かった彼女が今、こうして自分の腕の中にいること。これは確かに巡り合わせだったのだと、あらためて幸太郎は思った。
 テレビの中では、デジタル表示が減っていくのに合わせ、中継会場が異様な盛り上がりを見せ始めている。
 幸太郎は、佐和子の額に自分の額を押し付けるようにして言った。
「でもな、もうそんなこと願う必要なんてねえんだぞ、俺がいるんだからな。これからは、来年も良い年になるように、もっともっと素敵な年になるようにって願えばいい」
「幸太郎……」
 佐和子は、自分のすぐ傍にある彼の顔を見つめ、その頬に両手を添えた。
 そして、唇同士をそっと重ねる。
「……好き……本当に、大好き……」
 唇が触れ合ったまま、吐息のような声で佐和子が言う。
 幸太郎は、答えの代わりに彼女を強く抱きしめた。
 カウントダウンが終わり年が明けたところで、佐和子はやっと唇を離して笑った。
「ふふ……2年越しのキスだね」
「ああ、そう言やそうだな」
 つられて笑った幸太郎から身体を少し離し、佐和子は真面目な顔になる。
「あたしを拾ってくれて本当にありがとう。今年もよろしくお願いします」
 ペコリと頭を下げられて、幸太郎は咄嗟に返す言葉を失った。
 礼を言われるようなことをした覚えはない。
 身寄りのない彼女を手元に置いている理由は、義務感や正義感などではない。
 ただ俺が、彼女に側にいて欲しいからだ……胸の中にすっぽりとはまり込む佐和子の小さい身体をさらに抱きしめながら、幸太郎は思った。
 彼女と知り合ってから、随分と長い時間が経ったような気がするが、実際には6ヶ月にも満たない。それでも、彼女と一緒に過ごした時間は、すでに彼にとってかけがえのないものになっていた。
「しょうがねえな。よろしくお願いされてやるよ」
 幸太郎は、照れ隠しのためか少しぶっきらぼうな口調で言った。
 素直に「こちらこそよろしく」と言えないところが彼らしかった。
 それでも、佐和子は安心したように微笑み、再び彼の胸に身体を預けた。

 佐和子は、こんな風に幸太郎に抱きしめられるのが好きだった。
 彼女を包む長い腕。温かなぬくもり。微かに香る彼のにおい。
 こうしていると、何故だかすごく安心できる。
 自分の場所は「ここ」しかないのだと思えた。
 幸福なんて縁遠いものだと諦めていた自分が、今こうして満たされて幸せな気持ちでいれること。それも全て幸太郎に巡り合えたおかげだ。
 ペットでも玩具でもいい、このまま一生、人目を忍んで陽の当たらない立場に置かれていても構わない。ただ、彼の側にいられれば良かった。
 世間には、こういう暮らしを良しとしない人もいるだろう。
 でも、そんなこと全然関係ない、と佐和子は思った。大好きな人といつも一緒にいたいと思うことの何がいけないの。
 誰に何を言われようと、自分が幸太郎に寄せる想いには変わりがないのだから。
 彼女は、幸太郎の背中に細い腕を回して彼を抱きしめ返した。

 テレビの画面は、初詣の人で混雑するどこかの神社を映し出していた。
「……すげえ人出」
 幸太郎が呆れたように呟くと、彼の胸に顔を埋めていた佐和子も、眼を上げてテレビの方を振り返り驚いた声を出す。
「うわ、ホントだ」
 賽銭箱の前まで押し合いへし合いの人込みが続き、振袖姿の若い女性が、足でも踏まれたのか顔を顰めているのが見えて、幸太郎は苦笑した。
「あ〜あ、せっかくめかしこんでも、この有り様じゃな」
 何だって皆、好き好んであんなところへ出かけて行くのか。近所の神社で済ましちまえばいいものを、そう言う幸太郎に、今度は佐和子が笑った。
「人が集まる大きい神社の方が、ご利益がありそうな気がするじゃん、なんとなく」
「バカ言え。あんな大勢で押しかけられて、神様だってひとりひとりの願い事なんて聞いてられるかっつーの。だあれも行かねえような寂れた神社の方がいいに決まってんだろ」
「そうかなあ」
 現実主義の幸太郎が珍しいことを口にしたので、軽くそれを揶揄するような調子で佐和子が言うと、幸太郎は「よし」と腿を叩いて立ち上がった。
「どしたの?」
「俺たちも行くぞ、初詣」
「ええ?」
 佐和子は、チラと画面に目をやり、あまり乗り気ではなさそうな顔になる。
 幸太郎は、そんな彼女の額を人差し指の先で軽く小突いた。
「露骨に嫌そうな顔をしてんじゃねえよ、誰があんな芋洗うみてえなとこに行くか」
「じゃあ、どこに――」
「いいから早いとこ支度しろ」
 佐和子にとって幸太郎の言いつけは絶対だ。
 ピシャリと言われて、彼女は渋々と腰を上げた。

 幸太郎の運転する濃紺のジャガーは、閑静な住宅街の中を走っていた。
 この時間でも、繁華街などでは年明けムードで盛り上がっているだろうが、長い生垣に囲まれた豪邸が立ち並ぶ深夜の住宅街は、ヒッソリと静まり返っていた。
「本当は、振袖でも着せてやりたかったけどな」
 助手席に座る佐和子を横目で見ながら、幸太郎が言った。
 佐和子の、シミひとつない陶器のような白い肌や、艶やかに輝く長い黒髪は、華やかな着物を着せたらさぞかし似合うだろうと彼は思った。
「着物なんて、七五三以来着てないよ」
 それを聞いて、そうだ、彼女はまだ成人式も迎えていない、七つの祝いからもまだ10年も経っていないのだと思い出した幸太郎は、あらためて自分と彼女の年の差を意識した。
 そんな幸太郎の気持ちなど知る由もない佐和子は、「それに、どうせ自分じゃ着られないしね」と笑った。
 幸太郎は、右手を彼女の膝の辺りに置いた。
「脱ぐのも面倒臭えしな」
「ん?」
 自分の掌を幸太郎の手に重ねながら、佐和子が怪訝な顔をする。
「相変わらず鈍いやつ。早いとこヤリてえのに、脱がすのに時間がかかると苛々するじゃねえか。ああでも、たまには焦れったいのにも燃えるかもな」
 今度、試してみるか……思わせぶりな笑顔でそんなことを言われて、ようやく意味が理解できた佐和子は耳までを真っ赤に染めた。
「もうっ、幸太郎のえっち」
 幸太郎は、何かというとそちらに話を結び付けて佐和子をからかう。
 それに対して、彼女が顔を赤くして大袈裟に反応するものだから、ますます彼を面白がらせてしまうわけだが、もちろん彼女はそうと気付いていない。
 とはいえ、幸太郎は、そんな彼女が可愛くて仕方がないし、佐和子の方にしても、からかわれようが意地悪をされようが彼のことが好きで堪らないのだからどっちもどっちだ。
「よし、着いたぞ」
 幸太郎が車を止めたのは、住宅街の真ん中。
 よく手入れされた背の高い生垣とブロック塀の間に、細い石の階段が伸びていて、その1番上に赤い鳥居が見えた。
 土地勘のない佐和子にはここがどこなのか見当もつかなかったが、車から降りた幸太郎は、彼女の手を引いてさっさと階段を登り始める。
「……静かだね」
「周り、家ばっかだからな」
「どうして、こんなところに初詣に来たの?」
「別に? ガキの頃、よく遊んだ神社だから、たまたま思いついただけ」
「へえ……」
 佐和子は顔を輝かせ、あらためて辺りを見回した。
 彼女は、幸太郎のことをまだ何も知らないから、そんな些細なことでも聞かされれば嬉しかった。そして、もっともっと彼のことを教えて欲しいと思うのだった。
「何だよ」
「ううん、何でもない……」
 幸太郎が自分のことをあまり話したがらないのは、今がまだその時期ではないと考えているからだ。いつか時が来れば、きっと話してくれるに違いない。
 あたしは、幸太郎が幸太郎だから好きになったんだもの。彼が何者だろうと関係ない。その気持ちはいつまでも変わらないはずだと彼女は思った。
 繋がれた手から感じられる彼のぬくもりを噛み締めながら。

 賽銭箱の前で、佐和子は財布の中から小銭を出して幸太郎に渡した。
 一応は、家計を預かる立場の佐和子。主婦らしく、財布には小銭が貯まるのだ。
 掌の小銭を数えながら、幸太郎が首を傾げる。
「45円? すげえ半端なんだけど、なんか意味あんの?」
「うん。5円は、ご縁ってよく言うでしょ? それと40は、四十で始終。合わせて、始終ご縁がありますようにって」
 もっともらしく薀蓄をたれる佐和子に、幸太郎は少し呆れた顔をした。
「こじ付けじゃねえのか、それ」
「いいから、いいから」
 お賽銭を投げ、鈴を鳴らし、柏手を打ち、2人して頭を下げて願い事をした。
「ずいぶんと真剣に、何を願ってた?」
「幸太郎が、いつも元気で、お仕事も上手く行って、もっともっと幸せになれますようにって祈願したの。幸太郎は、何をお願いしたの?」
「俺? 俺はぁ、佐和子をもっともっと幸せにしてやれますようにって」
「何でよお、自分のことお願いすれば良かったのに」
「それはこっちの台詞だよ、バーカ」
 それから、どちらともなく顔を見合わせる。
 幸太郎が、少し乱暴に佐和子の腕を引き寄せて、彼女は彼の胸に倒れこんだ。
「俺は、いつでもお前を幸せにしてやりたいと思ってるぜ?」
「あたしだって、自分よりも幸太郎に幸せになって欲しいと思ってるもん」
「だったら、お前が幸せになれよ。お前の嬉しそうな顔見るのが、俺の幸せなんだから」
 なんて言ったらクサイか、と幸太郎は少し照れたように鼻の頭を掻いた。
 佐和子は首を振りながら、彼にぎゅっと抱きついた。
「幸太郎のバカ、そんな嬉しいこと言ったら泣いちゃうから」
「じゃあ、前言撤回するか? こんなところで泣かれたら困るからな」
「え?」
 佐和子が、縋るような瞳で彼を見上げる。
 幸太郎は、笑って彼女の頭を自分の胸に引き寄せた。
「バーカ、冗談だよ」
 それから、彼女の耳元に口を寄せて、低声で囁く。
「俺は、佐和子が好きだ。そんなこと、今さら言わなくてもわかってんだろ?」
「んもぉ……ホントに意地悪なんだから」
「お前が可愛すぎんの」
 笑いながらそう言って、幸太郎は佐和子の腰に手を回し、もう片方の手で彼女の顎を軽く持ち上げた。
「キス、しよっか?」
「え? ……ダメだよ、こんなところで」
「こんなところだから良いんだろ。誰も見てねえし、おまけに神前だしよ」
「しんぜんって?」
 すぐには「神前」とわからなかった佐和子が聞き返すと、彼は小さく苦笑した。
 ちゅ、と音をさせて唇に軽いキスを落とすと、彼は答えた。
「神様の前ってこと」
「……」
「即席だけど……誓いのキスな」
 もう1度、さっきよりも少し深い口づけ。
「絶対に離さない。俺はお前を傷つけないし、泣かせるようなこともしない。お前のこと、いつまでも大切に護る。きっと幸せにする」
 だから、俺の側にいてくれ……幸太郎は、佐和子を強く抱きしめながらそう呟いた。
「だったら、あたしも誓えるよ」
 佐和子は、そう言って突き詰めたような視線を幸太郎に向けた。
「あたしは何も持ってないけど、でもね、あたしの全部を幸太郎にあげる。あなたがあたしを求めてくれる限り、あたしはあなたのものだよ」
 今度は、彼女の方から彼に口づけた。

 互いの身体に両腕を回し、それでも夜気はとても冷たいから、他のどの部分よりも熱くて柔らかいそれを何度も重ね、温め合った。

 愛していると囁きながら。

 そろそろ帰るか、と幸太郎が言ったのは、東の空が薄青くなり始めた頃だった。
 佐和子は彼の背中を抱いたまま、小さく頷いた。
 足元が冷えて感覚が失くなりかけている。
 それでも、心はとても満たされて温かかった。
「震えてるぞ、寒いのか?」
「ん、少し……」
「じゃあ、風邪ひかねえうちに早く帰らねえとな」
 幸太郎は、佐和子を見下ろした。
 鳶色の瞳が艶やかに煌めいて見える。
「帰ったら、姫はじめな」
「姫……何それ?」
 幸太郎は、意味深に笑って彼女の髪を撫でた。
「帰ってからゆっくり教えてやるよ」

 この後、佐和子は文字通り「姫はじめ」の意味を身を持って知ることになる。

 正月早々、まったくもってお目出度い2人であった。



チチャさんに頂いた、2006年の年賀小説ですv
なんていうか、二人の居る場所とか光景とかが、目に浮かぶようですね。
そして、二人の互いを思いやる気持ち。
それがとても現れていて、すごく微笑ましかったです^^
このお話の主人公である、幸太郎さんと佐和子さんのお話は、
チチャさんの所で拝見できますので、ぜひに!!
チチャさんのサイトはこちら〜v

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