「……お」
 ビリビリとわずかに空気が震えたのがわかって、つい口に出た。
「帰って来たぞ」
「え?」
 リビングで夕刊を読んだまま、聞き覚えのあるエンジン音でそんなことを漏らすと、きょとんとした顔の葉月がキッチンから顔を覗かせた。
 ……どうやら、ワケがわかってないらしい。
 ま、仕方ねーか。
「見たかったんじゃねーの?」
「えっと……何を?」
「羽織の彼氏」
「っ……!!」
 ニヤ、と口角を上げて告げた途端、丸い瞳がさらに丸くなった。
 ――瞬間。
「うわ!?」
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 ものすごい力で腕を引かれ、ばさばさーっとあたりに新聞が散らばる。
 ……おま……!
「何すんだお前!」
「たーくんも来て? ね? お願いだから!」
「いや、俺は別に――」
「だって! だって、たーくんのお友達なんでしょう? ね? お願い!」
「ぐぇ!?」
 なぜにそこまで俺を呼ぶ。
 ぐいぐいと菓子屋の前で駄々をこねる子どもよろしく、葉月が思い切り俺の手を掴んで引っ張り続ける。
 コイツが、そこまでして行きたいらしい場所。
 それはもちろん、すぐそこにある我が家の玄関だ。
「あーもー! わーった! 行くって! 行くから、ちょ……っ……待て!」
 そうまで騒ぎ立てる原因は、いったい何なのかが激しく気になるところだが、ここで強硬姿勢を取ってもなんの役に立つワケじゃない。
 それどころか、下手したらいつまでもしつこく言われそうだ。
 とはいえ、別に俺が出迎えて喜ぶようなヤツじゃないんだけどな。
 だが、アイツを見たことも詳しい話を聞いたこともない葉月は、それこそ主人を出迎える犬さながらに玄関へ小走りで向かった。

「おかえりなさい……!」

 引きずられるように俺が玄関に着くのと、羽織がドアを開けるのとは、同じタイミングだった。
 だが、お陰で割とウケる光景を見ることはできたけどな。
 無論、言うまでもなくポカンと馬鹿っツラを見せた羽織のことだ。
「は……え! えぇ!? 葉月!!?」
「久しぶりだね」
「えぇーー! なんで!? どうして、ここに葉月がいるの!?」
「えっと……私ね、今日七ヶ瀬の入試だったの」
「えぇええー!?」
 ……あー、うるせー。
 葉月の姿を見た瞬間の羽織の顔が、笑えたからよしとしても……だ。
 やっぱり、イチイチ反応しすぎだろ。
 ま、気持ちはわからないでもないけどな。
 そういや俺、コイツに葉月が帰って来たこと連絡してねーや。
 今ごろになってそこを思い出したが、まぁ、いーだろ別に。
 結果として、ちゃんと会えたんだし。
 めでたしめでたし、ってことでまとめとく。
「あの……あなたが、羽織の彼氏さんですか?」
「え? あー、ええ、まぁ」
 ひと通り羽織との感動的対面を終えた葉月が、まじまじと……そしてほんの少しだけ何か期待した笑みをたたえながら、祐恭を見つめた。
 ……見るからに、祐恭が困ってる。
 うわ、フツーにおもしれー。
「……あ?」
 なんて、腕を組みながら傍観者よろしくニヤニヤしていたら、祐恭と目が合った。
 少しだけ戸惑ってるような……そんでもって、説明を求めてるような。
 そんな、コイツらしいアレ。
「従妹だよ。葉月」
「……へぇ。孝之にこんなかわいい従妹の子がいたのか。てっきり、優人みたいなヤツばっかりだと思ってた」
「お前までアキみたいなことゆーな」
 ち、と舌打ちしてからジト目を送るも、あっさりと笑い飛ばされた。
 ……ちくしょう。
 なんだか知らんが、優人のせいで、どーにも俺の株が下がっている気がしてならない。
 ものすごく貧乏クジ引かされてる気分だ。笑えん。
「初めまして。瀬那葉月です」
「こちらこそ初めまして。瀬尋祐恭です……って、名前は伝わってるかな」
「とても優しくて、羽織のことを大切にしてくださっていると、伯母さんたちからうかがってます」
「はは。それはありがたい」
 ああ、そういやンなこと話してたな。
 羽織がいないことを不思議に思った葉月が口にしたら、まるで井戸端会議のおばちゃん……いや、そもそも間違いじゃねーけど、お袋は嬉々として葉月に1から10まで教えていた。
 挙げ句の果てには俺たちの高校時代のアルバムまで引っ張りだし、説明する始末。
 それを見て確信。
 あー、こいつ暇なんだな、と。
「羽織のこと、よろしくお願いします」
「もちろん。……こちらこそ、よろしくね」
 ぺこっと頭を下げた葉月に祐恭が笑うと、心底嬉しそうな顔を見せた。
 さながら、羽織の母親みてーだな。
 ……ホンモノの親とは、大違いだぜ。
「…………」
 なんて思ってたら、キッチンにいたホンモノと目が合った。
 慌てて逸らし、何も悟られることのないよう話題も変える。
「お前もメシ食ってけば?」
「いや、迷惑だろ? 送ってきただけだし」
「でも、せっかくですから。……いろいろお話も聞きたいし。ね? 羽織」
「う!? ……う、ん」
 案の定とは思っていたが、断りかけたところですかさず葉月が合いの手を入れた。
 そして、弱みでもある羽織を引き込む。
 ……さすが。
 もしかしたら、葉月はやっぱり見抜いたのかもしれない。
 羽織さえ押さえておけば、きっと……なんて。
「祐恭君、いらっしゃーい。いつもありがとうね。どうぞ。上がって、ごはん食べていって」
「ありがとうございます」
 話を聞いていたらしく、キッチンからお袋も姿を見せた。
 去り際に『アンタ暇なら手伝いなさい』と言われた気がしないでもないが、気のせいってことにしておく。
「羽織も手伝って?」
「もちろん! ねぇ、葉月いつこっちに来たの? 連絡してくれればよかったのに!」
「ふふ。驚かせたかったの。ごめんね」
「もぅ、すごいびっくりした!」
 にっこり笑った葉月が、羽織の手を引いてキッチンへ向かった。
 普段はありえない光景。
 キッチンに並ぶ、ウチの女3人衆。
 ……あー。
 人数は俺たち男勢と変わりないんだが、多勢に無勢な気がするのはなぜだ。
 葉月が入ると、特にあのふたりが気をよくしていらんことまで口走りそうで不安だ。
 妙な力があるからな。ヤツは。
「葉月ちゃん、似てないな。お前と」
「まぁな。従妹っつっても……まぁいろいろある」
「ふぅん。いろいろあるから、お前みたいな黒さがないのか」
「……お前に言われたくない」
「俺? いや俺は汚れてないから」
「しばくぞ」
 『とんでもない』とばかりに、大げさなジェスチャーとともに首を振る祐恭を見て、割とデカ目に舌打ちが出る。
 俺とツルんでイケナイことしてたのは、どこのどいつだ。あ?
 高校時代、すぐそこで新聞読んでる借りてきた猫みてーな親父にこってり搾られただろうが。
「…………」
「……はは」
 そんな意味合いを含めてじっとりジト目を送ってやると、一瞬口を閉じてから苦く笑った。
 ……ったく。
 そりゃ、親父の手前ってのはわかんねーでもねーけど。
「でも、羽織ちゃんとは似てるよな」
「……あー。でも、アレくらいの年のヤツってみんなそうなんじゃねーの? ほら、紗那ちゃんも似てるだろ? アイツらに」
「ああ、そういやそうだな。……そんなモンか」
「そんなモンだろ」
 うんうんうなずきながらも、視線は祐恭と真逆。
 ゆっくりと大皿で運ばれてきたメンチを見たまま、喉が鳴る。
「……ま、どこでも共通なんだよな」
 早速、揚げたてのメンチをつまみながら相槌を返し、ひとくちほおば――……。
「っ……なんだよ」
「もう。何、じゃないでしょう?」
 ……りかけたら、いきなり手をつかまれた。
 俺よりもずっと小さいくせに、指の感触がいかにも“女の子”で昔と違う感じを受ける。
「たーくん、お行儀よくないよ?」
「……行儀悪いねー、お前」
「うるせーな!」
 ちくしょう。
 俺を見て祐恭がにやりと笑い、さすがに舌打ちする。
 なんだお前、そのやたら楽しそうな顔。
 ニヤニヤしやがって感じ悪いぞ。
「もう」
「なんだよ」
 祐恭を睨んだ途端、葉月がため息をついた。
 ……なんだその顔。
 お前まで祐恭の肩持つのか?
 などと考えていたら、案の定祐恭を見てから困った子を見るかのように俺を見た。
「瀬尋先生みたいに、ちゃんとお行儀よく待っててね」
「コイツのどこが行儀イイんだよ」
「少なくとも、たーくんみたいに『いただきます』をする前に手掴みでごはん食べたりしないでしょう?」
「さー、どーだかな。少なくとも、ここじゃやらねーだろーけど、普段は知らねーぞ?」
 まるで、『瀬尋先生の爪の垢でも煎じて飲んだらいいんじゃない?』と言わんばかりの顔をしている葉月に、べ、と舌を見せてから――。
「あっ!」
「……ウマ」
 隙をついてメンチを奪う。
 じゅわっと広がる、熱い肉汁。
 っかー…やっぱ、メンチはこの味だよな。コレ。
 いかにもって位じゅわじゅわ旨味があるほうが、食い甲斐があるってモンだ。
「……もう」
「ごっさん」
 ニヤリと笑ったのを見てか、くすくす笑った葉月も腰を落としてテーブルへ皿を置いた。
「そもそもコイツは教え子に手ェ出した人間なんだぞ? そんな人間の――……あ?」
 葉月を見ながらパクついていると、親父が小さく咳払いをした。
 風邪とかそーゆー感じじゃない、いかにも『咳払い』ってヤツ。
「……?」
 珍しいな。
 最後のひとくちを食べ切って指を舐めると、少しだけ居心地の悪そうな笑みを浮かべた。
「孝之。それは……俺も耳が痛いな」
「あ」
 忘れてた。
 そういえば、あのお袋も元々は教え子だったな。
 ………………ってことは。
「……しょーがねーな。恩師がそれじゃ教え子がそうなっても文句は言えねーってトコか」
「はは。文句を言うつもりはないが、ね」
「あ、そ」
 祐恭が済まなそうに頭を下げるのを首を振って制し、そのまま湯飲みを傾ける親父。
 ……どいつもこいつも。
 いろんな意味で、『それはどーなんだ』とツッコむべきところが多いんだが、多すぎるからこの辺でやめておく。
「さ、ごはんにしましょ」
「おー」
「いただきます」
 ようやく全員が席に着き、夕食が始まった。
 普段では、まず考えられない人数とメシの量。
 ……いつ以来だったっけな。
 こんなふうに、6人なんていう人数で囲む食卓は。
「だ!? オイ! だからそれは、俺が先に目をつけて――」
「なんだよ……いいだろ? 別に。名前が書かれてるワケでもなし」
「そーゆー問題じゃねーんだよ!」
「……もう。たーくん、こっちにたくさんあるでしょう?」
「だから、そーゆーことじゃ……!」
 まるで、ガキの喧嘩さながら。
 だが、そんな様子を見て葉月は楽しそうに笑った。
 しばらくすると、葉月の向こうでの生活を聞いたり、こっちでのそれぞれの生活を話したりと、いかにも団欒に移行していった。
 なんてことない他愛ない話でも、結構楽しいと思えた時間。
 これはこれで、有意義な使い方だと思う。
「…………」
 少なくとも、この場で笑みを見せている葉月は、本当の気持ちだろう。
 屈託なく笑う姿を見ることができて、心底ほっとした。
 どうしても頭にあるのは、あの……昼間の出来事。
 最後はそれでも笑みを見せてくれたが、まだ、絶対ではない。
 ……だから。
 だからこそ、もっとたくさん、葉月にとって心底安心する場と時間を増やしてほしかった。
 そうすることで、少しでも何かが変わるんじゃないか。
 単純だからか、素直にそればかりを考えていた。

「ご馳走さまでした」
「いいえー。気をつけて帰ってね」
 楽しい時間は、いつだって早くすぎる。
 恐らく、俺以上に羽織がそう思っているんだろうが、どうせ明日もまた会うんだろお前ら。
 ……学校で、だけど。
「じゃあ葉月ちゃん、またね」
「今日はありがとうございました」
「いいえ」
 羽織とともに外へ出た祐恭が、ドアを閉めようとしたとき。
 何かを思い出したかのように、葉月がドアに手を当てた。
「……あの、瀬尋先生」
「ん?」

「たーくんのこと、よろしくお願いします」

「っ……はァ!?」
 真剣な顔していったい何を言い出すのかと思いきや、まったく予想していなかったとんでもないこと。
 どうやらそれは祐恭も同じだったらしく、瞳を丸くしてからまばたいた。
 ……が。
「ん。わかった」
「待った」
 次の瞬間、まるで俺の弱みでも握り潰したかのように、祐恭は満面の笑みを浮かべて大きくうなずいた。
 ……くそ、いらんことしたなお前。
 軽く舌打ちしたあと、閉まったドアから葉月へと視線を移し、せめて文句のひとつでも言ってやろうかと思った……わけだが。
「よかったね」
「……あのな」
「瀬尋先生なら、安心だもん」
 ほっとしたようににっこり微笑まれ、結局何も言うことができなかったという……なんだかなぁな結果に終わった。
 甘いんだよな、俺。
 それはわかるが……どーにもな。
 ほんの少しだけ、恭介さんの親馬鹿過保護っぷりが理解できたような気がして、苦笑が浮かんだ。

「じゃあ、たーくんもがんばってね」
「つーか、お前は入試の結果教えろよ?」
「ん。わかった」
 いつもと変わらない、月曜の朝。
 だが、今はまだ隣に葉月がいる。
 ……今から12年前。
 豪州へ父である恭介さんとともに渡ってから、6年前の夏に一度だけ再会した従妹。
 そんな、今の日本からだいぶかけ離れている葉月とともに、今は冬瀬駅にいた。
 コイツが知ってる昔の駅舎とは違い、今では駅ビルも備えた大きな場所。
 どんなふうに映ってるんだろうな、こいつの目には。
「……あ?」
 などと考えていたら、改札に向かう幾人もの人々を見つめていた葉月が、俺を見上げて微笑んだ。
「羽織、本当に幸せそうで……とっても安心したの」
「あー……。アイツはまぁ、普段から平和だからな。いろんな意味で」
 今朝も、こうして葉月と駅に来る前に、ギリギリで起きた羽織を学校まで送ってやった。
 ……あー、なんてイイ兄貴なんだろう。
 我ながら、普段の自分とはまったく違って笑える。
 アイツも感謝するんだな。
 葉月のお陰だぞ、マジで。
「瀬尋先生、とってもいい人だったし……羽織はもう、大丈夫だね」
「どーだか」
「……もう。またそうやって……」
 なんで、葉月はよく知りもしないあの祐恭のことをあっさり認めてんだ?
 そりゃ、昨日の夜遅くまで羽織とふたりで何か話し込んでいたのは知ってるが、だからって、情報は彼女である羽織からしか入ってねーんだぞ?
 二重も三重も、色眼鏡が通されていることなど百も承知なのに。
 ……って、葉月は素で真に受けてそうだけどよ。
 恐ろしい。

「次は、たーくんだね」

「は? 何が」
「幸せになる番」
 にっこり微笑んで俺を見上げた葉月に、ふっつーの顔のまま首を振る。
 すると、なぜだか知らないがものすごく不満そうな顔をした。
「俺はまだいい」
「……もう。どうしてそんな……」
「つーか、俺より葉月だろ? 俺の幸せなんてモンは、妹どもが幸せになったら――」
「たーくん」
「っ……!」
 なんの前触れもなく胸元に手を当てられ、がらにもなく喉が鳴る。
 あっちを向いていたのに真正面から目が合い、突飛な行動に思わずどきりとした。
「ダメだよ? そんなふうに自分をあと回しにしたら」
「いや、お前が言うなよ。その台詞、そっくりそのままお前に返すぞ」
「う……私は……がんばるから」
「何を」
「……自分のこと。お父さんに、ちゃんと教えてもらってくるね」
「っ……」
 瞬間。
 眉を寄せて俺を見つめていた葉月が、ふっと表情を変えた。
 それは、ほんの少しだけ寂しそうで。
 だけど……穏やかで。
「……お前……」
「もう……そんな顔しないで。私は大丈夫。たーくんが励ましてくれたから……大丈夫だよ?」
 もう無理はしないから。
 そう言って緩く首を振ったのを見て、ほんの少しだけ自分にも笑みが戻った。
 一瞬、『あ』と思った。
 だが、先日こっちに来たあのときとは違い、表情が柔らかくなっている。
 ……少しは効果があったみたいだな。
 それがわかって、自分でもほっとする。
「だから」
「っ……なんだよ」
 びしっと鼻先に指を突きつけられ、思わず喉が鳴った。
 ……背が低いクセに、なんとなく妙な威圧感があるなお前。
 羽織というよりは、どっちかっつーとお袋系。
 そのせいか、情けなくも一瞬どきりとする。
「たーくんも、ちゃんと自分の幸せを見つけて。ね?」
「……うるせぇな。わーったわーった」
 意外と妙なところにこだわるな、お前。
 適当にあしらおうとヒラヒラ手を振ったものの、ちゃんと目を見てうなずくまでは、ひたすら『本当に?』なんて疑惑の目を俺に向けていた。
 相変わらず、律儀っつーか、真面目っつーか。
 まぁ、あくまでも思うだけで見習えないが。
「……あ、それじゃあ私……そろそろ行くね」
「ん? ああ。それじゃ、恭介さんによろしくな」
「うん」
「あと――」
「え?」
「……いつでも電話してこいよ」
 葉月に課した宿題は、きっと双方にとって大きな意味を持つ。
 だが、こいつは知らなきゃいけないし、恭介さんは伝えるつもりで腹をくくった。
 部外者の俺にできることは、そのどっちもを支えるだけ。
「ん。ありがとう」
「気をつけて帰れよ」
「うん」
 改札まで送り届けると、切符を入れたものの改札で一瞬戸惑ったのが見えて笑いが漏れた。
 しっかりしてるようで、意外なとこつまずくよな。
 相変わらず、改札からもう数メートル離れたというのに何度もこちらを見ながら手を振る姿は、律儀……いや、馬鹿丁寧というか。
 ま、それも葉月のいいところなんだろーけど。
「じゃあな」
 同じように手を挙げて振り返してやると、嬉しそうに笑ったのが見え、そのたびに俺もほっとしていた。
 たった数日の滞在。
 だが、少なくとも十分に有意義な濃い時間を過ごせたんじゃないかと、勝手に思う。
 少しでも葉月の負担が軽くなったんじゃないだろうか。
 我ながら自画自賛だとは思うが、そう締めくくっておく。
「……うわ! ヤベ」
 階段を上がってホームに消えていった葉月を見送ってから、何気なくスマフォを見た瞬間、それはそれはギリギリの時間が目に入った。
「っぶね……!」
 週明け早々遅刻じゃ、シャレにならん。
 ただでさえ、この前の書庫整理中半分邪魔しに行ったような身だからな。
「間に合えよ……!」
 慌てて車に戻ってから、乱暴にドアを閉めてエンジンをかける。
 ――と、そのとき。
 メッセージの受信を知らせる音が響いた。
 表示された差出人は、葉月。
 ……葉月!?
 まさか、何か置いてきたとか!?
 慌ててロックを解除し、アプリを立ちあげる。
 が、それをした瞬間、思いもよらないものが目に入り、ごくりと喉が鳴った。
「なんで……」
 アイツから送られてきたのは、ふたつ。
 ひとつは、いつ撮ったんだか知らないが、寝ている俺の写真。
 そしてもうひとつは――こっちが大問題だな。
 たったひとことにもかかわらず、破壊力すさまじい文面なんだから。

 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

 ……オイ……。
 オイオイオイオイオイオイ……!
「は……ァ!?」
 思わず口に手を当てたのは、言うまでもない。
 これは、百人一首の歌人のひとり、柿本人麻呂の歌。
 歌……なんだが、いや、ちょっと……ちょ、待て。
 なんだ。
 いったい何がどうしてこーなった。
「……っ……やべ!」
 まじまじと画面を見ていたら、右端に現在時刻がキッチリ表示されているのが見えて、慌ててギアを入れる。
 いや、だから、その……考えてる時間はないっつーか……だから!
 ………………。
 ……え、これって……アレか。告白……とか?
 って、いやいやいや。
 ンなハズない。
 そんなハズがないのは、百も承知ではあるんだが――。
「…………しょうがねぇな」
 ここはひとつ、アイツに応えてやる。
 いったいどういうつもりなのかは、わからない。
 わかりはしないが……それでも。
「……っと」
 返歌として、何が適切か。
 考えるまでもなく浮かんだ、同じく百人一首に寄せられている三条右大臣の歌。
 アイツは、俺の次に国語馬鹿だからな。
 この意味がわからないんじゃ、話にならん。
 ましてや……だぞ?
 ましてやアイツは、あんな歌を送って来たんだし。
 ってことは、まぁまず間違いなくこの歌の意味も知ってるだろう。
「っし」
 送ってすぐ葉月の既読が付いたのを見てスマフォを放り、アクセルを踏み込んでロータリーを抜ける。
 コレを見たアイツがどんな顔をしているのかなんとなく想像できてか、笑いが止まらなかった。
「……さて」
 次にアイツと会うのは、いつになるかわからない。
 だが、そのとき俺になんて言うか考えると……やっぱ、笑えるワケで。
 ……増えたな、楽しみが。
 ま、なんでもいいんだよ。
 物事を素直に受け取るアイツが、素直に受け取って笑ってさえくれればそれで。
 独りでに漏れる笑みを噛み締めながら、急ぎめに駅とは反対方向の職場へと車を走らせることにした。

 ――それからしばらく経った、ある日のことだ。
 我が家に1本の電話が入ったのは。
「あらぁ、ホントに? さすがだわー」
 どうやら、葉月からの合否結果らしい。
 ……まぁもっとも、お袋が嬉しそうに話しているのを見れば、結果がどっちかなんぞ聞かなくてもわかるんだ、が……。
「孝之、ルナちゃん」
「っ……」
 そそくさと部屋に戻ろうかどうしようか、一瞬迷った瞬間。
 何も知らないお袋が、葉月に促されるまま俺へとバトンを回してきた。
 ……そりゃ、正直何を言われるのかと気にはなる。
 気にはなるが、まぁ……やっちまったモンは、しょーがないワケで。
「おめでとう。受かったんだって?」
 受話器を取り、まずは無難に切り出しておく。
 いろいろ聞かれるのは面倒と踏んで、先に伝えるのは職業柄のひとこと。
「ようこそ、我が七ヶ瀬大学へ。しっかり手続きして、春からの学生生活思う存分に謳歌しろ」
 ストレートに言葉をぶつけると、一瞬息を呑んだ葉月は、またいつもの調子で『ありがとう、たーくん』と笑って答えた。

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