「ワリ。遅くなった!」
「ごめん!」
 ざぁっと勢いよくシートの前へ駆け込むと、膝を抱えるようにしながら、ふたりは座っていた。
 いわゆる、体育座り。
 まるで拗ねているかのように見え、純也と祐恭は顔を見合わせてから喉を鳴らす。
「遅くなった……だぁ?」
 日焼け止めを塗りながら厳しい視線を純也に向けた絵里は、持っていたそれをシートに叩きつけた。
 途端、じゃりっと砂が散り、純也が『う』と一歩後ずさる。
 明らかにそれは防衛反応からくるモノで、彼女の怒りがどれほど大きくなっているかを察知しているようだった。
「ジュース買いに行っただけで、なんでこんなに遅くなるワケ? はぁ? アンタ、どこまで買いに行ったのよ! えぇ!?」
「いや、だから、その……ちょっとしたアクシンデントがあってだな――」
「アクシデントなんてあるかぁっ! だいたいね、言い訳するって何? 馬鹿じゃないの!? 馬鹿よ、馬鹿! 大馬鹿!!」
「悪かったって! でも、別に――」
「別にじゃないわよっ! 女ふたり残して……ッ……」
「……絵里?」
 思わず、純也が目を見張った。
 いつも強気の絵里の瞳に、薄っすらと涙が滲んでいるように見えたからだ。
「なんだよ。どうした? 何かあったのか?」
「……なんでもない」
「いや、でもな」
「なんでもないったら!」
 慌てて膝をつき、その顔を覗き込む。
 だが、絵里は首を横に振るだけで、それ以上口にしなかった。
 それどころか、羽織の手を取ったかと思うと、そのまま海へと行ってしまう。
「っ……」
 そのとき。
 祐恭と目が合った羽織もまた、寂しそうな顔をしていた。
 決して、責めているわけではない。
 だが、どこか『どうして?』と訴えているような、そんな顔だった。
「……何かあったのか……?」
「でしょうね」
 眉を寄せて顔を見合わせてから、手を繋いだまま波打ち際で話している彼女らに目を向ける。
 だが、やはりその顔は笑っていない。
 なんとなく浮かぶ、嫌な予感。
 数分で済ませるつもりが、意外と時間がかかってしまった。
 その間に、彼女らに何かあったんだろう。
 ……何か、嫌なことが。
「ねぇ、まだ待ってんのー?」
「そーそ。だいたいさ、ツレなんて来ないじゃん。だからさぁ、一緒に――」
「……は?」
 軽薄そうな声に振り返ると、そこには高校生とおぼしき輩がふたり立っていた。
 男、ではない。
 明らかに、少年、だ。
「……あれ……?」
「えっと……間違えた?」
 慌ててきびすを返そうとしたふたりを、純也と祐恭がやすやすと帰すはずがない。
「ほお……?」
「うわっ」
「何か知ってるみたいだな、お前たち」
 彼らの肩に手を置いてからにっこり微笑むと、引きつった顔でこちらを振り返った。
「アイツらに何かした?」
「……へっ? い、いや、俺たちは何も……」
「本当のことだけ言ったほうがいいぞ。タダで済むと思ってないよな?」
「うわっ、ちょ……!? マジ、やめてくれって!」
 ぎりぎりと手に力をこめるにつれ、瞳が細くなっていく。
 途端、慌てたように彼らが首を振った。
 いわゆる、仁王立ち。
 両手を組んで彼らの前に立つと、熱い熱い砂の上に少年らは律儀に正座した。
「ま、まさか本当にいるなんて思わなかったんだよ! 俺たち別に――」
「そ、そうだよ! 男がいるってわかってたら、声なんてかけなかったし!」
「……お前らがしつこく迫ったんだな。どこの学校だ。静岡か? 神奈川か?」
「うわ、勘弁してくださいよ!」
「学校にまで言われたら、俺――」
 泣きそうな顔で懇願してくるひとりを見ていた祐恭が、何かに気付いて顎に手を当てた。
「……お前……橋本?」
「え? 祐恭君知ってるの?」
「ええ。こいつら、冬瀬の3年ですよ」
「え!? な、なんで俺たちのこと知って――」
「あぁああーー!!? せ、瀬尋先生!!」
 立ち上がって指差され、思わず祐恭も苦笑を浮かべるしかなかった。
 まさか、わざわざこんな遠くのビーチまではるばるナンパしにやってくるとは。
 お前たちはどれだけヒマなんだ。
 思わず口からそんな言葉が出かかった。
 ――が、相手が生徒だとわかれば、こっちのモノ。
 途端、容赦なく教師ぶることができる。
「お前たち、この夏は天王山って言われなかったか? こんなところで遊んでるヒマあったら、家に帰って勉強しろ」
「そうだぞ。受験生にとって最後の夏休みが正念場なんだ。受験生が遊んでてどうするんだ?」
 祐恭に続いて、純也まで。
 くどくどと“受験”というもっとも嫌であろう言葉を並べ立ててやると、ふたりは顔を見合わせて小さくなった。
 まさか、こんなところで教師に会うなどとは思ってもなかったのだろう。
 もちろん、それは祐恭たちも同じであるが。
「……すみませんでした。でも、なんで先生がこんなトコにいるの?」
 ぎく。
「つーか、え? もしかして、さっきの子たちって……彼女?」
 ぎくぎく。
「……ごほん。馬鹿だな、お前たち。こういうことがあるから、わざわざ見回りしてるんだろ?」
「そーそ。海で絡まれる生徒が多いから」
「……ふーん。まぁいいや。それじゃあ、学校には絶対内緒ね!」
「それは行い次第。まぁ、せいぜい休み明けのテストがんばれよ」
「うっ」
 痛いところを突かれて一瞬焦った純也と祐恭だが、そのあたりは年の功。
 のらりくらりと事実から遠ざけ、頭を下げて立ち上がったのを見て、胸を撫で下ろす。
「じゃあね、センセー」
「ちゃんと帰れよ」
「うぃーす」
 手を振り、頭を下げてから去っていった彼らを見送り、腕を組み直す。
 こういうとき、大人はある意味ズルい。
 ……と、その立場になって改めて思う。
「まさか、冬瀬の生徒だったとはな」
「ですね。こんなトコにまで来てナンパしてるとは」
 苦笑を浮かべながら顔を見合わせ、改めて波打ち際にいる彼女たちへ視線を向ける。
 すると、先ほどまで遊んでいた場所ではなく、そこから少し離れた場所でボートに乗ってのんびり浮いているのが見えた。
「……やるか」
「ですね」
 そんな様子を見て顔を合わせ、にっこり笑ってからそのボートへとゆっくり歩み寄る。
 決して気付かれてはいけない。
 阻まれてはいけない。
 目的は、ただひとつ……ボートの“転覆”。
 そうとは知らずに、互いの彼女たちはのんびりボートの縁へ頭を乗せながら、ゆらゆらと波を楽しんでいた。

「なーんか、あのふたりって私たちのこと、ないがしろにしてない?」
「……そうかなぁ」
「そーよ! なんだと思ってるのかしら。ウチらのこと!」
 青い空。
 雲が少ないせいかやけに広く見えて、心地いい。
 とはいえ、幾ら見続けていても心が晴れないのは確か。
 寂しいかな、恋するオトメ状態である。
「あーあ。詩織がちょっと羨ましいな」
「しーちゃん?」
「そーよ。きっと今ごろもべったり一緒にいるんだろうし。何より、山中先生だったら、しっかり自分だけ見ててくれそうじゃない?」
「……あ、それはあるかもね」
「でしょ!? ったく。いまさらだけど、男って制服に弱くない? ほら、この間のウェイトレスとか」
「んー、そういうものかなぁ?」
「その点、山中先生はさすが純情だけあって、ほかに目が行かないもんね。絶対離しません、的な」
「あー……うん。ちょっと強いかもしれないけれどね」
「いいのよ! そのくらい、がしぃっとしてても! だいたい、海よ? 海! そんなナンパし放題のがっつがつ男子しかいないような場所でよ? フツー、女の子だけ残して行っちゃわないでしょ。絶対!」
「……うん。それは……ちょっと」
「でしょ!? だいたいさ、残してったら残してったで、とっとと帰ってきなさいよっつの! どこほっつき歩いてんのよ! えぇ?」
 お互い、思ったことを口にし終えたところで、どちらともなくため息が漏れた。
 大きなボート。
 その上にふたりで並んでいると、普段の生活とはまた違って気持ちが大きくなる。
 そのせいだろうか。
 絵里が、羽織を見てから何か決めたかのように口を開いた。
「ナンパされてみるか」
「え……本気?」
「そ。だいたいね、あのふたりは私たちが絶対ついていかないっていう妙な自信持ってるから、ほっといてるのよ。多分。だからさ、そうしてみれば、いくらあのニブチンふたりも、気づくんじゃないかなって思うんだけど」
「……うーん……でも、すごく怒られちゃうんじゃないかな?」
「いーのよ別に。見せつけるためのモノなんだから。それに、どうせナンパなんて遊び――!?」
 途端、足を乗せていたボートの縁が思い切り上がり、ちょうどよくきた波がぶつかった。
「!?」
「!!」
 視界が一変する。
 頭から海に落ち、耳からはゴボゴボという水中音。
 慌てて立ち上がると、首から上がやっと出る深さだった。
「なっ……ごほごほ!」
「けほけほっ! ふぁ……びっくりした」
 口いっぱいに広がる、濃い塩の味。
 苦くて、しょっぱくて、思わず舌が出る。
「っ……」
「……な……!」
 顔を見合わせていたら、いきなり笑い声が聞こえた。
 ひとつではない。
 もうひとつ、似たような声が伴う。
「ったく。何を話してるのかと思ったら、そんな話しやがって。天罰だな」
「不謹慎だな、ふたりとも」
 驚いてそちらを見ると、ニヤニヤと意地悪そうな顔で笑っているふたりがいた。
 今のは、偶然でもなんでもない。
 彼らがやった、必然的なこと。
 そうわかった途端、絵里の怒りはある意味ピークに達した。
「わぶ!」
「……ふっざけんじゃないわよ……!」
 ばしゃーん、と思い切り純也の顔目がけて水を飛ばした彼女が、前髪をかき上げてから水面を激しく叩いた。
 もちろん、その手は握りこぶし。
 ふるふると震えているのは、怒りのせいで間違いない。
「馬鹿かぁ!! あのねぇ! ウチらがどんな思いして待ってたと思ってるの!?」
「だから、それは謝っただろ!」
「謝って済む問題じゃないわよ! こっちは、うっさい男に絡まれて、めちゃめちゃヤな気分だったってのに!」
「……あー、アレな。追い払っといたぞ」
「追い払っといた、じゃないわよ! 馬鹿!」
 ひらひらと手を振ってあしらったのが気に食わなかったのか、絵里は純也を睨みつけてから羽織の手を引いて浜へと向かった。
 その背中へ水をかけてやるものの、フン、と鼻であしらうだけでそれ以上は何も言わず。
 手を引かれている羽織も、祐恭を見はしたものの、同じく何も言わなかった。
「何怒ってんだ? アイツ」
「……なんか、マズイですね」
「…………」
「…………」
「……やっぱり?」
「多分」
 ぼそりと呟いた祐恭の言葉に、純也が彼を見てから眉を寄せる。
 内心、彼も感じてはいた。
 だが、祐恭の言葉でハッキリする。
 今のうちに修復しておかないと、恐らく大変なことになる、と。
「なぁ、何怒ってんだよ」
「…………」
「機嫌直して、昼飯食べに行かない?」
 あえて背を向けて座っている彼女らへ近づき、それぞれ声をかける。
 ――と。
「おい、絵――」
「あっ、あの!」
 そのとき、ふたりにとっては見覚えのある女性が声をかけてきた。
 まじまじ顔を見ると、つい先ほどの件で助けてやった、女性たち。
「あー、さっきの」
 その顔を見て、純也はうっかり今までとは違った声で対応した。
 だが、それを聞き逃す絵里のはずはない。
「先ほどは本当にありがとうございました! あの、よかったら一緒にお昼とかどうですか? さっきのお礼もしてないし……」
「いや、でも連れがいるから」
「え?」
 純也が指差した先。
 そこを女性らが見ると、先ほどまでとは打って変わって、にっこりと怪しげな笑顔を浮かべた絵里と羽織がいた。
 ――だが。
「う」
 彼女らではなく、純也たちに向けたのは、それはそれは凍てつくような冷たい眼差しと嘲笑だった。

 ナンパかお前……!
 ほぉおおぉおう? どーりで遅いワケよね。
 へぇえええええ。
 あぁーそぉー。
 アンタら、揃いも揃ってナンパしてたワケ?
 彼女ほったらかしといて、ヤることだけヤってたってワケかコラぁあああ!!!

 ギラリ、と光った絵里の瞳は、間違いなくそう告げていた。
 途端、純也がぎくりと一歩後ずさる。
 並々ならぬオーラが見えたから、だ。
 絵里から発せられている、恐ろしい程の何かが。
「えー、人違いじゃないですかー。ねー? ウチら、ちゃんとした彼氏いるし。……あ、そろそろお昼でも食べに行こっかー」
「え? あっ……そうだねっ」
 固まっている男ふたりをよそに、彼女らは勢いよく立ち上がり、とっとと海の家のほうへと足を進めた。
 その態度は、明らかに“他人のフリ”モード一色。
 声をかけられる雰囲気など微塵もなく、その背中にはどこか男らしささえ感じられた。
「な……」
「……うわ」
 絵里はともかく、羽織まで。
 ぽかん、と口を開けたふたりを、そこにいた女性らは顔を見合わせてからにっこりと微笑んだ。
 気持ち、楽しそうに。
 そして――……ある意味、狩りを始めるかのような仕草で。
「ね、いいでしょ? ごはんだけだからー」
「そーですよー。ちょっとだけだから……ねー?」
 ぐいっと手を引き、絵里たちが向かった海の家へと足を向ける。
 その姿を見ながら顔を合わせた男ふたりは、深々とため息をつきながら、仕方なく同じ場所へと一歩踏み出すことにした。


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