なんとなく、気だるい。
 うっすら瞳を開くと、そんな感覚が身体を支配していた。
 でも、目の前のものを見ようとした瞬間、ぼーっとしたままの頭が突然覚める。
「っ……」
「……ん……」
 すぐ目の前で安らかに眠る、祐恭先生の顔が飛び込んできたんだもん。
 小さく喉から漏れた声に、もの凄くドキドキして頭が覚めた。
 眠ってる……と、思う。
 それでも、先生ってばたまに寝たふりをしてるから、つい確かめたくなるんだけど。
「…………」
 しっかりと閉じられている瞳。
 うっすらと開いた唇。
 それこそ、寝起きどころか寝ている彼を見ることなんてほとんどないからか、見ているだけで愛しさがこみあげてくる。
 いつもは見せてくれないようなあどけない表情に、思わず顔がほころんだ。
 かわいいなぁ。
 なんて言ったら、怒られるかな。
 ううん、彼の場合はきっと困ったように笑ってくれると思う。
「…………」
 しげしげと見つめていると、昨日の夜のことがふいに蘇る。
 今はこうして眠っている彼だけど、その指が、唇が、自分に触れて――……。
「……っ……」
 恥ずかしさがこみあげ、まともに顔を見れなくなった。
『……羽織……っ』
 切羽詰まったあのとき。
 彼が呼んでくれた自分の名前は、まるで魔法の言葉のような気さえする。
 耳に残って離れない、切なげな声。
 あのときと同じ快感にも似たものが、ぞくりと背中を駆ける。
「……!」
 少し肌寒いのに気付いて肩に手をやると、自分がショーツしかつけていないことに今ごろ気がついた。
 お布団をかぶってはいるものの、そういえばあのあと浴衣を着直した記憶はなくて。
 ……わ。
 隣で寝息を立てている彼も、浴衣は着ていない。
 ……動いたら、起きちゃうかな。
 もう少し寝顔を見ていたいものの、やっぱり気恥ずかしさが先に立った。
 もぞもぞと浴衣を探ると、足元に感触。
 彼に背を向けてそれを引き上げ、胸元に抱き寄せると、それだけでほっとした。
「っ……!」
 ――と、彼の腕が身体を通って、後ろから抱き寄せられる形になった。
 ぴったりと、背中が彼の胸に当たる形。
 一瞬、びくっと反応しちゃったものの、規則正しい寝息は聞こえていて、きっとまだ寝ている……んだとは思う。
 まだ眠ってるよね?
 そう思えば、ちょっぴり安心。
 別に、彼が起きたら不安だとかそういうことじゃないけれど、昨夜のことは事実だから、顔を合わせるのがやっぱり恥ずかしかった。
 彼に与えられる快感に対して漏れる言葉は、どれもが自分のものではないような気がするほど、大胆なものばかり。
 ……起きたらなんて言おう。
「わっ!?」
「……い……」
「え?」
 さらに引き寄せられ、耳元で何か聞こえた。
 …………。
 ……。
 暫くの沈黙。
 寝言……かなぁ?
 規則正しい寝息が耳にかかって、それがくすぐったくて身をよじる。
「…………」
 胸元にあった彼の手を取り、そっと見てみる。
 大きくてあたたかくて、大好きな手。
 自分は手フェチなのかもしれないなどと思いながら指をなぞると、くすぐったそうにぴくりと反応した。
 小さく笑ってから、指を絡めて手の甲をまじまじと見てみる。
 きれいに揃った爪と、男らしいごつごつと関節の目立つ長い指。
 彼がペンを持っているときも、パソコンに向かっているときも、ハンドルを握っているときも……そして、自分に触れてくれているときも。
 様々な表情を見せてくれて、いつも魅了されてきた。
 こうして手を繋いでいると、なんだかとても幸せな気分になる。
 彼の髪も、瞳も、指も……もう本当に彼のすべてが好き。
 人を好きになるというのはこういうことなんだろうな、なんて改めて実感する。
 これまでも、誰かを好きになったことはもちろんあるけれど、キスをしたり抱きしめられたり……すべてを見られて愛されたりするのは、これまでに一度もなかった。
 だからこそ、余計に愛しいのかもしれない。
「……えへへ」
 むにむにと両手で彼の片手を包み、マッサージのように押してみる。
 なんとなく、ただ握ってるのがもったいなくて、あれこれとしてみたくなってきた。
 ……と、親指の付け根に少し硬い感触。
「……?」
 自分の手にはない、硬い部分。
 筋肉かな。
 でも、どうしてこんなところに? とも思うけれど、違うのかなとも思う。
 コリ?
 だとしたら、相当凝ってることになっちゃう。
「……んー?」
 眉を寄せてまじまじと見るものの、やっぱりわからない。
 あとで聞いてみよう。
 次に興味が向かうのは、指。
 男の人にしては、少し指が長くて細いような気がする。
 とはいえ、自分の中で比べる相手はお父さんかお兄ちゃんしかいないんだけど。
 実際に触ったことがあるのはそのふたりだけだし、あとは目で見ての感想でしかない。
 ていうか、そもそも手をつないだことがあるのなんて、自分がかなり小さかったころなんだよね。
 だから、あのころは誰の手も大きくて……って、それじゃ比べようがないなぁ。
 人差し指で、つつっと彼の指の輪郭をなぞっていくと、途端に手が払われた。
「……くすぐったい」
「え?」
 耳元でぼそりと呟かれて振り返るものの、変わらず彼は瞳を閉じている。
 でも、今の声は寝言じゃない。
 ……起きてる。多分。
 ううん、絶対。
 それがわかった以上、このままでいるわけにはいかない。
 そう思ってから、彼の手を“チョキ”にしてみる。
「…………」
 無反応。
 続いて、“きつね”。
「あはは、かわいい」
 ……ぅ。思わず、自分が反応しちゃった。
 自分でやっておいてなんだけど、かわいいものはかわいいんだもん。しょうがないよね。
 普段の彼からは想像つかないし。
「…………」
 それでも、無反応。
 続けざまに、“かたつむり”、“犬”、“かに”、“はと”をやってみたけれど、全部無反応だった。
「もぅ……」
 仕方なく、手を取ってから……そっと手の甲に唇を寄せる。
 グリム童話とかで、王子様がお姫様の手を取って口づけをするような、あんな感じだ。
「っ……!」
「あ。起きました?」
 ただ口づけただけでは反応を示さなかったので、軽く舐めてみた。
 昨日、何もできなかったから、そのお返しのつもりで。
 すると、さすがの彼もびっくりしたように、手を引っ込めた。
 それを見て振り返ると、目を丸くした彼がいて。
「寝たふりなんか、してるからですよ?」
「……別に寝たフリしてたわけじゃないよ。かわいくて、タイミングが掴めなかっただけ」
「……きつねがですか?」
「はは、まさか」
 きょとんとした顔で呟くと、声をあげて笑われた。
 何か変なこと言ったかな?
 なんて思ってからもう1度彼を見ると、優しく微笑んだ。
「人の手をまじまじと見て何かしてたから、邪魔しちゃ可哀想で」
「……え……いつから起きてたんですか?」
「んー……抱き寄せたあたりかな。羽織ちゃん、もぞもぞしてたでしょ?」
「……っ、え! あのときから起きたんですか? もぅ……言ってくれればいいのに」
「かわいかったから」
「あっ」
 ぎゅっと抱きすくめられて、彼の両腕が身体に回る。
 鼓動が、背中から身体に響いてくる。
 落ち着いた鼓動のはずなのに、逆にこちらはどきどきとさせられてしまって。
 結局、引き寄せた浴衣を着ることはできず、背中に彼の体温を直接感じながら、しばらくどうすることもできなかった。
「おはよ」
「……おはようございます」
 耳元で囁かれ、そのままでこちらも挨拶を口にする。
 ……どうしよう。
 でも、さすがに彼を振り返ることはできない。
「ッ……! んっ」
 などと思っていたら、うなじへいきなり彼が唇を当てた。
 弱い部分でもあり、まったく予想していなかったこと。
 それだけに、思わず敏感に反応してしまった。
「……えっち……」
「朝の挨拶」
 顔だけでそちらを振り返ると、昨日と同じく優しい顔のままにっこりと笑われた。
 そのまま頬に口づけた彼がゆっくりと上半身を起こし、今度は私を仰向けにして覆いかぶさるように、にっこりと微笑む。
 ……う。胸、見えちゃいません?。
 昨日の今日でそんなことを思うのもどうかと思うけれど、でも、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「ぁ……」
 ゆっくりと下りてきた彼の唇が、ちゅ、と音を立てて唇を吸ってから、舌でなぞった。
 薄く開いた唇の隙間から舌が入りこみ、味わうかのように深く口づける。
「……ふ……」
 ゆっくりと顔を離され、思わずほうっとした顔で瞳を合わせる。
 途端、どきどきがぶり返して。
 今、口づけられたばかりの唇を軽く噛むと、彼が小さく笑ってから先にお布団を出た。
「……わ」
 浴衣を抱くのが精一杯だった私とは違い、彼はしっかり浴衣を纏っていた。
 それだけじゃない。
 帯まで締めている。
 ……いつの間に。
 さっきまでは、ダイレクトに肌を感じていたような気がしただけに、彼の姿を見てかなり慌てた。
「ん?」
「あ……えっと、なんでもない……です」
 窓際へ歩いて行った彼の隣に並ぶと、いつもと同じ顔の彼と目が合って気恥ずかしくなった。
「……えへへ」
 だけど。
 抱き寄せるように肩を引き寄せてくれてから、そのまま髪に指を通してすくわれて。
 そんな彼へ、いつしか自然と身体を預けていた。

「今日はもう海に行かない」
 チェックアウトのためにロビーに下りたとき、挨拶の次に絵里が言った言葉がそれだった。
「え……? なんで?」
「……とにかく。今日はもう帰りましょ。なんか、疲れたし」
「……?」
 首を振る絵里が不思議でしかなくて、顔を覗きこんでみる。
 けど、まったく視線を合わせようとしない。
 ……?
 もしかして具合でも悪いとか?
 だとしたら心配だけど、隣に立つ田代先生を見ると肩をすくめるだけだった。
「もちろん、羽織ちゃんたちはまだ残ってもらっても構わないんだけど」
 小さく咳払いをする田代先生を、祐恭先生が見つめた。
 ……ん?
 よくわからないけれど、にっこり笑い合った様子を見ても、さっぱりわからない。
 でも、彼は何かをつかんだようで、口元に手を当てながら改めて笑った。
「それじゃ、チェックアウトしたら少し散歩でもして帰りましょうか」
「……ごめんね、祐恭君」
「いいえ。いいですよ」
 カウンターへ向かったふたりを見ていたら、祐恭先生が何か言いたげな笑みで私を見下ろす。
「なんですか?」
「羽織ちゃん、今日も海へ行きたかった?」
「きれいな海なんですもん。それに、昨日はちゃんと遊べなかったっていうか……むしろ、絵里が散々ごはんのときそう言ってたので、なんでかなぁって」
 そう。
 昨日の夕飯のとき、絵里は散々『明日は早い時間から浜に行っていい場所取るわよ!』と言っていた。
 だから、もしかしてやっぱり体調でも悪いんじゃないかと心配になる。
 でも、田代先生と話す絵里の後ろ姿を見ているとそうは思えなくて、だからこそどうしたのかなって心配になった。
「え?」
 小さく笑った彼が、耳元へ唇を寄せた。
 いわゆる、内緒話の格好。
 近く感覚に、くすぐったくて背中が震える。
「え……えぇ!?」
 ぽそり、と聞こえた内容に、思わず大きめの声が出た。

『昨日困った場所以外にも、色々付けておいたんだけど』

 一瞬なのことかわからなかったけど、目を見てにっこり笑ったあと、どこか得意げに口元へ触れたのを見て、はっと気づく。
 きっと、その瞬間の顔は相当情けなかったんだと思う。
 くすくす笑ったかと思いきや、『反応がかわいいね』と言いながら大きく肩を震わせたから。
 うぅ……もぉやだ恥ずかしい。
 ということはきっと、そういうことなんだよね。絵里の理由も。
 昨日あんなに遊びたがってたんだもん。
 不機嫌そうなのは、仕方ないとも思えた。
「もぅ……」
「大丈夫だよ。今日の服なら見えないから」
「そういう問題じゃないですっ!」
 暑いのは時期だからなのか、それとも熱くなってるからなのかはわからないけれど、慰められてもちっとも喜べない。
 うぅ、夏場って結構襟ぐりの広い服しか持ってないのに。
 ……とはいえ、まさかそんな悩みをするようになるなんて思わなかった。
 去年どころか、春先までは未経験も未経験で、悩みのうちに入ってくるようなことじゃなかったんだもん。
「ん? 何?」
 ひとしきり笑った彼を見つめていたら、いつものように穏やかな笑みで応えた。
 そういうところがとっても大人に見えるけれど、でも、だからこそ反応を崩してみたいとも思う。
「え?」
 身長差があるので、耳もとで囁くことはできない。
 でも、つま先立ちで彼がしたのと同じように手を伸ばすと、少しだけこちらへかがんでくれた。

「今度、私にも付け方教えてください」

 ぽそりとつぶやいたにもかかわらず、彼は意外どころかかなり驚いたような顔で私を見つめた。
 えっと、え? そんな?
 そんなにびっくりされるようなことを言ったつもりがなかっただけに、逆にこっちが驚く。
 ああ、もしかしたら、さっき私は今の彼みたいな顔をしていたのかもしれない。
「……先生?」
「はー……いけない子」
「えぇ!? な、ななっ、なんでそうなるんですかっ」
「そんなセリフどこで覚えたの?」
「せり……えぇ? そんなにいけないことでした?」
「何も知らないような顔してるのに、いけない子だな」
「うぅ……」
 口ではそう言っているものの、表情はまったく違うの。だから困る。
 そんな、ニヤニヤしながら言われたら、ああ言っちゃいけないことだったらしいと気づいちゃうじゃないですか。
 でも、私ばっかりされるのはなんだか違う気がしたんだもん。
 とはいえ、教えてはもらえなさそうだということもわかった。
「お待たせ。それじゃ、行こうか」
「あ、帰りは運転しますよ」
「そ? じゃ、よろしく」
 田代先生からキーを受け取った彼が、荷物を持ったまま車へ向かった。
 あとを追うべく隣へ並び、ふと見上げる。
 すると、目が合った瞬間、さっきとは違って柔らかくて笑みをくれ、たまらなく嬉しい気持ちになった。

「いろいろあったけど、まあ楽しかったわね」
「そうだね。一緒に来れてよかった」
 帰りの電車では、ボックス席をキープ。
 窓から見える、グリーンにも似た青い海を見ながら、あっという間だったけれど、とても充実していたとふりかえる。
 ……特別だよね。
 絵里とふたり、ひそひそ小さめの話をしているのは、わけがある。
「…………」
 ほんの少しだけ、祐恭先生がこちらへ寄りかかっている。
 寝ちゃってるんだよね、ふたりとも。
 絵里は最初あからさまに『重い』と通路側へ田代先生を押していたけど、諦めたらしくやらなくなったら、すぐに彼は絵里のほうへ身体を預けた。
「……イイ大人が、ちっちゃい子みたいね」
「だね」
 普段とはまるで違う表情を見ながら笑い、そっと自分も彼へもたれる。
 特別な旅行。
 だって、大切な初めてがたくさん詰まっている。
「あふ……なんか、こっちまで眠くなっちゃうわ」
 大きめのあくびをした絵里が目を閉じた。
 ……これからも、ずっと一緒にいたい。
 願わくばどうか、できるだけ長く。
 目を閉じて祐恭先生へもたれながら笑うと、なんともいえない……けれど、しあわせな気持ちが広がった。

ひとつ戻る  目次へ