「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 新聞から目を離して彼女を見ると、いつもと同じ笑みを浮かべていた。
 ただ、いつもと違う点を挙げるとすれば――……。
「……なんか、その姿だと緊張する」
「え? そうですか?」
 そう。
 今日からいよいよ夏期講習が始まるため、今、目の前にいる彼女は制服姿なのだ。
 ……なんとなく、だぞ。なんとなく。
 いや、むしろものすごく、といったほうが正しいかもしれない。
 ……こう、制服姿の彼女を前にしていると、ものすごくやましいことをしているような気がして、えらく背徳感があるんだが。
 久しぶりの制服姿の彼女をまじまじと見ると、少し照れたようにして彼女がアイスティーを含んだ。
「……先生?」
 いつも聞きなれている彼女の呼び方でさえ、なんか……絶対的に悪いことしてるよな、俺。
 素直に反応することができない。
「……? 先生?」
「あ……ごめん」
 ふっと視線を外して新聞を畳み、テーブルに置かれたトーストへバターを塗る。
 なんかこう……彼女を見てると、ヤバい。
 ちくちくと良心が痛むというか、なんと言うか。
 ……これまでこんなふうに思わなかったのは、きっと彼女が家にいるときはいつも私服だったからだろう。
 制服姿の彼女はあまりにも純粋すぎて、結構クル。
 というか、かなりまぶしい。
 普段、学校という場所で見ているかぎりは何も思わなかったんだが、こうしてプライベートな場所で制服を着られると、変な気分になる。
 申し訳ないような気持ちの反面、そういう彼女だからこそ手を出したくなるというか……。
「……はぁ」
「先生、風邪でも引いたんですか?」
「いや、大丈夫。……なんでもない」
 視線をなるべく合わせないようにしてバターを塗りたくっていると、突然目の前に彼女の顔が現れた。
「うっわ!?」
「……すごい驚き方しますね。……どうしたんですか? さっきから変ですよ?」
「そんなことないよ。……あーびっくりした」
 心臓がまだドクドクとうるさい。
 朝から、なんてことをしてくれるんだ。
「……先生」
「何?」
 平静を装いながら答えると、彼女がパンを指差しているのに気付いた。
「ん?」
 そこでやっと顔を上げるも、なぜかものすごく不安そうな顔でこちらを見ている。
「何?」
「……それ……食べるんですか?」
「……? それって――……うわ!?」
 自分の手元にあったトーストを見て、我ながらびっくりした。
い つの間に塗りつけたのか、分厚いバターの壁。
 こ……こんなモノ食えるか! ……とは思いつつも。
「……食べるよ」
 口では平気で嘘をつく。
 明らかに嘘だとわかる、それを。
「うそ! だって、先生いつもすごーく薄くしかバターを塗らないじゃないですか!」
「いいんだよ。ときどき、こういうのが食べたくなるんだから」
「もぅ! トースト貸してくださいっ!」
「いいんだって! 俺のことは構わず食べなさい!」
「だぁめっ! 見てて気持ち悪いです!!」
「あ」
 器用にトーストを手から取り上げられたかと思いきや、彼女は自分のトーストにバターをそぎ落とした。
 おかげで、すっかりときれいになって戻ってきた我がトースト。
 あの分厚いバターが消えてなくなったのを見たら、かなりほっとしたのがやっぱり本音だ。
「はい、どうぞ。……これでもまだ、結構バターの味キツいですよ?」
「……いいよ。我慢して食べるから」
 ため息混じりにトーストを口へ運ぶと、彼女が困ったようにため息をついた。
「……ほらぁ。やっぱり我慢してたんじゃないですか。そんな、無理しなくていいのに……」
 ……しまった。
 つい、うっかり口が滑った。
 別に、バターの味が嫌いだとかそういうワケじゃないが、油っぽくなるからあまり好きじゃない。
 さすがにこれまで一緒に暮らしてきただけあって、彼女は俺の趣向をよく理解してらっしゃった。
 彼女がトーストの上にイチゴジャムを塗りながらぶつぶつとまだ何か言っていたが、あえて聞こえてないフリを決め込む。
 こうでもしないと、さらに詰め寄られそうでかなわない。
「…………」
 テレビのニュースに目をやりながらバターの味が染み付いたトーストを食べ終え、流し込むようにアイスティーを飲み干す。
 ……さすがに、簡単にはバターの味が口の中から消えなかった。
 参った。
 朝から結構ヘコむぞ、これは。
 とりあえずパンはもういいとして、味を消すためにおかずへとフォークを向ける。
 ちょっとしたサラダと、目玉焼き。
 そして、丁寧に作るなぁと感心する、カニの形のウィンナー。
 パンじゃなくてご飯を食べるときは、いつも目玉焼きはほとんど生で食べるのだが、さすがにパンのときは固まりかけた半熟。
 皿に、べーっと黄身がつくのがあまり好きじゃない。
 それもわかっている彼女なのだが、俺が制服姿で困っていることには、いっこうに気付いてくれなさそうだった。
「……先生、怒ってるの?」
「え?」
 どうやらフォークで目玉焼きをつついている姿が不機嫌そうに見えたらしく、彼女が不安げに顔を覗いてきた。
 ……これはちょっとかわいそうだったな。
「いや、別に。怒ってないけど?」
「そう? ……なんか、いつもと雰囲気が違うから……」
 イチゴジャムたっぷりのトーストを食べながら、眉を寄せる彼女。
 で。
 当然と言えば当然だが、唇の少し横にジャムがついた。
「ん」
 それを、指ですくって舐め……る。
 いつもならばなんてことないその仕草が、妙にやらしく見えた。
 ……相当参ってるな、俺は。
 テーブルに頬杖をつきながら皿を空け、彼女に改めて視線を向ける。
 なんてことない、いつもと同じ彼女。
 テレビのニュースにいちいち表情を変えながら、もぐもぐと食べている。
 その手には、例のごとくジャム満載のトースト。
 朝からよくそんな甘ったるいモノを食べれるもんだと感心するが、前にも同じことを言って同じように返されたのでやめておく。
「わっ!?」
 無言のまま、その手を引いてトーストをひとくち。
 ……やっぱり。
「……よくこんなのが食べれるな……」
「そうですか?おいしいですよ」
 まるで、ジャムをそのまま食べてるみたいな濃い味。
 だけど、彼女はやっぱり嬉しそうで。
 やっぱり孝之の妹なんだな、と改めて思った。
 アイツは昔、ウチに泊まりにきた朝、トーストの上にバターとつぶあんを塗りたくった物を食べていたが、彼女もやるかもしれない。
 俺は、見てるだけで胸焼けしそうだけど。
「ごちそうさま」
 立ち上がって皿をシンクに置いてから、アイスティーをもう1杯。
 いつもは口の中がすっきりするのだが、バターでじゅうじゅうしていたトーストはなかなか手ごわい。
 とっとと歯でも磨いて、口をすっきりさせるしかないな。
 洗面所に行ってハブラシを取り、少し多めに歯磨き粉をつけて口に含む。
 鏡に映った自分の姿は、確かにどこか不機嫌そうだった。
 不機嫌というより、なんか疲れてる感じがする。
 確かに、昨日の京都への出張も疲れたには疲れたが、そこまで疲労困憊(こんぱい)という感じではなかった。
 …………。
 ……やっぱり、朝から制服姿の彼女を見たからだよな。
 よく、コスプレがどうのという話が出るが、あんなもん比じゃないワケで。
 何しろ、彼女の場合は女子高生が本職なので、制服姿ももちろんしっくりくる。
 そりゃあナースとか着られたらそれはそれで結構いいと思うが、やはり制服姿には敵わないんじゃなかろうか。
 ホンモノ。
 の、女子高生。
 ……が、俺の彼女。
「…………」
 一瞬、ニュースに出てくるような『県立高校教師(24)教え子にわいせつ行為』というテロップが頭に流れ、眩暈がした。
 ……あぁもう、朝からなんつーことばかり考えてるんだか。
 歯を磨いてから口をすすぐと、少しはすっきりしたような気がする。
 うん。まだいいほうだ。
 リビングを通って寝室に向かい、ネクタイとスーツを取り出して手早く着替える。
 ワイシャツはもう着ていたのだが、下はまだあの可愛らしいパジャマ。
 朝食を食べるまでは、ついパジャマで過ごしてしまうクセがまだ抜けない。
 ベルトを締めてからリビングに戻ると、洗い物を済ませた彼女と目が合った。
「……なんか、先生って感じしますね」
「それ、この前も言われたな」
 苦笑を浮かべてネクタイを締め始めると、彼女が小走りで目の前にきた。
「ん?」
「ネクタイ。結んであげましょうか」
「……え……」
 思ってもなかったセリフに、思わず口が開いた。
 まさか、自分がネクタイ結んでもらう日がくるとは。
 昔、妹が親父のネクタイを結びたいと言い出した朝のことを思い出し、苦笑が浮かんだ。
 あのときは結局、固結びに終わったんだよな。
「結べるの?」
「できますよっ。……あ、でも私、普通の結び方しか知らないけど……」
「残念。俺はちょっと違う結び方。教えてあげるよ」
「ホント?」
 ふっと笑ってからうなずくと、嬉しそうに、ぱっと表情を明るくした。
「普通は、こうして1回巻いて入れちゃうんだけど、このときにここへ1度引っかけるんだよ。それから巻いて入れる。……わかった?」
「……なるほど。うんっ、わかりました」
「じゃあ、よろしく」
「はーい」
 立ったままでネクタイを渡すと、首にかけてから真剣に結び始めた。
 ……なんか、いいな。
 コレはコレで。
 角度とか、高さとか……位置とか。
 眉を寄せながら一生懸命俺のために尽くしてくれている彼女を見るのは、やはり嬉しい。
「……で、こうして……っと……。どうですか?」
 少し緩めに首元へあててくれたネクタイをもう少し締めると、いつもと同じあの結び方。
 さすがは、彼女。
 ウチの妹とは、できが違う。
「うん。ありがとう」
 微笑んでうなずくと、彼女も嬉しそうに笑った。
 その頬に手を伸ばしてから顎に滑らせ、俺を見上げさせる。
「よくできました」
「……はい」
 その唇に、そのまま重ね――……られ、なかった。
 さすがに、なんていうか、今キスしたら歯止めが利かなくなりそうで怖い。
「……先生?」
 キスを待っていた彼女が、ふと訊ねてくる。
 それはそうだ。
 今まで、キスしかかってやめたことなど、1度もなかったんだから。
「……何を期待してたの? えっち」
「なっ……! だ、だってっ!」
「そういう子はこっち」
「んっ」
 ちゅ、と頬に口づけをして彼女を離し、くるっと背中を向けさせて洗面所へと促す。
「ほらほら、支度しておいで」
「わ、わかってますっ」
 1度こちらを振り返って眉を寄せたものの、彼女はぱたぱたと洗面所へ向かっていった。
 そのうしろ姿を見送ってから、小さくため息をつく。
 ……はぁ。
 危ない。
 もう、結構……ヤバいな。
 朝っぱらからこんなでは、話にならない。
 昨日食べたハンバーグに、媚薬でも入ってたんじゃないかとさえ思う。
 ……まぁ、そんなんだったら昨日の夜彼女を離したりしてないだろうけど。
「……はー」
 途中までしか読んでいなかった新聞をふたたび手にして読み始めるが、内容は頭に入ってこなかった。
 途切れ途切れの集中力でようやくスポーツ面まで読み終わってから時計を見ると、ちょうどいい時間。
 鞄にプリントの元本と書類を入れてから、洗面所に向かう。
「そろそろ行くよ?」
「あ、はーい」
 髪をとかしていた彼女に声をかけると、鏡越しににっこりと微笑まれた。
 目の前には、制服姿の彼女。
 普段、私服でしか見ていないだけに、こう、なんていうか……。
「っ! せ、先生っ……?」
「……」
 思わず手が伸びた。
 うしろから抱きすくめる格好になり、鏡にもそれがしっかりと映る。
 だからこそ、前を向いて鏡を見ていた彼女には、今の現状がありありと目に映っているワケで。
 ……恥ずかしそうに、頬を染めてるだろうな。きっと。
 俺は抱きしめて肩口へ顔をうずめているから、鏡を見なくて済んでるけど。
 だが、もし鏡に映った制服姿の彼女を抱きしめるスーツ姿の自分を見ていたら、やはり同じように頬を染めていただろう。
「……遅刻、しちゃいますよ……」
「……もう少し……」
 ぼそっと耳元で呟いてから、そっと彼女を離す。
 振り向いた彼女の顔は赤くなっていて、困ったように俺を見上げた。
 ……たまらん。
 そんな瞳で見られたら。
 せっかく、かなり我慢してるのに。
「……行こう」
 ふいっと顔を背けて彼女に呟くと、慌てて彼女もあとをついてきた。
 ソファに置いたままだった鞄を持ってから、スマフォと鍵を手にして玄関に向かう。
「忘れ物、ない?」
「うんっ」
 靴を履いて隣へ立つ彼女に、笑みを浮かべてから一緒に玄関を出る。
 いつもならばそこでキスをしているのだが、さすがにそんなことはできなかった。
 これから学校に行って、そ知らぬ顔で接さなければならないというのに。
 エレベーターでエントランスまで降りながら彼女を見ると、学校で見る彼女と何も変わらない姿だった。
 ……やっぱ、こんなこと考えてるのって俺だけなんだよな。
 そう思うと、なんだか駄目教師のレッテルを貼られているような気がして、切なくなった。
「じゃあ、裏道でいいの?」
「うん。そこからなら、歩いてすぐですから」
 さすがに学校まで一緒に行くことはできないので、学校の裏手にある少し入った路地で彼女を降ろすことにした。
 なんて言うか、ヒミツなふたりが学校に行くというのは、神聖な場所を汚すような気もしたし。
 ……生徒と付き合うって大変だな。
 そんなことが、いまさら脳裏をよぎった。
「じゃ、また学校で」
「はーい」
 道中は、普段と違ってこれといった話がほとんどないまま終わってしまい、学校にはすぐに着いた。
 恐らく、俺のモチベーションが下がってるせいなんだろうとは思うのだが、彼女は特に何も言わないでいてくれた。
 この時間でも、周りには人がほとんどいないのがありがたい。
 もっとも、この夏期講習は3年のみに実施されるので、生徒の数もいつもよりずっと少ないのだが。
 車を降りて軽く手を振る彼女を送ってから車を表に回し、教員用の駐車場へと停める。
「……あ。そうか」
 エンジンを切ろうとしたとき、やっと気付いた。
 どうしてこれまで学校で制服姿の彼女を見ても、何も感じなかったのか、が。
「……はぁ」
 思わずため息をついて頭を抱える。
 そうだ。
 そうだよ……。
 付き合ってからも学校で普通に彼女を見れていたのは、まだ彼女を抱く前だったからだということに今、気付いた。
 夏休みに入ってからの旅行で、彼女を抱くことになった。
 だから、今までは平気だったのだ。
「……参ったな……」
 どうりで、制服姿の彼女を正視できないわけだ。
 今日から始まる、夏休み中2週間の夏期講習。
 時間が短く、3時限目までしか行わないとはいえ、結構長い。
 2週間……か。
 その言葉が、身体全体に重くのしかかる。
 これから毎日、学校だけでなく自宅でも制服姿を見ることになるのだ。
「……もたねぇよ……」
 思わず、そんな本音が漏れる。
 だが、彼女の両親に、受験生である彼女の勉強をしっかり面倒みると言って同棲を許可してもらっているため、うかつに手を出すことはできない。
 ……というか、やはり自然に阻まれる。
 2週間、彼女の制服姿を見ながらもんもんと過ごすのかと思うと、非常に耐えがたい困難極まりなかった。
 それこそ、修行だぞ。修行。
 ただのしがない教員である俺は、禁欲して高僧を目指す必要なんてないのに。
「……でも、手を出すワケにはいかないもんな」
 はあ、と大きくため息をついてから閉じていたまぶたを開け、エンジンを切ってから車を降りる。
 外は朝だというのに、太陽がキツく照りつけていた。
 鍵を閉めてから校舎へと向かう道中、何度かつまづきそうになりながら、やっとのことで職員用の玄関に辿り着く。
 ここまでくる途中、何人もの生徒の制服姿を見たが、やっぱりというか……当然普通なワケで。
 やはり、彼女の制服姿だからこそ、そそられるんだし。
 ……あー。やだな。
「……はぁ」
 そんなこんなで、長い夏期講習が盛大なため息とともに幕を開けたのだった。


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