それでも今日はまだ、3年2組に化学の時間がないためか、少し気が楽になった。
 化学準備室へ向かうと、すでにそこには純也さんの姿。
「おはよう、祐恭君。……って、どうしたの? 疲れた顔して」
「……え。そんな顔してます?」
「うん。昨日の学会、そんなに疲れた?」
 苦笑を浮かべる彼に、思わずこちらも苦笑が浮かぶ。
「……なんて言うか……。2週間って長いっすよね」
「…………どうした?」
 ぽつりと呟いた途端、彼が心配そうに眉を寄せた。
 ほんと、どうした、だよな。マジで。
 思わず、彼の言葉にため息をつく。
 鞄を机に置いてから椅子に座り、ため息混じりにプリントの準備。
 さすがに夏期講習中は化学室ではなく教室で行う予定なので、少し早めにここを出なければいけない。
 ハンガーにかけていた白衣を着ると、それでも少しだけ身が引き締まる気がした。
 ……が。
「失礼しまーす」
「あ、おはよう」
「おはようございます」
 聞きなれた声がしたと思いきや、準備室に入ってきたのは絵里ちゃんと羽織ちゃんだった。
「なっ……」
 思わず声が漏れる。
 せっかく姿を見ないで済むと思いきや、いきなりか。
 ……え。何? マジで、修行か何かなのか?
「はい。コレ、忘れてったでしょ?」
「お、サンキュ。なんだ、お前持ってきてくれてたの?」
「だって、リビングにあるんだもん。目に入るわよ」
 苦笑しながら絵里ちゃんが封筒を渡すと、純也さんが笑った。
「それはそれは。お陰で助かったよ」
「どういたしまして……って、先生?」
「……え?」
「大丈夫? なんか、死にそう」
「こら。そんな言葉遣いはないだろ」
「えー、だってホントのことだし」
 絵里ちゃんに声をかけられて顔を上げると、少し眉を寄せて顔を覗きこまれた。
「いや、平気。……あ、そうそう。夏バテ」
「夏バテぇ? もう?」
「ほら、今年の夏は暑かったからさ。それで多分やられたんだよ」
 我ながら、いい言い訳が見つかった。
 ……などと思っていたら。
「……そうなんですか? だから先生、今日元気なかったんだ……」
「ッ……!」
 しまった。
 羽織ちゃんがいたのを、すっかり忘れてた。
 昨日まで普通に元気だったのに、いきなり夏バテなんて言っても信じるはずが――……いや、信じてるなコレは。
「じゃあ、今日は夏バテ解消メニューにしましょうか。うなぎとか……にんにくとか?」
「う、なぎ……!?」
「うん。ほら、土用の丑の日はちょっとすぎちゃったけど、でも、夏バテには効くじゃないですか」
「いや、そうだけど……」
 いやいやいやいや、ちょっと待ってくれ。
 うなぎなんじゃ食べさせられたら、たまらない。
 ……修行はもう勘弁してくれ。
 そもそも、これ以上精力つけてどうするんだよ。
 そんな……え、それは何。
 暗に、イイよってことなのか?
 誘われてる? 俺。
 …………って、ンなワケないだろうが。
「いや、うなぎっていう気分じゃない……」
「そうですか? じゃあ、焼肉とか」
「……肉もいいや」
「えぇー? それじゃあ元気になれないじゃないですか」
「元気になれないほうがいいかも……」
「……え?」
「あ、いや。こっちの話」
 ぽつりと呟いた言葉を、しっかり拾われていた。
 苦笑を浮かべて彼女に首を振り、わざと時計を見ながら背を正す。
「ほら、ふたりとも授業始まるよ。用事が済んだら、教室に戻る!」
「あ、ホントだ。じゃあ、またねー」
「失礼しましたー」
 そんな言葉にうまく乗ってくれたふたりは、きびすを返して準備室を出て行った。
 そのうしろ姿を見ながら、思わず大きなため息が出たのは言うまでもない。
「……祐恭君、ホント大丈夫?」
「えぇ……まぁ」
 曖昧な返事をしてプリントの束を持ち、自分も4組の教室へと向かう。
 ……ほかの子は平気なんだけどな……。
 ため息をつきながら4組に入ると、同時にチャイムが響いた。
 俺が入ってすぐ号令がかかり、さしさわりない挨拶を交わす。
「じゃあ、今日は予習を兼ねてプリントをやるから、時間までそれぞれ解くように」
 言いながらプリントを配ると、各自熱心に問題を解き始めた。
 そんな姿を見ながら自分も椅子に座り、先日の学会での論文に目を通すべく、冊子とノートパソコンを広げることにした。

 授業も滞りなく進み、初日の授業が終了。
 とはいえ、まだいろいろと雑務は残っているから、家に帰るのは午後になってからだが。
「はぁー、あつーっ」
 実験室では、化学部の子らが集まって研究発表用の実験をしていた。
 そこへ、授業を終えた絵里ちゃんと羽織ちゃん、そしてほかの3年部員も集まってくる。
 実験室内は若干ではあるが空調が効いているので、それなりに涼しい。
「先生、これはどうしたらいいですか?」
「ん? あぁ、これかー」
 純也さんが呼ばれて席を外すと同時に、自分も早速呼ばれた。
 ……が。
 なんで、こういうときに限って絵里ちゃんが呼ぶかな……。
「……何?」
「環境省で募集してるアレ、テーマを“酸”か“溶解”にしようと思うんですけど。どっちがいいと思います?」
「あー、アレね。……うーん、どっちも結構研究している子が多いと思うから……。実際、どっちをやりたいか、だと思うけど」
「……そっか。んー……じゃあ、酸にしようかな。結局、酸の中で溶解も含まれるし」
「そうだね。いいんじゃない?」
「うん。そうします」
 アドバイスというほどでもなかったが、彼女はうなずいて微笑んだ。
 それを見て、ほかのテーブルに行こうとすると、彼女がいきなり白衣を掴む。
「うわ! な……何?」
 その顔は、少し不機嫌そうで。
 ……いや、何もしてないぞ。俺は。
 つい、クセのようなもので、身構えてしまった。
「……先生、羽織に何かしたの?」
「…………は?」
 思わず眉が寄った。
 ……いや、俺はまだ何もしてない。
 むしろ、がんばって何もしないようにしているんだけど。
「羽織、朝から元気ないのよね。……先生が夏バテしたの、自分のせいかなって言ってたし……」
「……え。なんで?」
「なんで、って……もー、鈍い! だって、これまで一緒に暮らしてたんでしょ? だから、夏バテしたってことは、食生活が偏ってたんじゃないか、って」
「……あぁ、それか。……別に夏バテなんてしてないんだけど」
「え? だって、さっき夏バテで元気がないって言ってたじゃない」
「あ。……まぁ、アレはなんていうか……ちょっとね」
 しどろもどろに逃げようとすると、羽織ちゃんがほかのテーブルから戻ってきた。
「……ん? どうしたの?」
「いや、先生がねー。さっきの、夏バテはう――」
「なんでもない。気にしないで」
「っ! も、もごがっ! むぅーーーっ!!?」
 慌てて絵里ちゃんの口元を塞ぎ、羽織ちゃんに笑う。
 ……ここでバラされても、困るし。
「……いい? さっきの話は内緒。わかった?」
「ぷあっ! なんで? 別に内緒にする必要は――」
「あるんだよ! わかった? 絶対言わないように!」
「……もー、なんなの? いいわよ。わかった」
 しぶしぶながらもうなずいた絵里ちゃんに微笑み、ぽんぽんと肩を叩いてから最前列にある教師用の実験台へ戻る。
 何やら羽織ちゃんが絵里ちゃんに怪訝な顔をしていたが、彼女は約束を破るようなことはしなかった。
 さすがは、純也さんの彼女だけあるな。
 と、改めて感心した。

 ――……なんだかんだで昼が過ぎ、14時近くなったころ。
「それじゃ、そろそろ帰ろうか」
「そうですね」
 やっとのことで、本日の勤務を切り上げることができた。
 部活は昼までになっているので、実験室には絵里ちゃんと羽織ちゃんのふたりだけ。
 だが、そのふたりはというと、実験はせずに雑誌を開いていたが。
「おい、そろそろ帰るぞ」
「あ、うん。ちょっと待って」
 絵里ちゃんが純也さんの声で振り返ると、本をしまい始めた。
 それに羽織ちゃんも続き、ふたり揃ってこちらへと歩いてくる。
「おまたせ。じゃあ、帰ろう」
「はいっ」
 純也さんたちを見送ってから、自分も駐車場へと回る。
 さすがに昼間から堂々と一緒に帰ることはできないので、朝と同じように羽織ちゃんには例の路地で待ってもらうことにした。
「先生、夕飯……何がいいですか?」
「あー……そうだな。なんか、和食がいい」
「和食?」
「うん。さっぱりしたやつ」
 彼女を拾ってからウィンカーを出して右に曲がると、何やら考えごとをしているような横顔が見えた。
「……でも、それじゃあ元気になれないですよ?」
「そう? 俺は平気だけど」
「私は平気じゃないのっ。朝から、先生変だし……。何かあったんですか?」
「それは……まぁ……」
「えっ?」
「あ」
 思わずぽろっと口から漏れた言葉を、しっかり彼女は拾っていた。
「やっぱり! ねぇ、私、何かしました? 私のせい?」
「まさか。羽織ちゃんは何もしてないよ」
「ホントに? じゃあ、何があったんですか?」
「……別に、大したことじゃないから」
 マンションの駐車場に車を停めてからいつも通りにエレベーターで部屋の階まで上がり、鍵を開けて彼女を中へ先に通す。
 すると、先に彼女が靴を脱いで玄関に上がった。
「……もぅ。大したことじゃないなら、教えてください」
「え? ……あぁ、それか。まぁ、気にしないで」
「気になるのっ! だって先生、朝からずっと変なんだもんっ!」
「……んー、そうかな。自分じゃあんまり感じないけど」
 めいっぱい嘘をつきながらリビングに向かい、鞄を下ろしてネクタイを外す。
 ぱたぱたと彼女もうしろについてきてから同じように鞄を下ろし――……たものの、突然抱きついてきた。
「っ……え、羽織ちゃん? ……ちょっ!」
「どうして? ……ねぇ、どうして先生、ちゃんと話してくれないんですか? 私のせいじゃないんでしょ? じゃあ、何があったんですか?」
「……だから、それは……」
「だって、気になるんですもん! 先生、元気ないし……学校でも、なんか……変だったじゃないですか」
 背中に腕を回したままで泣きそうな顔を向けられ、こちらも眉が寄る。
 彼女が悪いワケじゃない。
 そんな顔されたら、さらに自分が悪者になる。
「…………」
 だが、いつものように抱きしめてやることができず、思わず手がさまよった。
 小さくため息をついて彼女の肩に手をやってから、改めて軽く抱きしめる。
「……大丈夫だよ。何もないから。ね?」
「だって……先生……」
「羽織ちゃんが心配するようなことは、何もないから。……だから、そんな顔しない」
「……うん……」
 なだめるように彼女の髪を撫でると、小さくではあるがうなずいてくれた。
 たまらず、ため息が漏れる。
 ……参ったな……。
 今、目の前にいるのは制服姿の彼女。
 ここは学校ではなく家なのだが……なんとなく、落ち着かなかった。
「さ、少し休憩しようか」
「……あ……。はい」
 ぽん、と肩を叩いてから微笑むと、彼女も小さく微笑みを見せた。
 だが、それはいつもよりもずっと弱々しくて、儚くて。
 たまらず、不安になるような笑みだった。

 16時を目前に控えたころ、ソファに寄りかかるようにしてテレビを見ていると、洗い物を終えた彼女が戻ってきた。
 しばらく同じようにソファへ座ってテレビを見ていたが、ふっと彼女が顔を向ける。
「ん?」
 その顔は、やはりどこか浮かない顔。
 ……そういえば、さっきも元気なさそうだったな。

「……私……家に帰ろうかなって思うんです」
「っ……え……?」
 思わず、目が丸くなった。
 まさか、そんな言葉が彼女の口から出るなんて。
 ……どうして。
 やっぱり俺の態度が変だから、か?
「……私がきてから……先生がちゃんと眠れてないんじゃないか、って思って……。だから、せめて夏期講習が終わるまでは、帰ったほうがいいんじゃないかな、って思ったんです」
「…………そっか。わかった。じゃあ、送っていくよ」
 彼女がいなくなるのは、寂しい。
 だが、どこか心の中でほっとしている自分もいた。
 制服姿の彼女を見るのが学校だけになれば、今より衝動は収まると思ったからだ。
 何より、家に帰っていたほうが彼女も勉強に集中できるだろうし。
 ――……が。
 俺の考えは、すべててが間違いだった。
「……引きとめては、くれないんですね」
「っ……!」
 ぽつりと聞こえた言葉に、はっとした。
 馬鹿だ。
 普段の自分だったら、どんな理由があろうと引きとめたはず。
 だが、今はあっさりと了承してしまった。
 彼女にとって、これほど裏切られた気持ちでいっぱいになるようなことはないだろう。
「……あ」
 現に、彼女は俯いたまま視線を合わそうとせず、今にも泣き出してしまいそうだった。
「いや、ほら。夏期講習が終われば、またすぐ家にきてくれるんだよね? だったら、我慢しなくちゃって思って……。それに、そのほうが――」
「……もう、いいです」
「あ、ちょっ……」
 すっ、と立ち上がった彼女はそのまま寝室へと消え、しばらくしてから大き目のバッグを手に戻ってきた。
 その手には、制服のハンガーもある。
「……まだバスがあるから、帰ります」
「いや、送っていくよ」
「…………ひとりで帰れますから」
 断るかわりに首を振ると、彼女はそのまま玄関へ足を向けてしまった。
 ……マズい。
 これは、なんか勘違いされてないか? 俺。
「……ごはんは、母にも話しておきますから、家にきてください。……コンビニで買っちゃ駄目ですよ?」
「……あ、うん。わかった。……いや、でもさ。やっぱり、送って――」
「結構です」
 俺を改めて見た彼女は、明らかに怒っていた。
 彼女がここまで怒るのを見たのは、初めて。
 いつもならば、キスで許してもらえそうな“拗ねる”かたちなだけに、少し戸惑う。
「それじゃ。お世話になりました」
 小さく頭を下げて玄関を出た、彼女の足音が遠ざかっていくのがわかった。
 ……何もできなかった。
 彼女の、圧力に負けて。
「…………」
 普段怒らない人が怒ると、えらく恐いとは言うが……彼女の場合は、圧力があった。
 ……参った。
 俺のせい……だよな。やっぱり。
 玄関に座り込んで頭を抱えると、大きくため息が漏れた。
 ……どうしたものか。
 いつになく困り果てている自分が、ここにいるのに気付く。
「…………」
 リビングに戻っても、もちろんだが彼女の気配はない。
 彼女の性格からして『冗談ですよ』なんて帰ってくることはないだろうし……。
 ……あー。
 この家って、こんなに広かったんだな。
 彼女がいつも座っていたソファの右側が、やけに広く感じる。
 キッチンも、寝室も、浴室も。
 すべてが、なんだか色褪せて見えた。
 ……俺のせいだ。
 だが、反面はこれで良かったのかとも思う。
 家に帰っていたほうが、勉強にも身が入るだろうし。
 なんといっても、ウチにきてくれてから、彼女は家事しかしていなかった。
 ……いい機会……だったのか?
 いや、そうだったんだ。
 きっと。
「…………」
 そう思わないとやっていけない気がした俺は、自分を納得させるために、正当化するしかできなかった。


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