「……はぁ」
 朝から、妙に気だるい。
 なんというか、倦怠感がある。
 昨晩は、結局彼女の母から電話があり、瀬那家で夕食をご馳走になったのだ、が……。
 彼女の機嫌はもちろん直るワケがなく、相変わらず視線すら合わせてくれなかった。
 自宅へ帰ってきても、待っていたのは電気が消えている真っ暗な部屋。
 自分以外に音を立てる者はおらず、家全体がやけにしんと静まり返っていた。
 朝も、それは同じ。
 いつも、キッチンに立ってにこにこと笑みを浮かべてくれる彼女はおらず、いつも抱きしめて起こしてやることもない。
 ……でも、少し前まではこうだったんだよな。
 人間、1度経験してしまうとやはり贅沢になるらしく、今の“ひとり”という状況がものすごく不満だった。
 昔はひとりのほうが気楽でイイと思っていたのだが、彼女と過ごしてみて、その価値観は変わった。
 見えるところに、手が届くところに彼女がいないと、どうも落ち着かない。
 身体の一部が不自由になってしまったような、そんな感覚に陥りそうになる。
 ……羽をもがれた鳥っていうのは、こういう気分なのかもな。
「…………」
 ため息混じりにそんなことを考え、ペットボトルを直接口づける。
 といっても、残り少ない2リットルのモノなので、もし彼女が見ていたら『お行儀悪いですよ』なんて言ってくれただろう。
 パンをトースターに放りこんで適当に時間を回し、その間に洗面所へ。
 鏡に映るのは、いつもと同じ何も変わらない顔。
 だが、どことなく寂しげに映る。
 って、何言ってんだか。
 ……気持ちが反映しているだけだ。
 タオルをかごに投げてリビングに戻ってから、トーストを取り出して片手でかじる。
 行儀が悪いとか、なんとか言われそうだな。
「…………」
 すべてに、“彼女なら”という主語がつく。
 どうやら相当参ってるらしいことがわかるが、こればかりはどうしようもない。
 味気のないトーストをアイスティーで流しこみ、着替えを済ませて家を出る。
 制服姿の彼女を見ないで済むというのは正直ほっとしていたが、こんなにも彼女のいない部屋にいることがキツイとわかり、いたたまれなかった。
 鍵とスマフォ、そして鞄を掴んで家を出てから向かうのは、駐車場に停めていた赤い車。
 ……ひとり、か。
 ここでもまた空の助手席に目が行き、ため息が漏れた。
 いつも、あれこれと他愛ない話ながら楽しい道中も、今日からはひとり。
 ……しかも、自分が追い出したようなもんだ。
 そう考えると、余計滅入ってきた。
 …………って。
「…………」
 なんで、学校前の道がこんなに混んでるんだ?
 学校前の大通りに入ってすぐ、ずらりと繋がった車列に眉が寄った。
 普段、いくらバスが停まるといっても、これほどの渋滞にはならない。
 だが、今日に限ってものすごい渋滞。
 じりじりと照りつける太陽。
 クーラーが効いてはいるものの、日差しが直接当たっている腕は熱い。
「……ったく、なんなんだ」
 サイドブレーキを引いて手と足を離し、そのまま席へもたれる。
 だが、こうして待っていても一向に進もうとはしなかった。
「……どんだけ繋がってるんだ」
 大きくため息をついてから、CDの音を少し上げる。
 遅刻しないような時間の余裕はあるものの、渋滞にハマることほど嫌いなものはない。
 ……いっそ、エンジン切るか。
「……え?」
 などと考えていたら、不意に助手席側の窓を叩かれた。
 驚いてそちらに目を向け――……ると、そこにはさらにに驚かされる人物。
「な……っ。里美さん!?」
 慌ててロックを解除すると、きれいな長い黒髪を揺らしながら女性が乗り込んできた。
「はぁー、暑いわねぇ朝から。久しぶり、祐恭君っ」
「……いや、なんでここに里美さんがいるんですか?」
「あらー、いいじゃない? 別に。私だって、毎日毎日決まった場所にいるとは限らないわよ?」
 くすっといたずらっぽい笑みを浮かべた彼女が、まったく躊躇せずに腕を絡めてきた。
 ふわりと香る、彼女が好きな香水。
 昔から変わらない姿といい、その香りといい、思わず苦笑が浮かぶ。
 相変わらず人懐っこくて、猫みたいだ。
「久しぶり、って感じじゃないですね」
「あ、やっぱり? ふふ。私も思ったー」
 うんうん、とうなずく彼女に笑うと、先ほどまでのイガイガした気持ちが少しだけ丸くなったような気がした。
 ……ああ、そうだ。
 俺はずっと、イライラしてたんだ。
 隣で、ふんふんと鼻歌をし始めた彼女を見ていたら、そんな自分が少しだけ小さく思える。
「ここねー、まだまだ動きそうにないわよ。木材を積んでたトレーラーから、荷物が落下。今、警察も手伝って片付けてるけど……しばらく無理ね。量がハンパじゃないし」
「……はー。……めんどくせーな……」
 シートへもたれて、思わず本音を口にすると、彼女がいたずらっぽい顔で顔を覗きこんできた。
「あらあら。高校の先生がそんな言葉遣っていいのー? もっと丁寧な喋りかたにするんじゃなかったっけ?」
「これでも、昔よりはずっとよくなったと思いますけど。いつもいつも、丁寧になんて喋れませんからね」
「ふふ。祐恭君らしいわねー。……あ、そうそう。ねぇ、よかったら駅まで送ってもらいたいんだけど。いい?」
「……え? いや、でも、道はこんなだし……。さすがに遅刻するのはマズいんで」
「あーら、大丈夫よ。ほら、そこの抜け道から1本向こうの通りへ出られるから。ねっ? たまには付き合いなさい!」
「っ……里美さん!」
「あいっかーらず、すべすべでいいわねー。若い子は!」
「何言ってるんですか。俺と大して変わらないのに」
「いーえ。私のほうがお姉さんですーだ」
 人懐っこい笑みを浮かべて指で頬をつつかれ、思わず噴き出しそうになった。
 そういえば、昔から人のほっぺた触るの好きだよな、この人。
 もちろんそれは、俺だけに限らず、という意味で。
「……ったく。里美さんには敵わないっすね」
「まあねー」
 まるで、語尾に音符でも付きそうな調子で笑った彼女を見てから、ウィンカーを出して左に入り、そのまま細い路地を通って――……隣の通りへ。
「……へぇ」
 確かに、こちらは彼女の言う通り渋滞のかけらもなかった。
 2車線あるからか、上りも下りもスムーズに流れている。
「ほーらね。言った通りでしょ? じゃ、駅までお願いねー」
「はいはい」
 勝ち誇ったような彼女に、苦笑が漏れた。
 相変わらず、人懐っこくて、物事を断れなくする雰囲気は変わっていない。
 彼女は、中川里美(なかがわ さとみ)
 祖父の会社で秘書をしている女性だ。
 年は俺より3つ上で、常に姉のように振舞われてきた。
 悪い人じゃないっていうのはすぐにわかったし、あまりにも人懐っこくてとても年上とは思えない言動と雰囲気だから、俺も強くは出れないんだけど。
 だが、この時間に彼女が冬瀬にいるなんてこと自体、珍しかった。
 会社は平塚にあるし……どうして?
「でも、なんであんなトコにいたんですか? もう会社始まる時間でしょ?」
「いいのっ! 今日は有給なの。……あ、そうだ。紗那ちゃんが、アウトレットに連れてってほしいって言ってたわよ?」
「紗那が? でも、涼が――」
「涼君は、祐恭君と勝負したいんだって」
「……はぁ?」
 わけがわからず、眉をひそめる。
 なんだ、その勝負って……。
 我が弟ながら、相変わらず何を言い出すのかわからないヤツだ。
「ほら、祐恭君が涼君にあげたセリカあるじゃない? あれ、この前チューンアップしたらしいのよ。だから、御殿場までの上り坂を勝負したいんですって」
「……あいつは相変わらずだな。俺に勝てるわけないのに。パワーだって違うし」
 ため息まじりに呟くと、彼女が微笑むのがわかった。
 ふわりと空気が動き、彼女が髪をかきあげる。
「ふふっ。涼君も、なんだかんだいって祐恭君と遊びたいのよ。年頃の男の子ですもんねー」
「……なんすか、それは」
「祐恭君も、何か相談があったら遠慮なく言ってね? お姉ちゃん、がんばっちゃう」
「はは。それはどうも」
 駅のロータリーに入ってからハザードを焚くと、彼女が笑みを浮かべて車を降りた。
「じゃ、ありがとうね。そういうわけだから、1度実家に顔出してあげて」
「はいはい。里美さんに言われたら断れないからね」
「ふふ。いい子いい子っ。それじゃあねー」
 ちゅっ、とキスを車内に投げてからドアを閉めた彼女は、駅に向かって歩き始めながら何度か手を振ってくれた。
 相変わらず、かわいい人だ。
 なんてことを思いながら駅をあとにし、学校前の道は通らずに住宅街にある学校の裏道から駐車場へ向かう。
 すると、こちらも案の定混んでいなかった。
 ……まぁ、学校に行くためだけの道みたいなモンだしな。
 教員用駐車場へ乗り入れ、定位置に車を停める。
 相変わらず照りつけてくる、熱い太陽。
 だが、今朝家を出たばかりのときとは違い、かなり気分がプラスに傾いているのはよくわかった。

 ――……そんなことがあった、翌日。
 いつもと同じように準備室へ入り、プリントの束を手にしてから準備室を出る。
 …………はあ。
 一連の動作をこなしたあとで、ため息とともにドアへもたれていた。
 なんなんだ、この言いようのない不安は。
 ……拭い去れない、嫌な気持ち。
 教員採用試験のときの、あの嫌味な面接官に見すえられているときよりも、ずっと嫌な気持ちだ。
 まぁ、あのときは内心くそったれとか滅茶苦茶悪態つきまくりだったんだけど。
「…………」
 廊下を進んでいくと、3年2組の札が見えた。
 途端、足がすくむ。
 なんて言えばいい?
 ……って、俺は何してんだ……。
 里美さんと久しぶりに会った昨日は、2組の授業がなかったため、結局彼女と顔をあわせることはなかった。
 だが、今日は違う。
 がっつり面と向かって“先生”をこなさねばならず、それが少しだけ重たくのしかかってくる。
「…………」
 授業開始の本鈴が鳴り、生徒たちが廊下から消えていく。
 が、それでも足が動かなかった。
 ……参ったな。
 俺、こんなに弱かったっけ。
 ため息をついてから首を振り、何度か軽く頬を叩いて自分を引き戻す。
 ――……それこそ、赴任当時のように。
 生徒に対して特別な感情を持っていなかった、あのころのように。
「きりーつ、れーい」
 教室へ一歩踏み込むと学級委員の声が響き、席についていたほかの生徒たちも姿勢を正した。
 ……あぁ、そうか。
 いつもの授業とは違い、今回の夏期講習は選択授業。
 そのため、生徒の姿はまばらだった。
 だからこそ、余計に羽織ちゃんへ目が行ってしまう。
 ――……が。
「……あれ」
 思わず、ぽかんと口が開く。
 彼女の席に、姿がなかった。
 それこそ、いつもならば授業に必ず準備室へ顔を出す彼女が。
「羽織、今日休みです」
 名簿を手にして出欠の確認をしていた俺に、絵里ちゃんが声をかけてきた。
 が、なぜか瞳には怒りの色が滲んでいる。
 ……いや、ちょっと待て。俺は何もしてないぞ?
 眉を寄せて心の中で反論してから、名簿へ視線を落とす。
「そうか」
 短く答えてから、彼女の名前の横に×印。
 ……休み、ね。
 そんなに避けられてるのかと思うと、正直切ない。
 だが、少しほっとしているのも事実だった。
「それじゃあ、プリントを始める。答え合わせは最後にやるから」
 短く言ってプリントを配ると、それぞれ手にしながら問題を解き始めた。
 自分も教卓にある椅子へ腰かけ、頬杖をつきながら彼女らを見る。
 ……ふむ。
 落ち着いてるな、俺。
 …………それにしても、だ。
 休みってなんだよ、休みって。
 聞いてないぞ。
「…………」
 今度会ったときは、プリントを倍にしてやろうと心に誓った瞬間だった。
 むしろ、来週末には家に戻ってきてくれるんだしな。
 そうしたら、つきっきりで化学だ。
 そんなことを考えていたら彼女の困ったような顔が目に浮かび、少しだけ苦笑が漏れた。

 ――……が。
「……瀬那はどうした」
「休みです」
「……休み? この前も休みだっただろ。ほかの授業は?」
「出てましたけど……。あ、でもなんか歯医者があるとか言ってたよね」
「あ、そうそう」
「……歯医者? 俺の授業があるのに? ……へぇ。いい度胸してるな」
 思わず、いつもの“地”の部分が出た。
 ――……が、慌てて笑顔で取り繕ったせいか、特に何か言われることもなく済む。
 ……なんだそれ。
 くそ。
 何も、そこまで避けることないだろ。
 しかも、あからさまに俺だけを。
 そう考えると、だんだん腹が立ってくる。
 ……俺が何したって言うんだよ。
 だいたい、彼女が制服姿で誘うようなことするから悪いんじゃないか。
「…………」
 プリントを配り終えて教卓に両手をつくと、自分でも表情が険しくなるのがわかった。
 自分で化学を選択しておいて、2回ともサボるとはね。
 そっちがその気なら、受けてやる。
 ……帰ってきたら、覚悟しとけよ。
 あまった彼女の分のプリントを手にしながら、そう決意する。
 タダじゃ、済ませない。


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