「えーっと。それじゃ、改めて。初めましてっ! 妹の紗那です」
「さっきは、ごめんね。弟の涼です」
「初めまして。瀬那羽織です」
 にこやかに自己紹介をし終わった途端、紗那と涼がこちらに目を向けた。
「……なんだよ」
「もー。お兄ちゃんってば、ちっとも羽織ちゃん見せてくれないんだもんー。なになにー? すっごいかわいいんだけど! お持ち帰りしたい」
「えぇっ!?」
「そーそ。たまらずナンパしちゃったじゃんかよー」
 うりうり、と涼がわき腹をつつき、いたずらっぽく笑った。
 ……ああ、そうか。
 ふと思い出した途端、自然と瞳が細くなる。
「……そういえばお前、ナンパしたんだよな。人の彼女に手を出すとは……」
「だ、だから! それはしょうがないじゃん! 知らなかったんだし!! 羽織ちゃんだって知ってたら、ナンパなんてしないって!」
 慌てて手を振った涼をしばらく睨んでいたものの、ため息をつくと同時に、視線を逸らす。
 ……なんか、気まずいんだよな。
 やはりそれは、彼女が俺にだけ視線を合わせてこないから、なんだろうが。
「はいっ、どうぞー。できたてだから、アツアツですよ」
「わぁ、ありがとうございますー」
「さすが紗那ちゃん、気が利くね」
「えへへー。あ、はいお兄ちゃん」
「え。お前、いつの間に……」
「ふっふー」
 孝之たちにホットドッグを渡したあと、紗那が俺へ手渡してきたのは見慣れた財布だった。
 ……ていうか俺のだし。
 なんだお前。スリか? と一瞬頭に浮かぶ。
 いつの間に抜き取ったのか、ちゃっかりしてるな。お前は。
「で? なんでここにいるの?」
「え? お兄ちゃんに連れてきてもらって……」
「いや……だから、そうじゃなくて」
「あはは、羽織ちゃんかわいいー!!」
「兄貴が弄ばれてる!」
「うるさい」
 頬杖をつきながら彼女を見ると、いきなりきゃいきゃいと楽しそうにふたりが騒ぎ始めた。
 けらけら笑い出したところを一喝し、しかたなく腕を組んで椅子にもたれる。
 すると、彼女がホットドッグを食べるところだった。
 ……まぁいい。
 とりあえず、食べ終わってからしっかり聞こう……と思った矢先。
「! っつ……!」
「あっ、大丈夫!?」
 いきなり、彼女が口を押さえてジュースを手にした。
 大方、噛んだ拍子に肉汁が飛んだんだろう。
 できたてだからこそ、かなり熱いはず。
「っ……え……」
 ジュースを含んでしばらく口を押さえていた彼女の頬に手を当て、そっとこちらを向かせる。
 すると、いつもと同じようなまなざして、すんなり俺に従った。
「あーん」
「……あー、ん」
 口を開かせてから舌を出すように言うと、素直にそうする。
 こういうところは、やっぱり拗ねててもいつもと変わらないんだな。
「……あーあ。赤くなってるよ。そんなに急いで食べるから」
「そ、そういうわけじゃない、ですけれど……。でも、考えてた以上に熱かったんだもん」
「だから、熱いって言っただろ? ちゃんと、聞いてなきゃ駄目だ」
「……ごめんなさい」
「ったく。軽い火傷で済んだからいいけど、もっとひどかったら困るでしょ?」
「……うん」
「これからは気をつけるように」
「はぁい」
 シメに、ぽんぽんと頭を撫でてやると、久しぶりに困ったような笑みを浮かべた。
 それを見て、思わず頬が緩む。
 ――……が。
「っ……」
 ……忘れてた。
 ちくちくというレベルじゃないほどの3人の視線が突き刺さり、あまりのいたたまれなさを今ごろ味わう。
「……なんか、お兄ちゃん別人みたいなんだけど!」
「すっげぇー。え、何? なんか、兄貴全然違う人じゃん」
「……最悪だぞお前ら。人前でそれやるか? ありえねぇ」
「ッ……るさい」
 わいわいと何やら勝手に盛り上がり始めた3人にため息をつき、気恥ずかしさから少しだけ熱くなった頬を冷ますためにペットボトルを手にする。
 そのあとは当然、一切のヤジを排除するために瞳を閉じて黙るのみ。
 こうしてるのが一番早く場が収まる。
「つーか、羽織は祐恭と一緒に帰れよ。俺寄り道するし」
「っ、お兄ちゃん! なんで? だって、帰る方向違――」
「よくね? お前らセットだろ?」
「えぇえええ……!?」
 あっけらかんとした顔でホットドッグを食べながら、孝之がアイスコーヒーを飲む。
 そんな彼へ困ったような視線を向けていた彼女だったが、紗那がぽんと手を打っていきなりにんまりした。
「あ、それはいいかもー。私だったら、涼の車に乗るし。ね、そうしなよっ」
「……ちょっと待て。なんで俺に言うんだよ。俺じゃなくて、彼女の意見を聞けばいいだろ」
「何よー。お兄ちゃん、嬉しくないの? せっかく、一緒に帰れるようにしてあげてるっていうのに」
 ねぇ? と紗那が羽織ちゃんへ笑うと、困ったように苦笑を浮かべて小さくうなずいた。
 ほらみろ。
 困ってるじゃないか、彼女が。
「別に俺はいいけどでも、羽織ちゃんは嫌そうだけど?」
「……え……?」
「うわー、お兄ちゃんひどーい。そんなんじゃ、羽織ちゃんほかの人に取られちゃうよ? ただでさえ、涼がナンパしたっていうのに」
「そうだぜ? そんなんじゃ、ほかの、もーっといい男に取られちゃってもしょうがないよなぁ」
 ……どいつもこいつも、人をなんだと思ってるんだよ。
 ふたりそろって人のことをコケにしながら、あたかも俺の言葉はなかったかのように彼女と仲良く話し始めた。
 俺はいいんだよ、別に。どうなろうと。
 でも、どこかの誰かさんは人の授業サボってまで会いたくないみたいだし。
「……ん?」
 ふいっと顔を逸らしていたら、がたがた音を立てながらほかのメンツが立ち上がり、3人でその場を去ろうとしていた。
 ……ちょっと待て。
「何してる」
「え? だから、あとは若いふたりに任せようかと……」
「じゃあな」
「え、ちょ……! お兄ちゃんっ!」
「あっ、じゃあ孝之さん勝負しません?」
「まぁ、捕まらない程度でよければいいよ。俺、手ぇ抜かないけど」
「あはは、もちろんガチで!」
 手をもみながら孝之に歩み寄った涼を、おかしそうに笑いながら紗那まで付いて行く。
 残ったのは――羽織ちゃんと俺の、ふたりだけ。
 ……気まずい。
 ものすごく。
 それこそ、どこを見ていいかわからないといった具合に、あちこちへ移っている彼女の視線が。
「……はー」
 ぎゃいぎゃい言いながら遠ざかる3人を見やってから、ため息ひとつ。
 だが、改めて彼女を見ると、どこか困ったように視線を逸らした。
「……で」
「え?」
 一瞬身体を震わせて俺を見た羽織ちゃんへ、腕を組んでから訊ねる。
 当然、まずはもっとも聞きたかったことそのものを。
「どうして2回も俺の授業サボったの?」
「あ……」
 気まずそうに一瞬目を合わせてすぐに俯き、ドリンクを両手で包んだ。
 その様子はいかにも言い訳を探してますという雰囲気で、思わずため息が漏れる。
 が、俺が待っているとわかってか、静かに口を開いた。
「だって……」
 ようやく顔を上げて視線を合わせてくれはしたものの、眼差しは不安げだった。
 そんな顔は久しく見ていないからこそ、思わず眉が寄る。
「……見ちゃったんですもん」
「何を?」
「…………先生が、知らない女の人と一緒にいるところ」
「え?」
「…………」
「俺が……?」
 眉を寄せると、答えるかわりにうなずき、そのまま黙ってしまった。
 ……俺が? 知らない女、と?
 いやいやいや、ちょっと待て。
 断じて、そんなことはしていない。
 そもそも、学校と家との往復しかしてないのに、そんなヒマがあるわけない。
 椅子にもたれてこれまでのことをよく思い出してみるものの、やはり身に覚えはまったくなかった。
「そんなはずないだろ。俺が――」
「だって! 私だって思ったけどっ……でも……! 助手席に乗った女の人が、先生の腕を取ったところを見ちゃったんですもん!」
「……いや、だからそんなはず……ていうか、え? 俺が車に乗せた?」
「すごく親しげでっ……先生、私にもあんまり見せないような顔してたんですよ? っ……だから……!」
 そこまで言うと、膝に置いていた手をぎゅうっと握りしめた彼女が、椅子にもたれて口を閉ざしてしまった。
 ……そんなことあったか?
 …………俺が?
 顎に手を当てて考えてみる。
 ここ最近、恐らく彼女の態度が変わった水曜以前だろう。
 そんなときに、誰かを助手席へ乗せて……。
「あ」
 思い出した。
 多分、アレだ。
 いや、むしろそれ以外に考えられない。
 あの日の朝の出来事に違いないはず。
「羽織ちゃんが言ってるのって、里美さんのこと?」
「……里美さん、ですか……?」
「うん。中川里美さん。こう、長い黒髪の女の人でしょ?」
「……うん」
 こくん、とうなずいたのを見てため息が漏れた。
 ……なんだ。彼女か。
 ようやく合点がいった。
 いつ見られたのかは知らないが、まぁ、確かにあれは客観的に見れば……そう見えるかもしれない。
「お知り合い……なんですか?」
「知り合いも何も、彼女はじーちゃんの会社で秘書やってる人だよ」
「秘書さん?」
「そ。じーちゃん専属の秘書さん」
 秘書という言葉に彼女が顔を上げたので、内心ほっとしながら苦笑混じりにうなずく。
 ……ほ。
 確かに、俺にとっては誤解そのものだが、里美さんを知らない羽織ちゃんにとっては、誤解しかねない場面だったかもしれない。
「何を勘違いしてるんだと思ったら。あの人には、ちゃんと旦那さんがいるよ」
「……えっ。そうなんですか?」
「そう」
 結婚しているとわかったからか、彼女の表情がやわらいだ。
 相変わらず、彼女はわかりやすい。
 だからこそ、助かる部分も多いんだが。
「……そっか。そうなんだ」
「そうだよ。俺が身内の女性に手を出すわけないだろ」
「え? 身内の方なんですか?」

「そりゃあもう。だって、彼女はうちのじーちゃんの奥さんだから」

「…………え?」
「いや、だから。里美さんは、戸籍上で言ったら俺の祖母なの」
「……えっ……えぇえ……! えぇぇええぇーー!!!?」
 珍しく彼女がデカい声を出した。
 まぁ、無理もないだろう。
 自分が見たきれいな女性が、まさか祖父の奥さんだとは思うまい。
「俺も最初言われたときは『は?』って思ったけどね。でも、じーちゃん何かにつけて若いから」
「わ、若いって言っても! でも、あの人って……!」
「うん。27歳だったかな。で、じーちゃんと結婚したのはもう6年前だよ」
「えぇ! そうなんですか!? ……なんか……すごいですね」
「すごいね。今……えーと、72歳だったかなぁ。でも、全然そんなふうに見えないし、自分の会社は自分で切り盛りしてるし」
「へぇー。……あ、でも。さっき『中川さん』って言いましたよね? どうして? 先生のおじいさんなら、瀬尋なんじゃないの?」
「あぁ、それか。ほら、あの若さで社長と結婚なんてなったら妬むヤツが出てくるんだよな。あとは、遺産問題。だから、あえて旧姓を名乗ったままなんだよ。でも、実家に行けば彼女も離れに住んでるし、甲斐甲斐しく飯作ったりしてるよ」
「あー……なるほど。……大変なんですね」
「だね」
 手短に説明すると、そこにはいつも通りの彼女の姿があった。
 その顔を見て、ようやくこちらも普段の自分らしい笑みが出る。
「で? 羽織ちゃんは、里美さんを勘違いしたから、俺の授業サボったってこと?」
「っ……それは……」
「受験生が2回も人の授業サボるなんていい度胸してるよな。相当、化学に自信がおありのようで」
「! そ、そんなことは……!」
「あるでしょ? だから2回もサボったんじゃないの?」
「っ……」
 “2回サボった”ということをあえて強調してやると、次第に声が小さくなっていった。
 最後には、困ったように眉を寄せて俺を見上げるのみ。
 だが、優しい顔はしてやらない。
 そんなに甘くはないからな。
「来週の授業、サボったら怒るから」
「……ちゃんと出るもん」
「ホントに? 約束できる?」
「もちろんです!」
 大きくうなずいて真剣な顔をした彼女に、そこでやっと笑みを見せる。
 すると、途端に彼女の表情もふにゃんと緩んだ。
「わかった。じゃあ、来週はちゃんと出席するように」
「あ……。はいっ」
 嬉しそうに笑った彼女は、やはりかわいくて。
 いつもと同じ笑みを見ることができたからか、自分もほっとしているのに気付いた。
「さて、と。じゃあそろそろ俺たちも帰ろうか。……まだ、どこか見る?」
「あ、ううん。もう平気です」
「じゃあ、行こう」
「はいっ」
 立ち上がってゴミを捨ててから、そっと彼女に左手を差し出す。
 当然ともいうべきか、少しだけ驚いたように彼女が目を丸くした。
「え……?」
「迷子になるよ」
「な、なりませんっ」
「あ、そう。じゃあ手はいらないんだ」
「あっ……! や、やだっ」
 ふいっと差し出した手を戻そうとすると、慌てたように彼女が両手で掴んだ。
 思わずくすくす笑いが漏れ、彼女も頬を染める。
「まったく。素直になればいいのに」
「……だってぇ」
 困ったように唇をとがらせて身体を沿わせた彼女に、ふっと笑みが浮かぶ。
 なんだかんだ言って、やっぱりこうして彼女と一緒にいる時間が何よりも心地よくて、自分らしいと感じられた。
 ……ほっとするし、こうしてることで何よりも安心する。
 だからこそ改めて、つくづく自分は変わったんだなと思った。


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