彼女と御殿場のアウトレットで出会ってから、何も変わらないまま、何も起こらないまま、週の半ばである水曜日の化学の授業が来た。
 何も変わらない、何も起こらないというのはそのままの意味で、これまで彼女を見かけることすらなかったため。
 ……もう、何日経ったんだ。いったい。
 アウトレットで会い、無事に彼女を家まで送り届けたあの日から今日まで、3年2組の授業がなかった。
 正直、この数日間はほかのクラスの授業で手一杯だったこともあり、彼女探しをしていられるだけの余裕もなかった。
 ……だが。
 今日は、大手を振って彼女と会うことができる。
 どうしても、制服姿ということがあって、わかってはいながらも心のどこかで敬遠していたのだが、こう何日も会っていないとなると、話は別。
 家で会えないぶん、せめて姿だけでも今はとても見たかった。
「っ……」
 予鈴が鳴る前に教室へ向かうと、ちょうど入ろうとしていた彼女の姿が見えた。
 ちらりと。ごく一瞬。
 それでも、喉が鳴る。
 数日間彼女から離れていたためか、ずいぶんと自分の信念がぐらつく。
 ……金曜まで、もたないかもな。
 もし、今彼女とふたりきりになれる機会があったら、間違いなく離せないだろう。
 とはいえ、そんな機会に恵まれるようなことはありえないんだが。
「…………」
「きりーつ。れーい」
 呼吸を整えてから教室に入ると、ちょうど本鈴が鳴った。
 それと同時に、委員長が号令をかける。
「じゃあ、今週は受験対策のプリントをやるから。これは教科書見てもらって構わないし、もしわからないところがあったら、友達と話し合ってもいいよ」
 そろそろ、夏期講習も終盤。
 このあたりで、少しだけおまけしてやってもバチは当たらないだろうと思って提案すると、数人が嬉しそうに笑うのが見えた。
 もちろん、彼女とて例外ではない。
 そんな姿を見てから思わず顔が緩みかけ、慌てて表情を引き締めながらプリントを配り始めると、案の定小さな声ながらもすぐに話し声が聞こえてきた。
 真面目にプリントについて話している子もいれば、何やらたわいない話で盛りあがり始めている子もいる。
 ……ま、そんなもんだよな。
 小さく苦笑して椅子に腰かけてから教卓に頬杖をつき、まぁそれでもいいんだけど、なんて緩い考えも浮かんだ。
「…………」
 とはいえ。
 座ってすぐ、ついつい目が行ってしまう、彼女。
 見ると、何やら真剣にプリントを見ていた。
 先週、2回とも授業をサボったせいか、いつもなかった席に彼女がいるのがなんとなく不思議な感じだ。
「…………」
 教科書を、ぱらぱらとめくりながら解法を探す。
 と思いきや、肘でシャーペンを床に落とす。
 それを拾う。
 絵里ちゃんにつつかれて、苦笑を浮べる。
 ……で、またプリントに目をやる。
 彼女の動作ひとつひとつが、どうも目について仕方ない。
「っ……」
 だが、困ったように指を唇へ当てる仕草が目に入った途端。
 思わず、視線を逸らしていた。
 ……あまりにも艶っぽくて、たまらなかった。
 しっかりしろよ、俺。
 あと2日。
 あと2日経てば、この苦行から解放される。
 まぶたを閉じてそんなことを考え、咳払いをひとつ。
「ん? ――……っ」
 ふいに、目の前に影が落ちてすぐ。
 聞き慣れた声が降ってきた。
「あの、先生。ここって……」
 視線だけを上げると、プリントを両手に持ちながら羽織ちゃんが目の前に立っていた。
 彼女だと認識してすぐ、鼓動が早くなる。
 こんなに近くで見る羽目になるとはな。
 慌てて視線を逸らしてプリントに落とすも、やはりまだ鼓動が早いままだった。
「……あー、ここね。これは、まずこの単位に当てはめる数字を考えないといけないだろ? だから……って、これ。教科書に載ってなかった?」
「え! ……そうですか? え、と……見つからなかったです」
 えへへ、と小さく笑う彼女に、思わず瞳が細くなった。
 ……あまりにも、眩しくて。
 久しぶりに見た笑顔に、ついつい頬杖をついたまましばらく見惚れる。
 かわいい子だな、ホントに。
 ていうか、あれ?
 前から、こんなにかわいく笑う子だったか?
「……先生……?」
 小さく聞こえた困ったような声で、ふと我に帰る。
「……あぁ、ごめん」
「もぅ……」
 少し頬を赤らめてプリントに視線を落とした彼女が、次の問題を指差しながら訊ねる。
「じゃあ、ここは?」
「これも、教科書に載ってるはずなんだけど」
「……あれ?」
 ん? と口元だけに笑みを残しながら首を傾げた彼女に対し、笑みが漏れた。
 彼女らしいといえば彼女らしいのだが、久しくこういったやり取りをしていない。
 だからこそ、なんとなく新鮮だった。
「……え?」
 彼女が持っていたシャーペンを取り、さらさらと文字を書き込んでいく。
 隅のほうに、小さな文字で。

『スカート短すぎ』

 すると、少し眉を寄せてからシャーペンを彼女が取った。
『いつもと一緒ですよ?』
『あと、胸元のボタンもちゃんとしめる』
『しめてます! いつもと一緒だもん』
 筆談とはいえ、いつもと同じ彼女がここにいた。
 視線だけを上げると、小さく唇を尖らせて眉を寄せている姿。
 ……おかしいな。
 俺にはそう見えたんだが…………もしかしたら、疲れてるのか?
「それじゃ、もう少し考えてみて」
「……わかりました」
 そっとプリントを彼女に差し出すと、軽く頭を下げて自分の席へと戻っていった。
 案の定、絵里ちゃんが彼女に詰め寄っている姿が見える。
 ……まぁ、なんとでも言ってくれ。
 あの子に関しては、もう諦めている。
 どうせ絵里ちゃんに何を言っても、あげあし取られそうだし。
「先生、ここなんですけれど」
「ん?」
 そんなことを考えていたら、ほかの子が質問をしにきた。
 羽織ちゃんとは違い、きちんとした質問。
 ……って、なんかヘンな表現だな。
 まぁいいけど。
 結局、その後もいくつか質問しにくる子がおり、答え合わせをする時間がなくなってしまった。
 慌てて立ち上がってから解答が載ったプリントを配り――……終えた時点で、チャイムが鳴る。
 と同時に生徒らが立ち上がり、委員長が号令をかけた。
「じゃ、答え合わせは次回」
 苦笑まじりに呟いてから、残ったプリントをまとめて教室を出る。
 そのとき、ふと羽織ちゃんを見てみると、楽しそうに話をしていた。
 思わずその姿に笑みを浮かべてから、そのまま渡り廊下を進んで準備室へ戻るべく足を向けた。

 いよいよ、夏期講習も最終日。
 さすがに、今日は朝から機嫌がよかった。
 渋滞にもつかまらなかったし、1時間目、2時間目と、滞りなく授業が進みもした。
 これで、次の3年2組での授業が終われば、やっと羽織ちゃんとの生活が戻ってくる。
 そう思うと、自然に浮き足立つ。
「んー。なんか、祐恭君機嫌いいね。いいことでもあった?」
「そうですか? ……正確には、これからあるんですけどね」
 思わずニヤっとした笑みを純也さんに向けると、彼も含み笑いを返してきた。
「……2週間前とは、大違い」
「え。そんなに酷い顔してました?」
「うん。今にも死にそうだった」
「はは」
 絵里ちゃんと同じことを、彼が口にする。
 思わず苦笑をしてから先に準備室を出ると、自然に頬が緩んだ。
 まだ授業には早いのだが、ついついじっとしていられなくて。
 ……って、俺は子どもか。
 我ながら、気の持ちようでここまでテンションが違うかと思うと、少し笑えた。
「……降るかもな」
 ふと、渡り廊下の窓から空を見上げると、朝とは違って分厚い雲が影を落としていた。
 事実、教室内も電気をつけているクラスがほとんど。
 午前中だというのに、ひと雨きそうな勢いだ。
「……ん?」
 渡り廊下を中ほどまで渡ったとき。
 ふと、足が止まる。
 これから行こうとしていた方向に、羽織ちゃんの姿があったからだ。
 思わず笑みがこぼれて、足が速まる。
 ……少しでも、話ができれば。
 このときの俺は、素直にそう思っていた。
 ――……の、だが。
「っ……」
 不意に足が止まり、きゅ、と小さな音が鳴った。
 反射的に逆方向へ身体を向け、身を隠すべく動く。
 そこにいたのは、彼女だけじゃなかった。
 彼女のそばに、英語の教師がいた。
 年こそ俺よりもずっと上だが、まだ独身。
 特に、カッコいいというワケではない。
 だが、人懐っこい笑顔は、同性から見ても魅力的だと思えるようなおおらかな人だった。
「…………」
 そんな彼と、羽織ちゃんがふたりきりで楽しげに話をしている。
 いつも、自分だけに向けられている笑み。
 ……それが、今は彼に向けられている。
 それだけで、心の中にふつふつとこみ上げてくるものがあった。
 ――……嫉妬。
 男の嫉妬は醜いといわれるが、そんなことどうだっていい。
 誰だって嫉妬はあるモノだし、ましてや自分の好きな女がほかの男と親しげに話しているとなれば、それは当然だろう。
 ……笑顔。
 楽しそうに、声をあげて笑っているのもわかる。
 …………俺にはそんな顔見せないくせに。
 まっさきに悔しさが浮かび、目つきがどうしてもキツくなった。
「…………」
 確かに、彼をも知らない彼女の悦に満ちた顔を自分は知っている。
 彼女の感じやすい場所も、どうすれば潤ませた瞳を向けるかも、何もかも。
 だが、悔しいものは悔しい。
 ましてや、2週間も彼女を抱くことはおろか、キスもしていないとなると……想像以上にキツかった。
「……っ」
 今になって初めて、拳に力が入っているのに気付いた。
 いつの間にそこまで力を込めていたのか、手のひらを開けるとそこにはくっきりとした爪の跡。

 嫌だ。

 彼女が、ほかの男に笑みを見せるのが。
 彼女が、ほかの男と楽しげに話をするのが。
 ……しかも、まるで見せつけられてでもいるかのように、自分の目の前でなんて。
 こうなると、もうどうしようもなかった。
 割り込んでいって、抱きしめて、キスをしてやりたい気分だ。
 見せつけてやりたい。
 彼女が自分の女だということを。
 俺のモノだ、と主張してやりたくてたまらなくなった。
「…………」
 そんなことを考えていると、彼女が軽く頭を下げてきびすを返すのが見えた。
 おかげで、少しだが気持ちが落ち着き始める。
 ――……だが。
 次の瞬間、身体だけでなく顔も強張るハメになった。
 
 つまづいて転びかけた彼女を、彼が、目の前で、抱きとめたのだ。

「っ……!!」
 咄嗟に、強く唇を噛んでいた。
 何気ない仕草。
 何気ない動作。
 そのひとつひとつが目に焼きつき、まるでスローモーションのようにゆっくりと動く。
 ……違う。
 これは事故だ。
 故意にやったモノじゃない。
 それは、わかってる。
 ……わかっているんだ。頭では。
 だけど――……。
「……ッ……」
 少し照れたように頬を染めて、何度も何度も謝りながら背を向けた彼女が見えなくなるまで、視線を逸らすことができなかった。
 見たくない。
 だが、視線をはずすことができない。
 ……ちくしょう。
 もう、こんな思いはまっぴらだ。
「…………」
 そこで初めて、唇にわずかながら血が滲んでいるのに気付いた。
 ……どうりで、鉄の味がするわけだ。
 唇を舌で舐め、自嘲する。
 そんな自分の気持ちを表すかのように、先ほどまではなかった雨がいつしか窓を叩きつけるようにしていた。
 渡り廊下に響く、まるで嵐のような雨音。
 最低。最悪。
 どす黒い感情しか渦巻いていない自分にヘドが出そうになりながらも、どうしても――……流すことはできそうになかった。

 この日の授業は、いつも通りに進んでいた。
 普段と違うのは、時々鳴る雷に生徒たちが反応を見せていることだろう。
 それは彼女も例外ではなく、眉間にしわを寄せて耳を塞ぎながら、プリントを解いていた。
 ……いつもと違う髪型……。
 今、そのことに気付いた。
 普段はまっすぐに下ろしているのだが、今日はなぜかふたつにわけて結んでいた。
 いかにも女子高生という感じの髪形が、とても気に入らない。
 いつもならばわざと視線を逸らすのだが、今日は彼女の動作ひとつひとつを見逃さないように、見入っていた。
 ……さっきのアレか。
 堪らずため息が漏れる。
 まぶたを閉じるたびに浮かんでくる、あの光景。
 嬉しそうな、困ったような、そんな顔をして抱きとめられた彼女。
 いくら考えるのをやめようとしても、脳裏に焼きついて離れない。
「………………」
「あ。きりーつ」
 イライラしたまま目を伏せがちにしていると、号令がかかった。
 ……もうそんな時間か。
 今日は、時間の感覚まで狂い始めているらしい。
「これで、夏期講習は終了。今度は新学期だな。それぞれ、気をつけて帰るように」
 副担任らしく声をかけると、ざわつきながらも生徒たちが返事をした。
 彼女とて例外ではなく、鞄に教科書を詰め、絵里ちゃんを連れ立って席を離れようとしている。
「……ちょっと」
「えっ?」
 机に近づいてから小さくそれだけを呟き、視線を外して彼女を促す。
 こうすれば、恐らく絵里ちゃんは黙って彼女だけこさせてくれるはずだ。
「…………」
 振り返らないまま、渡り廊下を通って実験室への廊下を進む。
 そこで初めてうしろを見てみると、やはりついてきているのは彼女だけだった。
 ……察しのいい友達で助かるよ。
 思わず、絵里ちゃんに対して感謝の念がこみ上げた。


ひとつ戻る  目次へ  次へ