「…………」
「えっ……?」
 実験室のドアを開けて彼女を先に通し、そのままうしろ手に鍵を閉める。
 そして。
 振り返った彼女を、しっかりと抱きしめて唇を塞いだ。
「っ……!? ……んっ、せ、んせっ」
 学校ではしない、口づけ。
 だからこそ、彼女が抵抗する。
 ……だが、今はとてもじゃないが、そう簡単に離せる気分じゃない。
 俺は、そこまで人間ができている大人じゃないんだ。
「ん、んんっ……ん……ぅん」
 むさぼるように何度も何度も口づけをすると、自然に彼女の身体から力が抜けた。
 それを感じながら、さらに彼女を求める。
 ……もっと。
 もっと欲しかった。
 それこそ――……今すぐにでも、自分で満たしてしまいたいほどに。
「……っは……ぁ」
 やっとのことで腕から力が緩み、彼女が俺の胸に手をついて身体を離した。
 苦しげに息をつきながら、俺を見上げる。
 ……あの、俺を狂わせる濡れた瞳で。
「……っ!? やっ……! せん、せ……だめ……!」
 彼女を立たせたまま、首筋を舌で撫でる。
 途端に、身をよじらせて彼女が首を振った。
「嫌? どうして」
「……だって! 先生、ここっ……学校でしょ? こんなこと、だめ……」
「ダメ? なんで、ダメなんだ」
 思わず口調が荒くなる。
 じりじりと彼女を見下ろしながら詰め寄ると、教師用の実験台に彼女が背中をぶつけた。
「だって……っ! 誰がくるかわからないし……それにっ! 隣にはほかの先生が――」
「今は誰もいない。だからこうしてふたりでいるんだろ?」
「でもっ! でも…っ。こんなのって……」
 瞳を揺らしながら俺を見上げ、視線を逸らすようにふっと俯く。
「っ……!」
 そんな彼女の顎を片手で取ってすぐ鼻先をつけると、不安の色をたたえた瞳を向けた。
 ……そんな目で見るな。
 なんだよ。
 俺がそんなに、悪いのか?
 俺はそんなに、我侭なのか?
 学校じゃダメだという。
 なら、どこならいい? 家ならいいのか?
 ……あんな姿見せられてなお、ガマンしろとでも?
「…………」
 だいたい、なんとも思ってないのか?
 ……俺に見られていたと気付いてなければ、平気で何もなかったように振舞うのか?
 ッ……くそ……!
「っあ……」
 彼女の顎から手を離し、詰め寄っていた身体を離す。
 一気に身体から力が抜けたせいで、今にも倒れてしまいそうだった。
 ……みっともないな。
 自嘲しながらうつむき、ため息をついてから彼女に背を向けて実験台に両手をつく。
「……先生……?」
 そんな自分に、彼女がそっと声をかけてきた。
 ……だが、今は彼女に対して見せてやれるだけの感情はない。
 それこそ、ただのひとつも。
「…………」
 たまらず、溜めていた息を吐く。
 そして――……ゆっくり彼女に振り返ってから、小さく唇が動いた。
「もういいよ」
「え……?」
「悪かった。俺が……全部」
「……先生……?」
「もういい。……早く帰りなさい」
「っ……!」
 表情なく放った言葉に、驚いたように彼女が瞳を丸くする。
 そして、しばらく俺を見つめていたが、やがて小さく首を振ってからすぐそばにきた。
「な……、んでそんな……っ。そんなこと、どうして言うんですか? 私が……私が、拒んだから? だったら――」
「そうじゃない。……今日は、もういいよ。また、連絡する」
「っ……先生!」
 伸ばされた彼女の手を振り切るように準備室へ向かい、扉を開けたところで――……彼女を振り返る。
 すると、そこには動こうとせず、ただただ立ち尽くしている彼女がいた。
 ……苦しい。
 自分は、相変わらず卑怯だな。
 彼女を追い詰めてここまでしたのは自分なのに、自分だけ逃げるなんて。
 ……いや、事実――……逃げた。
「…………」
 準備室に入ってドアを閉め、そのまま椅子に腰かける。
 ずっと待っていた、この日。
 だが、あの光景が目から離れず、自分を拒んだ彼女に対して醜い怒りしかなかった。
 ……それが、許せなかったんだよ。
 ずっと待ち望んでいたはずなのに。
「……はぁ」
 また、だ。
 ………また、自分から彼女を突き放した。
 ずっと求めていたものなのに。
 ずっとずっと、何よりも彼女が欲しかったのに。
「っ……くそ」
 たまらず、額に手を当てる。
 俺はどうしたらいいんだ。
 彼女を拒絶し、明らかにすがっていた彼女をさらに追いやった。
 ……もう、狂いそうだ。
 勘弁してくれ。
「……っ」
 しばらくすると、小さくドアの閉まる音がした。
 恐らく、彼女が出て行ったのだろう。
 ……追いかけることなど、できるはずがない。
「……………」
 泣いてるよな、きっと。
 それがわかるのに、足が動かない。
 今、自分が行ってどうしたらいい?
 うしろから抱きしめて、キスをすればいいのか?
 それで……彼女が救われるのか?
 自問自答ばかりが繰り返される。
 ――……果てのない、闇。
 そこへずるずると引き込まれていく気がして、無性に怖さを感じた。

 昼を誘ってくれた純也さんに断りを入れ、ひとあし先に帰宅することにした。
 相変わらず、まったく降りやみそうにない大粒の雨。
 それでも、珍しく置き傘をしておいたおかげで、教員用駐車場まで濡れることはなかった。
 ……今ごろ、彼女はもう家で過ごしているだろう。
 せっかく、ウチで久しぶりにふたりきりの時間を味わえると思ったのに。
 ……すべては、俺のせい。
 きっと、目を赤く腫らしているだろうな。
 彼女の行動ひとつひとつが手に取るようにわかるだけあって、余計に辛かった。
「……っ」
 鍵をあけて車に乗り込むと、スマフォがポケットから落ちた。
 ……電話。
「…………」
 いつもは気にもしなかったのに、このときばかりは無意識のうちに彼女へかけていた。
 彼女が出たら、なんて言おうか。
 ……まぁいい。
 それは、彼女が出てから考えれば。
 期待半分、不安半分でのボタン操作。
 ――……だが、予想に反して耳に届いたのは、電源が入っていないというあのメッセージではなく、聞きなれないメッセージだった。

『この電話は、お客様の都合により繋がりません』

「……何?」
 ちょっと待て。
 スマフォは、どこにいても連絡が取れるための物じゃないのか?
 電源は入っている。
 だが、都合により出れない……だと?
 これじゃまるで、着信拒否じゃないか。
「…………」
 ……着信拒否……?
 ふいに浮かんだ言葉で、考えがまとまる。
 だとすると、俺を拒否に指定したということか?
 ……なんだよ、それ。
 そこまでして、接触を一切拒むってことか。
「っ……くそ!」
 思い切りペダルを蹴飛ばした拍子に、車体が大きく揺れた。
 たしかに、俺が悪いだろう。それは認めてもいい。
 それでも、悪かったと思ったからこそ、連絡を取りたいと思ったんだ。
 望んだ。願ったんだぞ。
 ……なのに……!
「ッ……」
 スマフォを乱暴に助手席へ放り、イライラしたままエンジンをかける。
 聞き慣れたエンジン音だが、今日はやけにうるさく思えた。
 何度か踏み込んで回転数を上げ、荒っぽくギアを入れてすぐ学校を離れる。
 もういい。
 こんな目に遭うなんて、たくさんだ。
 ……嫌なんだよ、もう。
 何もかも。
 ――……こんなことしかできない、自分自身が。
 彼女に会えない、彼女に拒絶されている、それを認めたくなくて、何もかも彼女のせいにばかりしているみっともない自分が。


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