本当は、会いたくてたまらない。
 俺だけを呼んでくれる、あの声が聞きたい。
 抱きしめて、キスをして、朝まで離さずに寝ていたい。
 あの屈託のない笑みが、あの困ったような顔が、あの愛しげに見つめる濡れた瞳が――……どれもこれも、本当は欲しくて欲しくてたまらないのに。
「………………」
 フロントガラスを容赦なく叩きつけてくる雨をワイパーで払いながら車を飛ばすと、いつもよりもずっと早くマンションに着いた。
 もしかしたら、今ごろ部屋にいるんじゃないだろうか。
 そして、玄関を開ければあの笑みで迎えてくれるんじゃないか。
 そんな我侭な期待でいっぱいだからこそ、そうでなかったときの反動が大きいことは、気付かないフリをした。
「…………」
 わかってたよ。そりゃあな。
 そんな甘い現実が待っているはずはなく、鍵を開けた先にあっていたのは、昨日までと何も変わらない、彼女のいないいつもの静まり返った我が家だった。
 ……わかってた。
 わかってはいたが……俺という人間は欲張りだから。
 リビングのテーブルへ鞄とスマフォを放り、倒れこむようにソファへ腰かける。
 もたれるようにして頭を預けると、軽く壁に当たったせいで鈍い音が響いた。
「…………」
 明日からは、夏期講習のない平穏な日々。
 いわゆる、夏期休暇という名目の年休消化の日々。
 そうなると、彼女がいない今となっては、手持ち無沙汰で仕方がなかった。
「………………」
 ……もう1度、電話してみようか。
 弱い自分が顔を出すが、どうせまた拒否されるに違いない、と否定する自分もいる。
 ……それでも。
 もう1度。
 これでダメだったら、諦める。
 それこそ、見捨てられたんだと……そう理解して、どうにかするしかない。
「………………っ」
 自分に言い訳しながらスマフォを取り、そっとリダイヤルを押す。
 ――……と、しばらくしていつも通りの呼び出し音が響いた。
 ……繋がった。
 それだけで、ずいぶんと救われたのがわかった。
「…………」
 だが、そこからが長かった。
 なかなか出ようとしない。
 ……わかってる。
 彼女が出ようか迷っていることくらい。
 だから、あえてかけ続けた。
 ダメだと思っていたものが、つながったんだ。
 彼女が電話を取るまで、絶対に切ってなどやらない。
 規則的に響く呼び出し音を耳にしたまま、そう決めて。
「…………」
 ――……どれくらい呼び出し音が続いただろうか。
 いい加減、耳にあの音がこびりつき始めた………とき。

『……もしもし』

 突然その音が途切れ、彼女の声が耳に響いた。
 だが、その声はあまりにも弱々しくて、今にも消えてしまいそうで。
 ……彼女をここまでしたのは、俺だ。
 たまらず、顔が歪む。
「もしもし。……今、どこにいる?」
『……家にいます』
「ずいぶん雨音が響く部屋にいるんだな。……正直に。どこにいる?」
 部屋じゃないのは明らか。
 声がほとんど聞こえないほど雨音がするなんて、もしかしたら外……なのか?
 声のトーンが自然に落ち、不安が大きくなる。
 すると、彼女が観念したように小さく反応した。
『……マンションの……下にいます』
「ッな……!!」
 その言葉を聴いた瞬間、鳥肌が立った。
 ……なぜ?
 なぜ、鍵を使って上がってこない?
「どうして部屋にこない! こんな雨の中立ってたら、風邪引くだろ!!」
『……だって……』
「もしもし!?」
 慌てて玄関に向かいながら靴を履き、鍵も閉めずにエレベーターへ駆ける。
 上がってくるエレベーターのボタンを強く押し続けながら彼女に声をかけるが、返事が返ってこなかった。
「……もしもし! 今、どこにいる! マンションの下の? 下の、どこだ!!」
『……っく……』
「ッ……!」
 ――……泣いてる。
 小さな小さな嗚咽が耳に届き、身体の芯が大きく揺さぶられた。
 ……俺のせいだ。
 彼女を泣かせているのも、傷つけたのも、ここまで追い込んだのも――……すべて俺のせいだ。
 やっと口を開けたエレベーターへすぐ乗り込み、“閉”ボタンを連打して1階を押すと、気持ちに反してずいぶんとゆっくり下がり始めた。
 1階で開いたドアをこじあけるようにして身を滑らせ、そのままエントランスから外に向かう。
「ッ……」
 ――……すぐ、彼女の姿を見つけた。
 電話を切って彼女に駆け寄ると、靴底が鳴る。
 その音で気付いたらしく、彼女も俺を振り返った。
「…………」
「…………」
 案の定、泣いていたと思われる顔。
 ……だがそれ以上に目を引いたのが、全身ずぶ濡れの格好だった。
 束ねられている髪はじっとりとシャツに張り付き、そのシャツも雨に打たれて肌を透けさせている。
 白く見える下着のストラップがやけに痛々しく目に映っただけでなく、スカートも、靴も、雨に打たれたすべての箇所が色濃く重たく見えた。
「ッ……」
「……っ……ふぇ」
 堪らず、彼女の身体を抱きしめる。
 途端、いつもの彼女からは想像もできない冷たさがワイシャツを通って伝わる。
「なんで、こんな格好してるんだよ……!」
「……だって……っ! だって、ぇ……」
 力強く、それこそ痛いくらいに彼女を抱きしめると、子どものようにしゃくりをあげながら、しがみついてきた。
 そんな彼女を抱きしめたままエレベーターに乗り込み、肩を抱いて部屋に向かう。
 玄関を開け、靴を――……だが、彼女は動こうとしない。
「っ!?」
 玄関先で足元を見つめていた彼女を躊躇なく抱き上げ、そのままの格好で浴室へと連れていく。
 それこそ、否応なしに。
 今の彼女に、拒否権はない。
「やっ……! せんせっ……!!」
「嫌もクソもあるか。風邪引くだろ!」
 ローファーを履いたままの彼女を浴室に下ろし、浴槽の縁に座らせる。
 ボタンを押して風呂の湯を張り始めると、ほどなくして白い湯気が徐々に室内へ満ち始めた。
「……いまどきの小学生だってこんなに濡れないぞ」
「…………だって……」
 座った彼女のローファーに手をかけ、外すように脱がす。
 すると、思った以上の水がこぼれた。
 水気を含んだ靴は、やけに重たい。
 ……本革だろ、これだって一応。
 これだけ水を吸ったらダメになるって考え――……ないから、こんなことしたんだよな。
 ため息混じりに靴下を脱がせ、放るようにしてすみに投げる。
 本当は、叱る権利なんてないんだ。
 彼女をこうさせたのは、ほかならぬ俺なんだから。
「……どうして中に入ってこなかった?」
 制服のリボンを外しながら視線を合わせると、困ったように彼女が視線を逸らした。
 それを見て小さくため息をついてから濡れたリボンを洗濯カゴに投げ、ぴったりと肌に張り付いたシャツのボタンに手をかける。
「だいたい、なんで電話しなかったんだよ。傘持ってなかったんだろ? こんなびしょびしょになって……風邪引きたかったの?」
「……だって……」
「だって、何?」
 くり返す言葉に力はなく、先ほどと同じように呟くだけ。
 ……だが、シャツのボタンの最後を外そうとしたとき、彼女の顔からふいに視線が落ちて――……ため息が漏れた。
「……どうして、着信拒否した?」
「あれは……!」
 一瞬身体を強張らせ、手を合わせた彼女を見上げると、申し訳なさそうに視線をさまよわせていた。
 彼女の手に手を重ね、改めてため息をつく。
 まるで、芯まで冷え切ってしまったかのような冷たさに、痛みすら覚える。
「怒ってないと言えば嘘になる。……それくらい、ショックだった」
「っ……ごめんなさい……。でもっ、でも……すぐに解除したの! 本当に……1分も、してなくて……っ」
 首を振りながら俯く姿からして、恐らく本当だろう。
 だが、やはりショックはショックだった。
 “拒否”をまざまざと突きつけられ、まるで彼女の中から自分を排除されたような気持ちでいっぱいになったから。
「…………もう、2度としないで。わかった?」
「……しません」
「よし」
 小さくではあるがうなずいたのを見て、自分もうなずいていた。
 上から目線だとか、なんだとか、いくらでも言われようはある。
 だが、あんな思いは二度とごめんだ。
「でも、拒否したって着歴は残るだろ? だったら、どうして電話かけてこなかったの?」
「……それは……」
「それは?」
 スカートのホックを外してジッパーを下げながら言うと、ちょうど湯を張り終えたことを告げるメロディが響いた。
 何も言わず、彼女に視線を合わせる。
 すると、返ってきたのは、今にも泣きそうに張り詰めた眼差しだった。
「……怖かったんです」
「怖い……? 何が」
「……だって、あのとき……! 先生、すごい怒ってたでしょ? だから……だからっ……電話かけて『もういらない』って……ッ……言われたら、どうしようって……おもっ……!」
 大きな瞳に、大粒の涙が溢れた。
 ぽろぽろと音もなくこぼれ、慌てたように彼女が拭う。
 痛々しいほどに、小刻みに揺れる身体。
 ……俺は、なんてことをしたんだ。
 ふるふると首を振る彼女を見ながら、いたたまれない気持ちで胸が痛くなる。
「だからっ……! 怖くて、電話できなかったんです。嫌われたんじゃないか、って……っもう、もう……会いた、くないって言われ……じゃないかって……!」
「ッ……そんなこと言うわけないだろ!」
「だってぇ……!!」
 たまらず、彼女を抱きしめていた。
 体温が失せてしまった身体があまりにも心細くて、あまりにもつらくて。
 肩に彼女の涙が落ち、そこがわずかに温かくなる。
 しゃくりを上げながら嗚咽を漏らす姿は、どうしようもなく脆く映った。
「……俺が、そんな簡単に離すワケないだろ?」
「だって……っく……ひっくっ」
「……拒否されたからって、別れるなんて言ったりしない」
「ふぇ……」
 小さくうなずいた彼女を離し、両手で頬を包むようにしてから親指で涙を拭う。
 すると、わずかながらも彼女らしい顔に戻った。
「……よし。じゃあ、風呂に入ろう。そんな格好じゃ、ホントに風邪引く」
「…………はい」
 すん、と鼻をすすった彼女の頭に手をやり、うなずいてから彼女がシャツに手をかける。
 それを見てから洗面所に出てシャツを脱ぎ、ベルトに手をかけたところで――……彼女が意外そうな声をあげた。
「ん?」
「……え、っと……先生も……入るんですか?」
「何?」
 きょとんとした顔をした彼女に、大きくため息をついてから軽く睨む。
 何も、そんな顔をしなくてもいいだろうが。
「誰がひとりで入れてやると言った。……2週間分、きっちりもらうからな」
「……え?」
 よくわかってないような彼女に瞳を細め、服を脱いでから手早く浴室のドアを閉める。
 ――……もう、逃がすワケにはいかない。
 この2週間、俺がどんな思いして待ってたと思ってるんだ。
 それに、あの光景。
 この代償は、きっちり払ってもらう。


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