「すごい」
 塩辛をひと口食べた彼が、そんなことを呟いた。
 ……おいしくなかった……かな?
「何がですか?」
「……これが塩辛か」
 口元には笑み。
 思わず小鉢をまじまじと見てから、視線を上げる。
「おいしくないです……?」
「まさか! 逆だよ。スゴいうまい。全然臭くないし。……へぇ。塩辛ってこんなに、うまいんだ」
 感心したように微笑んでくれた彼が、もうひと口食べてくれた。
 よかった。
 喜んでもらえたのも嬉しいけれど、彼に『おいしい』と言ってもらえたことが、やっぱり何よりも嬉しかった。
「よかったぁ。おいしくないって言われたら、どうしようかと思って」
「この塩辛なら大歓迎。うちの親父も喜ぶよ」
「そうですか?」
「うん。酒飲まないクセに、つまみ好きだから」
 苦笑を浮かべながら、彼が発泡酒のプルタブを起こした。
 ……う。お酒、かぁ。
 お酒を飲むと人が変わったりしたら……どうしよう。
 なんて、おいしそうに飲む姿を見ながら内心ではどきどきする。
 なんて言うか、やっぱり心配なのは……えと、また手を出されるんじゃないか、ってこと。
 ……うぅ。
 自分が作ったおかずをつまみながら飲んでくれるのは嬉しいんだけど、なんだかとっても相反する気分。
 でも、何もないよね。きっと。
 だって、今日は私の誕生日なんだから。
「……あー、うまかったな」
「よかったです」
 きれいに平らげてくれた夕食のお皿を下げながら、いよいよメインとも呼べるケーキを冷蔵庫から取り出す。
 えへへ。
 すごく楽しみ。
 わくわくしながら箱とお皿、そしてナイフを持ってテーブルに行くと、彼が苦笑を浮かべた。
「……嬉しそうだね」
「もちろんですよー! だって、ケーキなんて久しぶりだもんっ」
 彼の言葉にうなずくと、自然に頬が緩んだ。
 ケーキ。しかも自分の誕生日用にデコレーションされたワンホールなんて、いつ以来だろう。
 高校生になってからはお母さんが手を抜いて『普通のショートケーキでもいい?』と言い出したせいか、ホールの誕生日ケーキは本当に久しぶりだった。
「じゃあ、早速……」
 どきどきしながら箱を開ける……と。
「うわぁ……! かわいいー」
 イチゴの乗っている、小さな丸いケーキ。
 だけど、なんか、作りがとってもかわいくて
 うぅ、すごく嬉しい!
「先生、ありがとう!」
「いいえ」
 満面の笑みを彼に向けると、よっぽどの顔だったらしく、一瞬目を丸くしてから彼も同じように笑った。
 だって、だって!
 すごく嬉しいんだもん。
 ぐるりと縁を彩るように飾られているイチゴはもちろんだけど、『Happy Birthday』と書かれているチョコプレートが、特に目につく。
「よく食べれるね」
「えへへ。ケーキは別なんです」
 ろうそくをどうしようか迷ったものの……結局やめることにした。
 だって、穴が開いちゃうのが、もったいないんだもん。
「ね。先生のぶんも、一緒にお祝いしましょ?」
「……俺の? いいよ、別に」
「ダメですよっ! 昨日、ちゃんとできなかったんだから」
「……わかりました」
 苦笑を浮べながらも、うん、と言ってもらえることができて、ちょっと満足。
 彼のぶん。
 それは、彼の誕生日のぶん、ということだ。
 実は、彼の誕生日は昨日の8月8日。
 すごいよね? 1日違いだったなんて。
 以前聞いたとき、本当に驚いて。
 予想以上に、自分でも反応していた。
 なのに、プレゼントもケーキもいらないって言われちゃって……。
 もちろん、さすがにプレゼントは受け取ってもらったんだけどね。
「じゃあ、誕生日の歌。歌います?」
「いいよ、恥ずかしい」
「もぅ。じゃあ、改めまして」
 崩していた足を戻して、彼に向き直ってからにっこり微笑む。
 昨日の続き。
 自分の中では、今日もまだ彼の誕生日のような気がしていたから。
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。……羽織ちゃんも、おめでとう」
「…えへへ。ありがとうございます」
 ……なんか、はたから見たら笑われちゃうかもしれないけれど、でも、すごく幸せ。
 高校3年の誕生日に、大好きな人と一緒にお祝いできるんだから。
「じゃあ、切りますね」
「いいよ、ひとりで食べて」
「た、食べれません!」
「そう? なんとか頑張れば……」
「もぅ! 半分こなの!」
 ナイフを持って先に半分にしてしまうと、彼が小さく声を上げた。
 食べない気だったのかな、やっぱり。
 でも、そういうわけにはいかない。
 だって、ふたりのお祝いなんだもん。
「はい、どうぞ」
「……この量はどうかな」
「半分ずつですから」
「いや、物理的にはそうだけど……なんかこう、違う気がする」
 お皿に半分移してから彼に渡すと、眉を寄せながらまじまじとそのケーキを見つめた。
 まるで、どうやって食べようか迷っている、みたいな。
 お兄ちゃんとあまりにも違う反応で、つい笑ってしまう。
「孝之はこれくらい……ていうか、ワンホールぺろっと食べそうだけどね」
「あ、前に食べてましたよ。いちごの生クリームじゃなくて、チョコレートでしたけど」
「……うわ。胃がおかしくなる」
「ほんと、よく食べますよね」
 以前、安売りになってたと言ってクリスマスの夜あたりに買ってきたことがあった。
 わーい私もひとくち……と思ったものの、あっという間になくなったの。
 ……さすがにちょっとびっくりした。
 夕飯しっかり食べたあとだったのに、コーヒー片手に映画見ながらチョコレートケーキって。
 しかも21時スタート。
 絶対、胃がどうかしてると思う。
「それじゃあ、いただきます」
「召しあがれ」
 彼を見ながらフォークを取り、先にひと口。
 ……わ。
 わぁ!
「ん、おいしい!」
 口に入れた瞬間、今まで食べたケーキと違うことを実感した。
 生クリームがすごく軽くて、しつこくなくて……しかも、溶ける!!
「はぁ……おいしい」
 音で表すと、しゅわふわ、みたいな。
 ほう、と息をつきながら感想がもう1度あふれる。
 だって、本当においしいんだもん。
 甘すぎず、あっさりしすぎず、こってりすぎず。
 私の人生の中で、パーフェクトと呼べるケーキ。
「よかったね」
「すごくおいしいです! 先生も食べたほうがいいですよ? 絶対!」
「俺はいいよ。おいしいんなら、羽織ちゃんが食べてくれれば――」
「もぅ! 先生の誕生日ケーキでもあるんですよ? ひと口だけでもいいから……ねっ?」
「…………わかった。じゃあ、ひと口ね」
 ケーキのお皿を置いてから両手で彼にすすめ、笑みを浮かべてうなずく。
 すると、そんな私とケーキとを見比べながら、渋々ながらもフォークに少しだけ取ってから、口をつけた。
 …………どう?
 どうですか?
「おいしいでしょ?」
 もくもく、と特に表情を変えることなく食べてくれた彼を見ながら訊ねると、飲み込んでから口を開いた。
「うまいけど……。コレ、半分は食えない」
 と、苦く笑う。
 ……たしかに。
 半分といっても、割と大きなケーキで。
 うーん。
 やっぱり、お兄ちゃんとは違うよね。
 甘い物が元々好きじゃない彼にとっては、辛いかもしれない。
 でも。
 そんな彼が、ひと口食べてくれたこと。
 これがもう、本当に嬉しかった。
「よかった。ありがとうございます」
「いーえ。……まぁ、誕生日くらいはね」
 いつもの彼なら、絶対に拒否してケーキなど食べることはない。
 誕生日だから。
 その言葉で、特別という意味を強く実感する。
「そういえばさ」
「え?」
 彼がケーキのお皿をテーブルに置いてから、こちらに視線を向けた。
 どことなく、意地悪そうな……笑顔。
 ん。……んん?
 普段の学習があるからか、つい身構えてしまうのは仕方ないだろう。
「珍しいね、羽織ちゃんがドラマ途中までしか見ないなんて」
「え!? ……そ、そんなことないですよ」
 ……う。来た。
 今までDVDには一切触れられなかったのに。
 もしかしたら、私が何も喋らないから、逆に怪しまれたのかもしれない。
「いつもは、俺がどんなに文句言っても最後まで見るのに。……で? どんなドラマだったの?」
「え」
 どんなドラマって……そんな、あの。聞いちゃいます?
 ごく、と思わず大きなケーキの塊を飲み込んでしまい、一瞬息が詰まった。
「っえ……えっと……恋愛、ものです」
「で?」
「……こ、高校生と先生の話……」
「ふぅん。……見たいね」
「えぇ!!?」
 思わず大きな声が出た。
 彼がドラマを見たがるなんて、初めて。
 いつもは、私が見ているのを横からあれこれ茶々入れながらけなすだけなのに。
 ……いったい、どういう風の吹き回し?
 う。
 まさか、もう勘付いてるなんてことはないよね?
「どうしてですか?」
「だって、先生と生徒なんでしょ? ちょっと気になるじゃない」
「……そ、そうかな」
「現に、俺たちがそうなんだし」
「でも、男の子と女性の先生ですよ?」
「じゃあなおさら」
「えぇ……!?」
 もしかしたら、ちゃんと顔が対応できてないのかもしれない。
 あたふたと身長に言葉を選んでいる私とは違い、ニヤニヤと余裕めいた笑みを浮かべて彼が続ける。
 ……何を企んでるんだろう。
 というか、どうしてそこまで疑問に思ったの……?
 うぅ。絶対、何か気付いてるんだ。
 そうじゃなきゃ、彼がここまでドラマに固執したりするはずないんだから。
「先生、そんなに見たいですか?」
「うん。そこまで羽織ちゃんが隠し続けるから、余計に」
「っ……私のせい……!?」
「ま、そんなトコ」
 くすくす笑われ、予想外の事実に目が丸くなった。
 隠してるつもりはなかったんだけど、やっぱり……不自然だったのかな。
 でも、あれをふたりで見るわけにはいかない。
 だだだだって、中身は……ドラマじゃない要素のほうが強いんだから。
「じゃあ、先生ひとりで見てください」
「なんで?」
「えっと、私……途中でおもしろくなくなっちゃったし。でも、先生見たいでしょ? だから、お風呂に入ってる間とかで見てもらえると、嬉しいんですけれど……」
「……ふぅん。別にいいけど」
 ぽん、と手を叩いて精一杯の言い訳を考えながら彼に伝える、不思議そうな顔をしながらも、うなずいてくれた。
 ……よし。
 それなら、まだいいかな。
 さすがに一緒には見れないから、彼ひとりで見て気付いてもらったほうがいいと思うし。
「で? どこにそのDVDがあるの?」
「わぁっ!?」
 彼を見ると、ビデオラックの前に移動していた。
 は……早いっ。
「え、ええと……ここに」
 言いながら手前にあるDVDを取り出すと、怪訝そうな顔をされた。
 ……う。
 やっぱりそうだよね。
 彼の前で取り出すのは、間違いだった。
「……なんでこんな奥にしまったの?」
「え!? ……い、いえ……あの、邪魔かなぁ……なんて思って」
「邪魔? なんで?」
「う。……う、ううん。なんでもない」
 言いながら渡すと、まだ腑に落ちない表情をしていたものの、ラベルを見たりしてから――……いきなり取り出して、デッキへ差し込んだ。
「わぁっ!!?」
「っうわ!?」
 慌てて彼の手を取り、そのまま取り出しボタンを押す。
「何?」
 びっくりしたような顔をされるけれど、ぶんぶんと首を振ってディスクを背に隠すしかできない。
 だだだだって!
 びっくりしたのは、私のほうなんだから!
 ……な……中身を知ってるだけに。
「だ、だからっ。私がお風呂入ってる時に――」
「なんで? いいじゃない、別に。ほら、ディスクは?」
「……だめです」
「……んー? なんか、隠してない?」
「かっ、隠してなんか――」
「じゃあ、出して」
 片膝を立ててこちらを見る彼に、思わず言葉が続かなかった。
 だ、だって……。
 これ…………。
「……はい」
「ん。いい子」
 結局、彼に勝てるはずもなく、あっさり断念。
 ディスクを差し出してから、すぐにその場を離れる。
 ……危ないもん。
 いろいろと。
「じゃあ、お風呂入ってきます」
「うん。どうぞ」
 そそくさと洗面所に向かって、大きくため息をつく。
 ……ああもう。
 絶対また怒られる。
 それどころか、もしかしたら軽蔑されてしまうかもしれない。
「……はぁあぁぁあ」
 ドアにもたれながら、思わず目が閉じる。
 でも、今回は絵里がくれたって言ってあるし、もしかしたら平気……じゃないよね。やっぱり。
「…………」
 どのみち、お風呂から出れば例のDVDを見た彼と顔を合わさなければならない。
 ……そう考えると、ものすごく気が重かった。
 とっても、かなり。
 ……うぅ。
 誕生日にこんなブルーになるなんて。
 やっぱり、絵里から電話がきたときに、返しに行っちゃえばよかったんだ。絶対。
 今さらながら、後悔しか浮かばなかった。


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