遠足の余韻も消え始めたころ。
 テストが近づいてきたのもあって、クラスの中は違う意味で騒がしかった。
 テスト範囲内までの学習が終わっている授業は自習になることが少なくなく、今日も午前中の2時限が自習に変わった。
「あ……そろそろ行かないと」
 お弁当を食べ終え、あと少しで5時限が始まるというときの、まさにひとりごと。
 でも、ジュースのパックを机に置いたところで、絵里が私を見る。
「そっか。化学だもんねー。でも、瀬尋センセこの前実験やるって言ってなかった?」
「でも、聞きにいかないわけにいかないでしょ?」
「まーね。はー、あっつい……行ってらっしゃーい」
 べたりと机に伏せた絵里のやる気のない応援を受けながら、渡り廊下を進んで準備室へ向かう。
 あの遠足以来、日を追うごとに瀬尋先生のことは気になっていた。
 一度好きになった相手だからこそ、簡単に気持ちが離れるのは難しい。
 しかもーー“彼女”とは本当に、形だけのものだったと知った今は、なおさら。
「…………」
 それに、ね。
 前と……それこそ、着任してすぐのころと比べて、瀬尋先生の雰囲気が変わったなとも感じていた。
 4月のころは、冗談も言わなかったし言えない人だった。
 でも、最近は私でさえ冗談めいて話すことができるようになったし、何より、笑顔が増えたんだよね。
 それこそ、いたずらっぽく笑うようなものまで。
「失礼します」
 ゆっくりと化学準備室を進んでいくと、お昼休みとあっておいしそうな匂いがした。
 ……あ。
 田代先生よりも先に瀬尋先生が目に入り、そのとき、彼が髪を切ったことにすぐ気付いた自分がおかしかった。
 けれど、机まで行ったところでふたり揃ってお箸を持っているのがわかり、申し訳なさが先に立つ。
「っ……すみません。早かったですか?」
「いや、大丈夫」
 お箸を置いてペットボトルの紅茶をひとくち含んだ彼が、顔をあげる。
 言葉通り、優しい顔だからこそちょっぴり申し訳ない。
「次の時間は、前回の最後にも言ったけどひとつ実験をやり残してるから、それをやろうか」
「わかりました。……あれ?」
 ふと机に目を落とすと、ほぼ食べ終わっているお弁当の容器に目立つ色がひとつ。
「先生、トマト嫌いなんですか?」
「なんで?」
「だって、いかにも残されてるじゃないですか」
「羽織ちゃんは、好きなもの最初に食べる人?」
「え? えっと……私は、最後に食べたいのでとっておきますけど」
「でしょ?」
 にっこり笑った彼は、そう言うと残っていたプチトマトではなく、ごはんにお箸を伸ばした。
 なるほど。
 瀬尋先生、そんなにトマト好きだなんて知らなかった。
 じゃあ、もし今度うちでご飯食べることになったら、トマトサラダなんていうのもいいかもしれない。
 などと考えていたら、田代先生が頬杖をついてニヤリと笑った。
「羽織ちゃんも言ってやってよ。先生なら好き嫌いしないで食べてください、って」
「っ……純也さん!」
 慌てたように瀬尋先生が顔を上げたのを見て、ああなるほどと納得。
 口調がいつもと違って、よどみないなぁと思ったら、そっちだったのね。
 って、もちろん普段もよどみないんだけど、いかにもな感じだったから、おかしくてちょっぴり笑ってしまう。
 すると、目があった途端に彼は眉を寄せ、ため息をついた。
「あはは」
「そこは笑うとこじゃないけど?」
「すみません」
 でもだって、瀬尋先生ってば小さい男の子みたいだったんだもん。
 普段と違って見られないような顔だからこそ、かわいくて笑いはなかなか止まらなかった。
「トマト嫌いなんですか? 甘くておいしいのに」
「甘い? トマトが?」
 甘いと言った瞬間、ものすごく嫌そうな顔をされ確信。
 どうやら相当嫌いな部類に入るらしく、『あ』と表情を戻したのも見たけれど、ばっちり彼がよっぽどのトマト嫌いなんだとわかった。
「羽織ちゃんは好き嫌いないの?」
「え?」
「あー、羽織ちゃんはニンジンがダメなんだよね」
「た、田代先生!」
 相変わらずニヤリと笑ったまま、田代先生が今度は私の嫌いな物をさらりと言った。
 ……うぅ。
 なんか、そういうところ絵里に似てきてません?
「……へぇ。ニンジンがダメなんだ」
「っ……いいじゃないですか、嫌いなものがあっても……」
「それはそうだけど、だったら人のこと言えないよね?」
「………うぅ」
 先ほどまでとは違って、なぜか瀬尋先生がいたずらっぽく笑った。
 うぅ。だってニンジン、変に甘いじゃないですか。
 今の今と違って言葉に詰まると、まるで形勢逆転とばかりに彼は楽しそうな顔をした。
「でも私、トマト好きですよ?」
「俺もニンジンは好きだよ?」
「……う。それは……その」
 即答するも彼とて引かず、これは間違いなく平行線だなぁ。
 そんな私たちを見て田代先生はおかしそうに笑ったけれど、瀬尋先生が食べ終えたお弁当の容器に、トマトだけが残っているのを見てちょっとだけかわいそうに思えた。
「食べないんですか?」
「食べない」
「あはは」
 一応聞いてみたら、ものすごく嫌そうに即答され、また笑いが漏れた。
 そんな私をみて、彼が小さく声をもらす。
「あげる」
「あ……捨てちゃうなら、もらいます」
 きっと、半分くらいは冗談だったんだと思う。
 でも、容器ごと差し出されて、ついうなずいていた。
「え、ほんとに?」
「冗談でした?」
「いや、トマト……だよ?」
「トマト好きですよ?」
「……トマト好きって、ごめん、よくわかんないんだけど」
「もぅ。おいしいじゃないですか」
「いや、だからそれがわからないんだって」
 眉を寄せて嫌そうな顔をされ、ああ本当に嫌いなんだなぁと思った。
 いただきます、と断ってからつまみ、ヘタだけを返す。
 口元に手を当てたまま小さく頭をさげると、何やら言いたげな彼と目が合った。
「あー……食べようと思ったのに」
「もぅ。じゃあ今度、トマトサラダ作ってきますね」
「うわ、何それ。ほんと無理」
 慌てたように首を振ったのを見て、こちらも笑みが浮かぶ。
 あ。
 そのときになって、彼を見たときに気づいたことを思い出した。
「そういえば、瀬尋先生髪切りましたよね?」
「よくわかったね。少しなのに」
「いつもカッコいいですけど、今日は特にそうだなぁと思って」
 にっこり笑って伝えた瞬間、彼が目を丸くした。
 え……えと、あの……。
「ちがっ、や、あの、違いませんけど! そうじゃなくて、えっと……!」
 冗談っぽく言ったつもりだったのに、まさかそんな反応をされるとは思わず、慌てて手を振る。
 かあ、と頬が熱くなるのもわかって、なんだかつらい。
「羽織ちゃん、祐恭君のことナンパしてる?」
「えぇ!? そんなことしてません!」
「そう? いやー、それナンパの常套句だわ。やるなぁ、羽織ちゃん」
「ちがっ……そんなつもりじゃないんですってば!」
 ほー、と言いながら田代先生にいたずらっぽく笑われ、ただただ否定するしかない。
 瀬尋先生にいたっては、何も言わず口元を押さえているし、ああもう、どうしよう。
 そんなつもりで言ったんじゃなかった……ていうか、確かにかっこいいとは思ってるけれど、そうじゃなくて!
「……っくく……あはは、冗談だって」
「えぇ……!?」
「いや、ほんと。羽織ちゃんって、ほんっとかわいいね」
「っ……かわいくないです!」
「いやいや、そういう反応するところが、かわいいんだって」
 こらえきれないかのように、田代先生が声をあげて笑い出した。
 それを見て、ほっぺたが熱くなる。
 うぅ……からかわれてるってわかるけど、どきどきしますってば。
 けらけら笑い続ける田代先生を見ながら、なんとも言うことができず、退散を決める。
 もぅ……恥ずかしいなぁ。
 というか、余計なこと言うんじゃなかった。
 まともに瀬尋先生を見れず、『失礼します』とだけ言って廊下へ戻ると、そんなに変わらないはずなのに、空気がひんやりして感じた。

「じゃあ、前回の続きから。残りの実験、最初の20分くらいで終わらせようか」
 5時間目の化学の授業がスタートしてすぐの言葉に、クラス内からは異論も出なかった。
 それを見てほっとしたのか、彼が続ける。
「前回は石灰でやったけど、今回は水酸化ナトリウム使うから。各班からひとり、薬品を取りにきて」
 彼の声で各々席を立ったこともあって、ざわざわと少しだけ室内が騒がしくなった。
「あと、水酸化ナトリウムは水に触れると熱を発して危ないから、絶対に素手で触ったりしな――」
「いたぁーーい!!」
 突然あがった悲鳴にも似た声に、一斉にみんながそちらを向いた。
 そこには、手を押さえている中野さんの姿が。
 慌てて瀬尋先生が近づき、彼女の手を取る。
「どうした?」
「せんせー……あつぅい……」
 うるうるした瞳で彼を見上げたあたり、どうしてか演技に見えるけれど、事故は事故。
 手を取ったまま赤くなっているとおぼしき箇所を見て、眉を寄せる。
「あー……触ったか。誰か、保健室まで連れていってあげて」
「私、行きます」
 彼の声で、中野さんとよく一緒に行動しているひとりが手を挙げて彼女の腕を取った。
「保健室に着いたら、薬品名を伝えてから手当てしてもらって」
「わかりました。さ、いこっ」
 中野さんが引っ張られるようにして実験室をあとにすると、一気に室内が騒がしくなる。
 そんな私たちを制すべく、彼が声をあげた。
「みんなも気をつけて。あと、手順はくれぐれも間違えないように」
「……ったく。なんなの? あれ。ちょっとやりすぎじゃない?」
「え? 何が?」
 絵里が渋い顔で薬品を手に戻ってくると、テーブルに置きながらぼやいた。
 その顔は、まるで苦虫を噛み潰したよう。
「まあまあ。いいんじゃない? 身を張ってまで気をひく。んー、すてきー」
「……アンタ思ってないでしょ」
「思ってないけど、そーゆーことでしょ?」
 グループのひとりが高い声で冗談めかしたのを聞いて、絵里がため息をついた。
 ……まぁ、たしかにあれはちょっとやりすぎかなと思うけれど、そこまでして瀬尋先生に見てほしい気持ちもーーちょっとはわかる、から。
「えーと……これってこのまま入れればいいのよね」
「……たぶん……」
「多分って何よ。羽織、化学部でしょ?」
「だ、だって。ごめん、瀬尋先生の話ちゃんと聞いてなかったからよくわかんないんだもん。だから、絵里に聞いて」
「うーん。ま、いいでしょ。まぜまぜ」
「え?」
 ビーカーの液体を混ぜていたら、彼女が薬品をざらりと入れた。
 瞬間、テーブルに戻ってきた絵里が声を上げたものの、時すでに遅し。
 まるで沸騰するかのように体積を増すと、一瞬のうちに膨れてビーカーからあふれた。
「わっ!?」
「やばい!」
「ちょ、雑巾雑巾!!」
「バカ! 素手で触っちゃダメ!!」
 ビーカーからあふれた内容物が、だらりと手にかかる。
 瞬間的に熱と痛みが走り、慌てて手を引っ込めたーーところで、手首を大きな手につかまれた。
「っ……せんせ」
「触った? 痛みは?」
「あ、ちょっとだけ……ひりひりします」
 つかまれたまま、箇所を流水で洗われる。
 そのとき、撫でるかのように指で触れられ、どきどきして思わず手がこわばった。
 中の溶液って、なんだったっけ。
 聞いていたはずなのに思い出せず、今はただ、瀬尋先生に触られてることで頭がいっぱい。
「……少し赤いな。保健室行ける?」
「大丈夫、です」
 いつもより近い距離で、彼の声が聞こえた。
 うぅ……痛みより、どきどきするからたまらない。
 洗われたあと、彼は自分のハンカチで私の手を包むように拭いてくれた。
「先生、保健室に連れて行きます」
「ああ、そうして。よろしく」
「ほら行くわよ」
「っわ……!」
 絵里が立ち上がり、私の腕を取ってドアへ向かった。
 そのまま、すぐそこの階段を下り、保健室へ。
「でも、大丈夫だよ? これくらい……」
「アンタじゃなくて、瀬尋先生が大丈夫じゃないでしょ」
「え?」
 確かに赤くはなってるけれど、冷やされたお陰か今はもう痛みはなかった。
 だから、絵里から返ってきた言葉のほうが、よっぽど意外だ。
「……あのね、怪我の程度で言ったら、直で触った中野のほうが悪いわよ。でも、先生の慌てよう見たでしょ? アンタが怪我したってわかったときの対応、全然違ったじゃない」
 近くに彼がいたから、っていう程度の違いじゃないのかな、とは思ったの。
 でも、絵里に言わせればそうではないらしく、『まあアンタじゃ気づかないかもね』とまで言われた。
「瀬尋先生、躊躇なくアンタに触ったじゃない」
「でも、あれは……」
「ふつー、あんな丁寧にする? いち教師が、よ? 純也があれほかの子にやったら、意図的だって思うわ。私」
「……そうかな」
「そーよ!」
 眉を寄せて言われるものの、そうなのか、そうじゃないのか、いまいち判断がつかない。
 だけど、保健室のドアに手をかけながら、絵里は少しだけ真剣な眼差しを向けた。
「今と思ったら、今なんだからね。2度とチャンスは巡ってこないの。そのあたり、ちゃんと見極めなきゃダメよ?」
「え……」
 いつになく真剣な顔で見られ、思わずごくりと喉が動く。
 それは、どれに対するものかーーなんて、わかってる、つもり。
 絵里は2年前、自分で行動して、今をつかんだ。
「……ん」
 うなずいたのを見て、安心したかのように笑われ、私も笑みが浮かんだ。
 動かなきゃ、得られないものはある。
 もうだいぶ前になった、あの遠足のことが蘇って、なんともいえない気持ちになった。


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