そんな、ある日の放課後。
 あまりにも突然のことに遭遇したのは、ひとり、部活のために実験室へ向かっていたときだった。
「………?」
 うっすら開いている扉に手を伸ばしたものの、中から話し声が聞こえてきて動きが止まる。
 立ち聞きするつもりはなかったものの、瀬尋先生が話しているんだとわかると、つい……いけないのに耳が音を拾う。
「っ……!」
 しばらく聞いていたら、相手が同じクラスの中野さんだとわかった。
 何話してるんだろう……授業の質問?
 それとも、いつだったか彼女が聞こうとしていた、彼の個人的なこと?
 ふたり以外の声が聞こえてこないから、今ここには彼らしかいない。
 そうわかったら、なんだかどきりとした。
「でも私、諦められません」
「この時期っていうか……ここは女子校だからさ、同学年の男子がいないこともあって、そういうふうに見えるだけだと思うよ」
「そんなことないです! 私にとって、先生は特別なんです!」
「っ……」
 あまりにもそちらよりな表現で、思わず喉が鳴る。
 まさか、告白しているタイミングだったなんて思いもしなかった。
 冗談めいたものではなく、真剣な感じ。
 聞いてはいけないものを聞いてしまっただけに、どうやってここから立ち去るべきか瞬間的に考えるものの、変に音を立ててしまいそうで、動くに動けなかった。
「…………」
 彼女は自分の思いを伝えた。
 じゃあ……彼は?
 どきどきしながら瀬尋先生がなんて答えるか気になっていたら、しばらく経って彼の声が聞こえた。
「悪いけれど、彼女もいるし、ましてや未成年である以上考えられない」
「……やっぱり、ダメなんですか?」
「うん」
「…………わかり、ました」
「っ……!」
 低い声が聞こえたかと思いきや、パタパタと小さな足音がこちらへ向かって来たのに気付き、慌てる。
 わ、どうしよう。見つかったらまずいよね。
 思わず身体を隠す場所を探すものの、そう都合よく廊下にあるはずない。
 ……うぅ、まずい。
 このままだと、見つかっちゃう……!
 ――と、ドアが開きかけたとき、こちら側へ開くタイプだったおかげで、慌てて陰に隠れることができた。
 息を潜め、しばらく経ってからそっと顔を覗かせると、彼女の背中はかなり小さくなっていた。
「……よかった」
「羽織ちゃん?」
「わぁ!?」
 ぽつりとつぶやいた瞬間、ドアに手がかかり彼が目を丸くした。
 う。気まずい……。
 もしかしなくても、私の反応ですべてわかっているだろう。
「聞いてた?」
「……ごめんなさい」
「内緒にしておいてあげてね」
「もちろんです!」
 苦笑した彼に何度もうなずき、後を追うように中へ入ると、彼は教員用実験台に向かった。
 やっぱり気になることがある。
 それはもちろん、あの子に対してではなく……彼に対して。
 鞄を置いてから彼の立つ教員用の実験台へ近づき、やや高い台に載っていることもあり、見上げる格好になる。
「……でも、どうしてですか?」
「ん?」
 たったひとことだったけれど、聞きたかったことはわかったんだろう。
 もしくは、絵里から聞いたって知ってるのかもしれない。
 意図を察したのか、眉を寄せている私に対して彼は苦笑した。
「もうすでに付き合ってる関係じゃないのは事実だけど、未成年云々のところも事実だからね。全部を伝える必要はないなと思って」
 絵里が言った通り、瀬尋先生には今特定の彼女という存在がいるわけではないらしい。
 でも、未成年である以上考えられないという言葉が、少しだけちくりとする。
 だけど……好きになることは、いけないことじゃないよね。
「今どこで何してるか互いに知らないし、連絡手段もない以上、関係は切れてると思うよ。だからこそ、俺は俺で……好きなことはするしね」
「好きなこと……ですか?」
「うん。仕事もそうだけど、プライベートでも……やりたいことをしたいかな」
 そう言って瀬尋先生は、少しだけ何かを考えるかのような顔を見せた。
 少しだけ遠くへ視線を移し、今まで、片付けるべく触れていた器具をまとめたまま唇を結ぶ。
 その表情が、今まで見たことのないほど男の人の感じがして、どきりとした。
 好きなこと。
 瀬尋先生の好きなことって、なんだろう。
 ……どんなこと、したいって思うのかな。
 まったく見えないプライベートなことを聞くわけにはいかないけれど、でも、気になるのは嘘じゃない。
 私と違って、大人な人。
 きっと、想像つかないようなことをたくさん知っていて、することだってできるんだろうな。
 お兄ちゃんでさえ土日の休みの日は、朝から家にいないことが多い。
 その間何をしているか知らないけれど、でも、自分が『やりたい』ことを選択してやっているんだろうとは思う。
「……羽織ちゃんは」
「え?」
「やりたいこと、ある?」
「私……ですか?」
 ふいにまっすぐに見つめられ、どきりとした。
 だけでなく、思いもしなかったことを言われ、とっさに返事ができない。
 私がしたいことは、なんだろう。
 でも……もし叶うのであれば、ひとつ。
「……私は……」
 どう伝えればいいかわからないけれど、聞いてみたいことはある。
 教えてほしいとも思う。
 嫌いなものは、この間知った。
 でも、それじゃあ好きなものは? 好きなことは?
 何をしているときが、楽しいって思うんだろう。
 そんないろんなことを……プライベートなことを教えてほしいと思うのは、彼が好きだから以外に理由はないはず。
 でも、それを教えてもらうためにはどうすればいいか。
 ストレートに聞いても教えてくれるかもしれないけれど、そうじゃない。
 彼がどう考え、何を欲し、どんなふうに過ごしているのか、できることならそばで見てみたいと強く思った。
「私、瀬尋先生のーー」

 バタンッ

「あー、あつーい」
「っ……!!」
 彼を見上げたままでいたら、突然大きな声とともにドアが開けられた。
 どきーんと胸が鳴って、驚いた拍子にテーブルにあったビーカーを弾きそうになる。
「せんせー、クーラー入れてー」
「あれ? 羽織、早いね」
「え!? えっと……あはは」
 意外そうな顔をした化学部のメンバーに笑ってごまかし、行き場のない思いを抱えたまま、そっとテーブルを離れる。
 私、何言うつもりだったんだろう。
 わかってるけど、わかってないっていうか。
 はぁ、苦しい。
「わぁ!?」
 どきどきしたまま鞄を置いたテーブルへ戻ると、いきなり絵里が肩を引き寄せた。
「んんー? 羽織ちゃん。お姉ちゃんに何か言うことあるんじゃないー?」
「っ……何もないもん」
「えー? そーゆー顔じゃないけどね。まいいわ。そんじゃ、瀬尋先生に聞くから」
「ええ!? ちょ、絵里っ!」
 ふふーんだ、と言った絵里が瀬尋先生へ声をかけた。
 ーーけれど、彼は準備室へ行こうとしていたらしく、振り返ったときにはすでにドアノブを握っているところだった。
「ちょ、瀬尋せんせー。聞きたいことあるんですけどー」
「いや……あー、悪いけどまたあとで」
「えー? 何それー。ふたりともおかしくない?」
「っ……おかしくないったら!」
 思わず大きな声で否定してしまい、絵里がまたにやりと笑った。
 うぅ、何もしてないもん。変じゃないもん。
 別にっ……何もないんだから。
 そうは思うものの頬は熱くて、我ながら感情のコントロールができてないことは明らか。
 ……あのまま誰もこなかったら私、気持ち伝えられてたのかな。
 そうは思うものの、よかったのか悪かったのかはさっぱりわからず、どうしたかったのかは自分でもよくわからなかった。


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