「……あのね。私、もうすぐテストなんだけど」
「ンなことは知ってるっつの。つか、俺だって別にお前を連れて行きたかねーよ。でもしょーがねーだろ? 背に腹」
「む。なんか失礼じゃない?」
「気にすんな」
 けろっと言い放ったお兄ちゃんに、盛大なため息しか出ない。
 土曜日の夕方。
 家のリビングで勉強をしていたら、珍しくお兄ちゃんが降りてきてソファへ座ったかと思いきや、唐突にコンパへ誘われた。
「そもそも、未成年を飲み会に連れて行くのってどうなの? 実の兄だからこそ、神経疑うよ?」
 英語の教科書に目を落としながら呟くと、お兄ちゃんがテーブルを挟んで対面へ座った。
 あからさまに嫌そうな顔をされ、小さく舌打ちも聞こえたんだけど……ちょっと。それが人にものをお願いする態度?
 人を誘っておいてそんな態度って、どうなんだろう。
「なんだ、英語か。お前英語好きなんだろ? だったらいいじゃん」
「そういう問題じゃないのっ。それに――」
「祐恭もくるぞ」
「え!?」
 彼の名前を聞いた途端、つい大きく反応してしまい教科書から顔が上がったところを、真正面からばっちり見られた。
 ……う。
 頬杖をついたまま、そこにあったチョコパイの封を開けたお兄ちゃんは、『ふーん』と言いながらも絶対わかってる顔をする。
「飲み会のメンツが足りなくて、無理やり頼みこんだ。すげぇ断られたけど、アイツもアイツで、お前を連れてくっつったら承知したんだよ」
「っ……うそ……」
「は。嘘に決まってんだろ。ばーか」
「…………。絶対行かないから」
 馬鹿はないでしょ、馬鹿は。
 行ってもいいかなという気持ちになったけど、今ので興醒め。
 ふいっと視線をそらして再び教科書へ戻すと、慌てたようにお兄ちゃんが声を上げた。
「違うっつの。8割事実だって。お前連れてくっつったら、反応したのは確か」
「……そうなの?」
「そーそ。あ、英語ならアキに教われよ。アイツも今日来る」
「え! アキちゃん来るの?」
「ああ」
 久しぶりに聞いた名前で、ぱっと顔が明るくなった。
 アキちゃんこと鈴木亜紀代(すずき あきよ)は、近所に住む幼馴染。
 お兄ちゃんの同い年で、昔からよく一緒に遊んでいた。
 さっぱりした性格で、姉がいない私にとっては憧れのお姉ちゃんみたいな存在だったのだ。
「久しぶりだなぁ……アキちゃんが就職してから、ずっと会ってないし」
「だろ? アキも会いたがってたし、こいよ。別に、居酒屋ったってふつーのモンもある」
 居酒屋に行ったことがないわけじゃない。
 といっても、お母さんたちと一緒にってだけだから、近所の個人の居酒屋だったり、食事メインのお酒が飲めるお店だったりっていうだけ。
 みんなが全員飲むのを目的に集まっている、今回のような席じゃない。
 ……でもいいのかな。
 高校生なのに、行っちゃって。
「んじゃ、アキんとこ行って化粧教わってこい。ほかのヤツら、社会人だからな。大学生ってことで」
「えぇ? 絶対バレると思う……」
「平気だ。4月入学の連中と大差ねーから」
 さらりと失礼なことを言う人だなぁとは思うけれど、まあ確かに、1歳しか違わないんじゃそんなに変わらないかなとも思った。
 お化粧かぁ。
 一応お化粧品は持っているし時々することもあるけれど、やっぱり自分ではうまくいかないんだよね。
 テーブルへ置いたままのスマフォを手に、アキちゃんの番号を探す。
 そういえば、番号とアドレスは知ってるけど、IDは知らないんだよね。
 せっかく会えるんだし、交換してこよう。
「……あ、もしもし。アキちゃん? あはは、久しぶりー」
 2コール目で出てくれたアキちゃんの声を聞いた瞬間、頬が緩んだ。
 電話の向こうからは、何ひとつ変わっていない彼女の元気な声が響く。
 今回、私が行くことになってるのは知ってくれていて、言うよりも先に誘ってもらえてちょっぴり安心した。
「うん、それじゃすぐ行くね。はーい」
 電話を切ってから一旦部屋へ戻り、化粧ポーチとバッグを手に早速アキちゃんちへ向かう。
 久しぶりだなぁ。
「17時半には出るから、それまでにアキと帰ってこい」
「うん、わかった。伝えるね」
 久しぶりでちょっぴりどきどきしたけれど、電話で話したら何も変わっていなかったのが安心した。
 アキちゃんの声を聞いたら、理由をつけては彼女のそばにいたがったあのころの自分に戻ったような気がして、なんだかくすぐったかった。

「かんぱーいっ」
 時間までに人が集まったのもあって、予定より少し早いけれどという前置きのあとすぐに飲み会が始まった。
 まずは、当然のようにみんながビールのジョッキを注文したことに、正直びっくり。
 え、私多分ビール飲めるようにならないと思う。
 さすがに、車を運転してきたお兄ちゃんと未成年の私は飲んでないけど、アキちゃんにオススメされて、目の前にはきれいな色のノンアルコールカクテルがある。
「祐恭、もうすぐ来るってよ」
「アイツ、今も忙しいんだなー」
「だなぁ」
 今回の参加者は、男性陣がお兄ちゃんの学生時代の知り合いで、女性陣はアキちゃんの今の仕事仲間とのこと。
 なるほどね。だから、どうしても人数合わせたかったんだ。
 アキちゃんは今塾講師で、ほかの人たちも同じ塾で講師や事務の仕事をしているとか。
 私のことをアキちゃんが紹介してくれたとき、妹を見るような優しい笑みを浮かべてもらえて、それからは一気に溶け込むことができた。
「でも、孝之にこんなかわいい妹がいたなんて知らなかったなー」
「あ、俺もー」
「は? かわいいか? コイツ」
「っ……そこまで言うことないのに」
 お兄ちゃんや瀬尋先生とは違う、大人の男の人たち。
 そんな彼らに『かわいい』とお世辞にも言われたら、やっぱり嬉しくもあるのに……お兄ちゃん、ほんと口が悪いなぁ。
 誰に似たんだろう。
「ま、酒が飲めるようになったら紹介してやるよ」
「あとちょっとだねー。大学生だっけ? 何学部?」
「え。えっと……」
「教育学部の初等学科」
「……です」
 急な質問に慌てたものの、さらりとお兄ちゃんが助け舟を出してくれたおかげで難を逃れた。
 ……はあ。どきどきする。違う意味で。
 やっぱり、嘘をつくのってすごくいけないことをしてる気分。
「へー。じゃあ教員目指してるんだ?」
「あ……はい。小学校の先生になりたいなと思ってます」
「うわーいいなーこんなかわいい先生いたら、俺毎日学校通うわ」
「お前は小学生じゃねーだろ!」
「あはははは」
 始まってまだそんなに経ってないのに、彼らはすでに酔っ払っているかのよう。
 飲み会って、こんなテンションなの?
 初めての経験だけに、なんだかどう反応していいかわからない。
「悪い、遅くなった」
「あ」
「……あ」
 男の人のひとりがさらに質問をしようとした瞬間、その背後に見知った人が現れた。
 名前も顔もよく知っている人。
 ……わ、なんか雰囲気違う。
 ここが学校じゃないからか、それとも今の彼の格好がそう見せるのか……ううん、きっとどっちもだよね。
 ずっと待っていた人ということもあってか、なんだかすごくドキドキしてまっすぐ見れない。
「お、やっと来たか。お前、遅いよ」
「だから、悪かったって」
 声を聞いてから、鼓動が早くなりっぱなし。
 普段と違って私服姿の彼は、いつもの、ワイシャツに白衣とは違う魅力があって、いかにも年上の男性に見えて。
 服装が違うだけで、なんだか違う人のようにさえ感じる。
 アイスティーを注文したのを見て、お兄ちゃんが彼を紹介した。
「こいつも大学が一緒だった、瀬尋。現役の高校教師」
「えー、すごーい」
「教科はなんですか?」
「化学です」
「そうなんだ。でも、いいなぁー! 高校の先生なんて毎日楽しそう」
「それに、瀬尋さんカッコいいし……生徒にも人気あるんじゃないですか?」
「いや、仕事に人気云々は関係ないんじゃないかな」
 瀬尋先生がテーブルに着いた途端、今まで大人しかった女性陣が身を乗り出すようにして質問を始めた。
 なんだか、初めて彼を見たときのクラスの子たちと反応が一緒で、思わず苦笑が浮かぶ。
 そんな姿に少し困ったような彼の顔を見て、同じようにアキちゃんも苦笑を漏らした。
「祐恭、ごめんねー。やっぱ、あんたって人目引くのよー」
「……アキが、そんなふうに言うとは思わなかったな。まぁ、教師らしくないとは言われるけど」
 そう言って楽しそうに笑う彼は、学校では見られない姿そのものだった。
 こんな顔で笑うんだ……。
 きっとそれは、いかにもプライベートな場所だからなんだろうな。
 そんな姿を見れたことが、すごくすごく嬉しい。
「わっ」
「ねぇ、祐恭知ってた? この子ね、孝之の妹なのよー」
 ぐいっとアキちゃんに肩を抱き寄せられ、瀬尋先生に真正面から見つめられる格好。
 でも彼は、小さく苦笑したあとうなずいた。
「知ってる」
「あら、なによ。なんで? 知り合い?」
「えっと……」
 みんなの視線がある中、そして『学生』と嘘をついている以上、どう説明すればいいか悩んで口ごもる。
 すると、何かを察したかのように、お兄ちゃんが手を叩いて声を上げた。
「っし、メンツも揃ったし席替えしよーぜ」
「お、いいね。するする」
 どこから取り出したのか、お兄ちゃんの手には捻られた紙がいくつもあった。
 こういうところ、ほんとにマメだなぁ。
 どうやらアキちゃんも同じことを思ったらしく、『あんたマメねー』とおかしそうに笑った。

「……なんでお前と隣同士なんだよ」
「しょうがないでしょ? くじなんだから、確率は一緒だよ?」
「誰が数学の話しろっつった。少なくともお前よかデキのいい俺に言うか? それ」
 残ったくじをお兄ちゃんとわけたら、揃ってこの場所に座ることになった。
 でも、正直ほっとはしている。
 だって、知らない人が隣だったら、いろいろ質問されても答えられなかっただろうし。
「じゃあ俺が代わるよ」
「は? あー、別にいいって」
 グラスごとお兄ちゃんの横へ移ってきたのは、瀬尋先生だった。
 だけど、お兄ちゃんはひらひら手を振ると、焼き鳥に手を伸ばす。
「久しぶりに会ったんだろ? 喋ってこいよ」
「いや、盛り上がってるから俺はこっちでいいかな」
「なんで」
 確かに、盛り上がっているのはあちら組。
 男性陣は大きな声を上げて、女性陣へ仕事がどうのと話していた。
「瀬尋先生、今日はお休みーー」
「……汚いぞお前」
「おま、瀬尋先生って呼ばれてんの? コイツに?」
「なんだよ。先生だろ?」
「いや、そーだけど。うわマジか。瀬尋先生って……っく、すっげぇツボ。似合わねぇ」
 飲んだ烏龍茶を吹き出しそうになったお兄ちゃんは、げらげら笑うと瀬尋先生を指差した。
 ああ、ごめんなさい。こんなお兄ちゃんで。
 かなり嫌そうに瞳を細めた瀬尋先生に、内心で謝る。
 すると、お兄ちゃんは頬杖をつくと何かを思いつきでもしたのか『あ』と小さくつぶやいた。

「祐恭先生、でよくね?」

「っ……」
「お前も、瀬尋先生よかよっぽど聞き慣れてんだろ?」
「いや、むしろそんなふうに呼ぶ子も同僚もいないって」
「でも、俺にとっちゃ祐恭は祐恭だからな。家で苗字聞かされるほうが、よっぽど違和感」
 ひとしきり笑ったあと、お兄ちゃんは私を見ると明らかに意図したような顔をした。
 ……絶対意識的でしょ、その顔。
 もしかしなくても、私が瀬尋先生に好意を持っていることを、絶対わかってる顔だ。
「呼んでみ? 祐恭のこと」
「え?」
「祐恭先生って」
「っ……」
 ニヤニヤ笑われ、う、と言葉に詰まる。
 だって……いくら『先生』ってつけるとはいえ、名前を呼ぶなんて。
 ちらりと彼を見てみると、アイスティーを飲みながら、どちらともいえない表情をしていた。
 否定されないってことは、呼んでもいいってことなのかな。
 両手で汗をかいたグラスを包むと、冷たさが心地よかった。
「……祐恭先生……」
 ぽつりとつぶやいた名前は、すごく特別な感じがした。
 かなり喧騒があるはずなのに、ここだけ静か。
 そう感じたせいか、やけに音が響いた。
「…………」
「…………」
「えぇっ……?」
 反応をうかがうべく祐恭先生を見たものの、彼だけでなくお兄ちゃんまで無反応なせいで、思わず眉が寄る。
 なんで? なんでどっちも無言なの?
 これじゃ、勝手にひとりで私が盛り上がっちゃったみたいじゃない。
「だとよ」
「…………」
「あ? お前ーーいってーな」
「……お前は何も言わなくていい」
「ンだよ。いやー意外だぜ。お前がそんな反応するとはね」
「うるさい」
 にやりとお兄ちゃんが笑って祐恭先生を見た途端、彼は瞳を細めると反射的にお兄ちゃんの背中を叩いた。
 小さく舌打ちが聞こえた気もするけれど、それは果たしてどちらのものだったのかはわからない。
 でも、お兄ちゃんはケラケラ笑いながら煙草を取り出すと、それ以上は何も言わなかった。
「羽織ちゃん、なんで今日ここに来たの?」
「え……えっと……」
「メンツが急遽足りなくなったから、しょーがねーじゃん」
「別にいいだろ? 男女で同数じゃなくても」
「そりゃそーだけど、せっかくなら揃ったほうがいいだろ? わかりやすいし」
「……お前、意図したろ」
「まさか。こんなガキ連れてきたって何もおもしろくねぇじゃん」
 煙草の煙が天井へ向かい、お兄ちゃんは相変わらず祐恭先生に対して言いたい放題。
 でも……でもね、答えられなかったの。
 なんでって……だって、祐恭先生が来るって聞いたから、だもん。
 そうじゃなかったら、絶対に来るはずない場所。
 だからこそ、正直きてよかったと思った。
「嫌だったでしょ? 孝之に言われたとき」
「あ、いえ。……嫌じゃなかったです」
 思わず即答したら、祐恭先生が驚いたように反応した。
 あ、やだ、違うの。そうじゃないっていうか……うぅ、どう言えばよかったのかな。
 これじゃ絶対勘違いされるよね。
 でも、プライベートな祐恭先生に会えるかもって思ったら、すごくどきどきしたし嫌じゃなかったんだもん。
 事実、学校じゃ絶対に見れない顔を見ることができたし、それに服装だってそう。
 いつもと違う雰囲気に、最初からずっとドキドキしっぱなしだった。
「……え?」
「送るよ」
「え、でもっ……祐恭先生、来たばかりじゃないですか」
「俺のことはいいから。それより、羽織ちゃんのほうが大事」
「っ……」
 そっと手首をつかまれただけでもどきりとしたのに、まっすぐに目を見てそんなことを言われ、心拍数急上昇。
 わ……わわ、どうしよう。
 私今、絶対顔赤い。
「もういいだろ? 連れて帰っても」
「いーぜ? ほかのヤツらには、てきとーに言っとく」
 くっくとおかしそうに笑ったお兄ちゃんは、灰皿へ煙草を押しつけると肩をすくめた。
 それを見て、祐恭先生は私の手を引いて立ち上がる。
 ……こんな顔、見たことない。
 心配されているような、でも、それとは少し違うような真面目な顔つき。
 授業中……ううん、学校で向けられたことのない姿だけに、こくりとうなずきながらも、何も言うことはできなかった。
   

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