「は……ぁ」
 お風呂あがりの時間は、いつもやっぱり暑くて。
 ……だけど、今日は特別そうだった。
「…………」
 思い出すまでもなく頭に浮かぶのは、当然――……彼との、こと。
 ……うぅ。
 また顔が熱くなってきた。
 あんなことするなんて、聞いてなかったのに。
「大丈夫?」
「ふわぁ!?」
「……すごい驚きようだな」
「せ……先生っ……!?」
 いつの間にいたのか、彼がグラスを持ったまますぐ隣に座っていた。
 ……気配すら、感じなかった。
 それとも、それを感じることもできないほど――……ぼーっとしてたのだろうか。
 でも、そのどちらにしても……彼はおかしそうな顔を見せたままだった。
 ……うぅ。
 自分とは違ってなんとも思っていないような表情で、余計顔が熱くなってしまう。
「……疲れた?」
「っ!? ち、ちがっ……」
「そ? ……せっかくイイ物あげようと思ったんだけどな」
「……いいもの……?」
「……そんな顔しない」
「え? ……あ……だって……」
 彼に指摘されて気付いたけれど、いつの間にやら眉を寄せてしまっていたらしい。
 ……でも、仕方ないと思う。
 彼が楽しそうに『いいもの』なんて言うと、どうしても……う、疑ってしまうというか……。
 だって、これまでの記憶では、『彼にとってのいいもの』イコール『私にとってもいいもの』ではなかったから。
 ……べ、別に先生を疑ってるわけじゃないんだけれどね?
「……? なんですか?」
「まぁ、ちょっと待ってて」
 ふっと笑って立ち上がった彼が、そのままキッチンへ向かった。
 ……キッチン?
 私が見た限りでは『いいもの』なんてなかったと思うんだけど……。
「……え?」
 不思議に思っていたら、ほどなくしてフォークと小さな箱を持った彼が戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 目の前に置かれたのは、小さめの白い箱だった。
 ……箱。
 なんていうか、これって……よく、ケーキとかが入ってる、あの少し硬い箱じゃないだろうか。
「……これ……なんですか?」
「開けていいよ」
「え?」
「どうぞ」
 にっこり笑って促してくれた彼と箱とを見比べてから、箱に触れてみる。
 ……冷たい。
 やっぱり、冷蔵庫に入ってた……モノ?
 …………。
 …………うーん。
「……ケーキですか?」
「おー、よくわかったね。さすが、甘い物好き」
 『ご名答』とばかりにうなずいた彼に、笑みが浮かんだ。
 いそいそと箱を開け、早速中を――……。
「ふぁ……」
 途端、ふわっとした甘い匂いが広がった。
 ……いい匂い……。
 すごく甘くて、とっても優しくて。
 っ……ケーキだぁ……!
「嬉しそうな顔するね」
「だって……! すごく、おいしそうなんですもん!」
 まず、それが正直な気持ち。
 でも、今年は食べられないと思っていたところに現れたケーキだからこそ、というのもあった。
「っ……うわぁ……! かわいいっ!!」
 蓋をすべて外したところでケーキが目に入り、ついそう叫んでいた。
 だってだって!!
 真っ白いクリスマスケーキの上に、イチゴと砂糖細工がのってんだもん。
 しかも、すごくかわいいうさぎとオオカミ。
 まるで赤ずきんちゃんを模したかのようで、ふにゃん、と顔が緩んでしまう。
 ……お兄ちゃん、これ見たら羨ましがるだろうなぁ。
「先生、どうしたんですか? これ。すごいっ!」
「それだけ喜んでもらえれば、お願いした甲斐があるよ」
「……え? 誰かに頼んだんですか?」
 彼の言葉に瞳を丸くすると、軽くうなずいてからテーブルに頬杖をついた。
「美紀さん、覚えてる?」
「……美紀さんって……泰仁さんの奥さんの?」
「そ。彼女、れっきとしたパティシエなんだよ」
「…………えぇええぇーーーっ!?」
 一瞬間が空いたあと、思わず絶叫。
 だ、だって!
 てっきり、泰仁さんの奥さんだから、美容師さんだと思っていたのに。
「美容師さんじゃないんですか?」
「うん。美紀さんの実家はケーキ屋なんだよ。元々、彼女はパティシエとして働いてたしね」
「……そうなんだ」
 まったく知らなかった事実。
 でも、そういわれると……納得もできる。
 美紀さんとは何度かしか会ったことはないけれど、でも、とってもかわいい人。
 だから、彼女が作ったと言われると……確かにその雰囲気がとっても出てるし。
 特に、この砂糖細工!
 すんごくかわいいんだよ?
「……かわいいなぁ」
 にまっと笑ってから、改めて見つめる。
 ……どうしてこんなにかわいいんだろう。
 もう、本当にその感想しか出てこない。
「ウサギの赤ずきんちゃんって、いいですね」
 花の入っている小さなカゴを持った、赤い頭巾をかぶっている“ウサギ”。
 そして、そんなウサギにぴったりと寄り添っている、何か企んでいそうな“オオカミ”。
 赤ずきんちゃんの新しい物語のワンシーンみたい。
「え?」
「……そうきたか……」
 苦笑を浮かべてソファにもたれた彼が、ケーキを見ながらおかしそうに笑った。
「……? 何か違うんですか?」
「いや、実はさ……『ウサギをモチーフに作ってほしい』って頼んだんだよ」
「……ウサギを?」
「そ」
 言葉少なげに呟いた彼が、頭の後ろに両手を組んでこちらを見つめた。
 ……ちょっとだけ、居心地悪そうに眉を寄せて。
 …………ウサギずきんちゃん。
 と、オオカミ。
「…………先生、かわいい……」
「……何か?」
「え!? い、いえっ」
 ケーキを見たままにやけると、彼が瞳を細めて鋭く見つめた。
 慌てて首と手を振るものの、やっぱり暫くはそのままだったけれど。
「んじゃ、早速食うか」
「あ、じゃあお皿――」
「俺はいらない。ほら、フォーク」
「……こ、このまま食べろって言うんですか?」
「ん? じゃあ食べさせてあげようか?」
「……そういう問題じゃなくてぇ……」
 ソファから身体を起こして私よりも先にフォークを手にした彼が、いたずらっぽく笑ってそれを揺らした。
 いくら小さいとはいえ、ワンホール。
 15cm近くのそれを、フォークでつつきながら食べるなんて……彼らしからぬ発言に、思わず笑えた。
「ま、いいだろ。じゃ――」
「あっ。ちょ、ちょっと待って下さい!」
「……何?」
 彼がフォークを刺そうとしたのを慌てて制すると、不思議そうな顔をされた。
 ……もちろん、当然だと思う。
 でも、やっぱり――……ちょっと、あることがしたかった。
「これ、取っておきません?」
「これ? ……なんで」
「だって、こんなにかわいいんですもん。それに、チョコプレートの上に載ってるから、クリームついてないし」
 言いながら立ち上がり、キッチンへ向かう。
 ……せっかく、先生と私のモチーフとして作ってくれたんだし。
 美紀さんの素敵な計らいが、とっても嬉しかった。
「これって、賞味期限とかないんですよ?」
「……そうなの?」
「うんっ。だから……」
 いそいそと小皿へそれを移し、まじまじと彼を見てみる。
 かわいく並んだ、赤ずきんウサギと狼。
 そのふたつと彼とを見比べて、もう1度心の中で『ダメですか?』と訊ねてみると、苦笑を浮かべて首を縦に振った。
「……わかった。それだけ大事にしてもらえれば、美紀さんもそうだけど俺も嬉しいよ」
「ホントですか? ……やった。じゃあ、保存ですね」
「はいはい」
 まるで『降参』とばかりに軽く手を挙げた彼に笑いながら、もう1度それを見てみる。
 ……かわいい。
 ああもう、本当にかわいい。
 この表情がそれぞれなんとも言えないっていうか、ポーズがかわいいって言うか。
 これを見ていたら、やっぱり食べるのはもったいない……というより、忍びない。
 せっかく、私と彼のイメージなんだし。
 ……えへへ。
 当分の間、飽きそうにない。
「じゃ、食べようか」
「はぁい」
 イチゴをフォークでつついている彼にうなずくと、早速フォークで端っこを削って――……。
「あーん」
「……もぅ。自分で食べれます」
「いいじゃない。今夜は特別」
「別に、そんな――」
「……何かとお疲れでしょうし?」
「っ……」
 彼に首を振ってフォークに手を伸ばすと、にやっとした笑みを見せた。
 ……うぅ。
 なんですか、その顔は。
 先ほどまでの彼が蘇ってしまって、情けなく……も、頬が赤くなるのがわかった。
「ほら。……口開けて?」
「……うぅ」
 フォークをくりくりと動かして口を開けるように再び言われ、彼を見てからそっと開く。
「……あむ」
 クリームたっぷりの、クリスマスケーキ。
 それは、含むと同時に甘い香りが口いっぱいに広がって……。
「どう?」
「……すごい……おいしい」
「はは。幸せそうな顔するね、君は」
「だって、おいしいんですもんー!」
 本当に、本当においしかった。
 ふわふわのスポンジと、すぐにサラっと溶けてしまう生クリーム。
 そして、スライスされたイチゴ。
 ……もう、絶妙としか言えない。
 すんごい、おいしい。
 びっくりするくらい。
「……ん?」
 おかしそうに笑った彼に手を伸ばし、フォークを代わりにいただく。
 何をするか……は、もちろん決まってるでしょ?
「はいっ」
「……いいよ、俺は」
「ダメですよ! せっかく、美紀さんが作ってくれたんですから。それに、とってもおいしいですよ? 騙されたと思って……」
「騙す気?」
「違いますってば!」
 まるでからかうかのように笑った彼に首を振り、フォークにケーキを載せて再び彼へ向ける。
 すると、それと私とを見比べてから、仕方ないといった感じに小さくため息をついた。
「はいっ。……あーんしてください」
「……ったく」
 渋々口を開けた彼に、ケーキを運ぶ。
 と、何の躊躇もなく普通に食べてくれた。
「ね? 騙してなかったでしょ?」
「……まぁね。美紀さんトコのケーキ、うまいから」
「あ、そっか……味は知ってるんですよね」
 それもそうだ。
 美紀さんがパティシエだって知ってるから、頼んだんだしね。
 ……でも、本当に大正解っていうか……すごい嬉しい。
 今年はおいしいクリスマスケーキなんて食べれないと思ってたから、本当に本当に嬉しい。
 ……クリスマスプレゼントみたい。
「……ん、おいし……」
 おずおずと2口目をすくって食べると、やっぱりまた笑みが浮かんだ。
「……え?」
「コレも食べて」
 フォークをくわえたまま彼を見ると、すいっと目の前に指を見せた。
 ……あれ?
 そこには、先ほどまでなかった、白い物が……。
 …………。
 …………?
「これって……」
「羽織ちゃんに食べさせてもらったら、残った」
 わざとらしく肩をすくめた彼が、頬杖をついたままで――…唇の端をトントンと指で叩いた。
 ……あ。
「え……っと……」
 意味がわかって、つい頬が赤くなる。
 ……そこに付いたクリーム、なんだ。
 彼の、この指先に付いているものは。
「…………」
「どうぞ?」
 ずいっとそれを近づけるわけでもなく、かと言って届かないような距離でもなく。
 ……相変わらず、うまい位置だと思う。
 …………。
 ………………うぅ。
 本気かどうかなんて、顔を見ればわかる。
 彼の場合は、冗談めいた笑みを見せていても、大抵は本気であることが多いから。
 ……今も、そのとき。
 なんだけど……その……。
「……あの。せん――」
「あーん、は?」
「……ぅ」
 こういうとき、彼は必ず“教師の顔”を見せる。
 有無を言わせないような、そんな独特の表情を。
 ……わかりました。本気なんですね。
 今ごろわかったようなことではないけれど、彼の楽しそうな笑みを見ていたら、自然と苦笑が浮かんだ。
「……あー……、んっ」
 言い終わる前に、彼が指を含ませた。
 舌先に広がる、あの、甘いクリームの味。
 滑らかで、すぐに溶けて――……そして、指が直接舌に触れる。
「…………」
 クリームはすでに拭ってしまった。
 だけど、彼はまだ……引き抜こうとしない。
 ……まるで、何かを企んでいるかのような顔のままで、楽しそうに瞳を細める。
「っん……」
 少し奥まで指を入れられ、つい、声が漏れた。
 ……な……んか、変な感じ……。
 まるで、キスしてるみたいに、彼が指を絡めてくる。
「…………」
 ……また、身体が火照りそうになる。
 あの、先ほどまでの蜜事のような……そんな雰囲気で。
「……っは……」
「よくできました」
「……! ん……」
 ごくごく顔を近づけた彼が唇のすぐ手前で囁くと、そのまま柔らかく口づけてきた。
 ……やっぱり……違う。
 指とは、全然比べ物にならない感触。
「ん……んっ……」
 ときおりわざとしているんじゃないかと思うように、彼が濡れた音を響かせた。
 深くまで舌で探られ、ぞくっと腰のあたりが震える。
 ……気持ち、い……。
 いつの間にか彼に身体を支えられながら応えていると、ゆっくり……本当にゆっくり、彼が離れた。
「……ご褒美」
「もぅ……」
 少しだけ掠れた声で見つめられて、頬が赤くなる。
 ……先生、えっちな顔してるんだもん……。
 うっすらと瞳が濡れているように見えて、思わず視線が逸れる。
「……それじゃ、もうひとつご褒美あげようか」
「え?」
「知らない? 今日は、『いい子』はプレゼントがもらえるんだよ?」
 ゆっくりと立ち上がってから私の手を引いた彼に、瞳が丸くなった。
 ……確かに、言ってることはわかる。
 でも、そんなこと……聞いてないし!
 それに――……!
「っ……い、いいです!」
「なんで?」
「だ、だって……その……あのっ」
 思わず、ぴくっと反応すると同時に、頭にあることが浮かぶ。
 『過剰反応』だと言われれば、確かにそうかもしれない。
 でも、絶対に違うなんて言い切れないことだから……どうしようもない。
「……知ってた?」
「え……?」
「悪い子は、サンタが袋に入れて持ち帰るんだよ?」
「…………えぇええ!?」
 ふっと真面目な顔をした彼を見ていたら、一瞬時間が止まった気がした。
「え! えぇ!? うそ……っ……そんな! ……え、嘘、ですよね?」
「とんでもない。マジ本気」
「もぉ……またそうやって、絵里の言葉を……」
 顔つきは真面目なのに、口調はとっても不真面目。
 ……うー。
 だから、判断が微妙につかない。
 でも、彼がそんなことで嘘を言うわけないんじゃ……とも思う。
 …………んー……。
「っあ……!」
「ま、そーゆーことだから」
「え? え!? 先生っ……!?」
 眉を寄せて悩んでいたら、ぐいっと腕を引いて立ち上がらされてしまった。
 慌てて彼を見るものの、まったく私を見ていなくて。
 ……えぇ?
 さっきの話は、本当なんですか?
 それとも、嘘なんですか?
 真偽を確かめたいのに、彼は聞く耳すら持っていないようだ。
「先生っ!」
「ほら。あったかい格好しておいで」
「……え……?」
 寝室まで連れて行かれて、いきなりとんでもないことを言われた。
 ……あったかい格好。
 …………どうして?
 今私は、お風呂に入ったばかりだから当然パジャマを着ていて。
 でも、彼は……まるで『着替えて来るように』とでも言わんばかりに、顎で寝室を指した。
 ……あ……れ?
「え? どこか行くんですか?」
 どうして今まで気付かなかったんだろう。
 彼も同じようにお風呂へ入ったのに、なぜか私服姿だったのだ。
 ……ということは、最初から出かけるつもりでいたということで……。
「どこへ行くんですか?」
「……聞きたい?」
「聞きたいっ」
「んー……。どうしようかなー」
「えぇ……? もぅ。教えてくださいっ」
 ジャケットを羽織っていたずらっぽい顔をした彼を見ると、顎に手を当ててわざと焦らすような表情を浮かべた。
 ……うー。
 そんな顔されたら、余計気になるのにー!
 でも、ぶんぶんと首を縦に振ったお陰か、彼はくすくすと笑ってポケットに両手を入れた。

「深夜のドライブ」

「……ドライブ……? こんな時間にですか?」
 驚いて瞳を丸くすると、くすくす笑って『だから深夜のドライブなんだろ?』と続けた。
 ……確かに、言う通り。
 でも、どうしてこんな時間に――……。
「……え?」
「とっておき、見に行こう?」
 そう言った彼の顔は、本当に本当に優しくて。
 ……そして、ほんの少しだけ何かを秘密にしているような顔だった。


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