「羽織!!」
「っ……!」
 遠くから私を呼ぶ声で、足が止まった。
 ぎゅっと腕を抱くようにしてから、そちらを振り返る。
 ……大好きな人。
 私に向かって、走ってきてくれている人。
 ……なのに。
 私は………ダメだよ。
 お兄ちゃんに心配なんてしてもらう権利、ない。
「……ごめんなさいっ……」
 彼に背を向け、再び走り出す。
 逃げたいんじゃない。
 違う。
 本当は、今すぐ掴まえて抱きしめてほしいのに。
 ……我侭な子。
 こんな私、嫌われて当然だ。
「羽織!」
 続けて呼ばれる名前。
 だけど、今度は振り返ることができなかった。
 ……なぜならば、先ほどよりもずっと近くで彼の声が聞こえたから。
「や!?」
 ぐいっと突然引かれた腕でそちらを見ると、息を切らせて瞳を合わせてくる彼がいた。
「羽織! 話を聞けって!!」
「やっ……だ……!! やだ! 離して!」
「聞けって! だから!!」
「やだってば……!! やだぁっ!」
 駄々をこねる子どものように首を振り、腕を振り解こうともがく。
 だけど、きつく掴まえてくれた彼の手は、一向に離れようとしなかった。
「ッ……羽織!!」
「……っ……!」
 ぴしゃりと叩かれたみたいな鋭い声で、身体が震えた。
 驚いて彼を見ると、小さくため息をついてから、落としていた視線を再び合わせてくれる。
 優しい顔。
 大好きな瞳。
 ……そんな彼を見ていたら、再び涙が溢れた。
「……なんで逃げるんだよ」
「だ……っ……て……」
「俺からは逃げるな」
 ぎゅっと抱きしめられて、耳元で囁かれた言葉。
 それが、どれだけ彼に大切に思われていたか伝わってきて、涙が止まらなくなる。
「……なんで……っ……なんでお兄ちゃん怒らないの……?」
「え……?」
「だって……! 私、酷いこといっぱい言ったんだよ? なのに、どうして……っ」
 彼に嫌われると思ってた。
 こんなふうに探しに来てもらえないと思ってた。
 ……なのに。
 それなのに、彼は優しくて。
 私を許してくれて。
 ……私がしてほしいと思っていたことを、彼はしてくれた。
 こんな、私のために。
「どうして、そんな優しいの……? 私、嫌われてっ……文句言えないのに……!」
 ぎゅっとしがみついたまま続けると、彼が落ち着かせるように髪と背中を撫でてくれた。
 ……前までは、これが当たり前だった。
 ああ。
 私、本当に贅沢だったんだ。
「……お前が大切だからに決まってるだろ?」
 小さなため息のあと聞こえた言葉は、少し複雑だった。
 それは、やっぱり――……。
「俺にとって、大事な子なんだよ」
「……え……」
 予想してなかった言葉で顔を上げると、小さく笑って涙を拭ってくれた。

『私が、妹だから?』

 私がそう聞くよりも早く、彼がくれた言葉。
 それがすごく嬉しくて、たまらず嗚咽が漏れる。
「……ったく。自覚ないのか? こんなに想ってるのに」
「だっ……て……! だって……!」
 小さく笑ってから髪を撫でてくれる手が心地いいのに、やっぱり涙だけは止まらなくて。
 彼はしばらく、そのままでいてくれた。
「……心配かけて……ごめんなさい」
 ぎゅうっと抱きついたまま小さく呟くと、ぽんぽんと背中を叩いてくれた。
「わかってるなら、よし。……もう二度としないな?」
「……ん」
「またこんなことしたら――……」
「……し、しない! だからっ……」
 顔を上げさせられたままで、彼が瞳を細めた。
 ……怒られる。
 絶対。
 お兄ちゃん、絶対怒って――……。

「……また、同じようにちゃんと見つけてやるよ」

「っ……」
 ふ、と笑って『な?』と言った彼に、何も言葉が出てこなかった。
 愛されてるってわかったから。
 彼はきっと、私がどんな場所にいても迎えに来てくれるってわかったから。
 ……兄妹だけど、それでも……もちろんいいって思えたから。
 だって私は、やっぱり……。
 彼がそばにいてくれなきゃ、ダメみたいだから。
 ね、神様。
白を黒に変える勇気も、本当は必要なんですか?禁忌を受け入る寛容さ、ある方は最下部アイコン横へ。
 彼の手を取って、夢であの人がしたように腕を絡めると、一瞬瞳を丸くしてから彼が柔らかく笑みをくれた。
 ……だから。
 私はまだ、このままでもいいかなって思う。

 ――……後日。
「っ……な……!?」
「俺はひとこともそんなこと言ってないからな」
「え……え!? だ、だって! だってあのとき、お兄ちゃん確かにっ……!!」
 リビングで彼にこの前の夜のことを訊ねると、私の予想を大幅に越える返事がきた。
 ……というのは、あの夜、彼が呟いた『いずみ』という名前。
 少しだけ心に余裕もできたから、せっかく、勇気を振り絞って聞いてみたのに。
 ……なのに、彼はまったく動じる様子なく肩をすくめて見せた。
「山田先生の『泉』じゃなくて、ダチの『和泉』。あの夜、アイツだけが俺の気持ちわかってくれたんだよ」
 しれっとした顔でそう言った彼の言葉を裏付けるかのように、兄である孝之も新聞を読みながら大きくうなずいた。
「……ったく。お前と和泉くらいなモンだぞ? 妹離れができない、どーしよーもねぇ兄貴は」
「…………その言葉、そっくりお前に返すぞ」
「は? だから、俺はそんなんじゃねぇって」
 ジト目のまま呟いたお兄ちゃんは、彼にお茶を渡している葉月を見てから笑みを浮かべた。
 まるで、同意してでももらうかのように。
「……さて、と」
「っわ!?」
「なるほどねー。それじゃ、何か? お前は勝手に山田先生に嫉妬して、散々勘違いしながらテストサボったのか?」
「だ……だからっ……あの……!」
「へぇーほぉーふぅーん。なるほどねぇー」
「だ、だから! それとこれとは、違――」
「違わない」
「……ぅ」
 ぎりぎりまで顔を近づけられ、ソファの背もたれに寄れるだけ寄るものの、彼は相変わらず意地悪そうな笑みを見せたままで私に人差し指を向けた。
 ……うぅ。
 なんか、すごく……やぶへびだったんだろうか。
 今さらながらに、『聞くんじゃなかった』という後悔の念が強く生まれた。
「わ!?」
 がしっと両肩を掴まれたかと思いきや、彼がそれはもうこれでもかってくらい楽しそうな顔を見せた。
 いけない。
 彼がこんな顔をしているときは、大抵何か妙なことを――……。
「やっぱりお前は、俺がそばにいなきゃダメなんだな」
 ニヤっと笑って何を言うのかと思いきや、やっぱりそんなことを言われた。
 ……確かに、否定はできない。
 できないけど、でも、ここで今うなずいたりしたら……きっと、彼の思うツボだ。
「……ち……違うもん……」
「違わない」
「…………うぅ……」
 眉を寄せて一応否定してみるが、彼に信じてもらえるはずはなく。
 ……結局。
 こうしてまた、彼が私の世話をあれこれと家だけでなく学校でまでする日々が始まったのだった。
 ……とほほ。
 た……たまには、この前みたいに離れてみるのもいいかな……ぁ。
 なんて言ったら、絶対怒られるよね。
 『どうせ泣くクセに』とかなんとか、言われるに決まってるし。
 ……はぁ。
 神様。
 あなたの判断は、これで正しかったのですか?
 私の運命は、こうなるって定められているのですか?
 相変わらず楽しそうな顔を見せている彼を見ながら、苦笑とともに――……ほんのちょっぴり、改めて嬉しく思ったのだった。


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