「――……というわけで、今年の副担任は祐恭先生にお願いします」

 がたがったん

「あら? どうしたの? 瀬那」
「……い……いえ…」
 思わず、机ごと倒れるところだった。
 ……だって。
 だって、だって!!
 私、ひとこともお兄ちゃんが副担任やるなんて、聞いてなかったんだもん!!
 日永先生の隣に立ったままでいる彼に視線を送ると、こちらに気付いて小さく笑った。
 ……ああもう。
 お兄ちゃん、絶対にワザと黙ってたんだ。
 また誰かに何か言われるような気がして、机に伏せるしかできない。
 どうして、こんな目に遭うの……?
「……はぁ」
 早速、絵里にわき腹をつつかれ、ため息が漏れる。
 ……神様。
 あなたはいったいどこまで意地悪をするおつもりですか?

「……お前さぁ」
「ん?」
 職員室へと向かう途中で、孝之が声をかけてきた。
 どうやら、彼自身も自分のクラスのHRを終えたようだ。
「羽織も18だろ? いい加減、そろそろ固執すんのやめれば?」
「別にいいだろ? お前に迷惑かけてるワケじゃないんだし」
「……いや、それはそうだけど」
 さらりと彼を一瞥してから視線を戻すと、ため息を付くのがわかった。
 ……ったく。
 だいたい、俺にばかり言うのはお門違いってヤツなんじゃないのか?
 俺には心当たりがあるからこそ、余計にそう思う。
「つーか、お前が固執しなさすぎなんだよ。いいか? ここは共学なんだぞ? 飢えてるガキどもが多い場所なのに、お前は安全だって言い切れるか?」
「……飢えてるって……お前な。そりゃまぁ、否定するつもりはねーけど」
「ほらみろ」
 現に、今だって休み時間だけあって、それぞれのクラスの男子生徒が女生徒とあれこれ話をしている姿が目に入る。
 ……それにしたって。
 自分を振り返ってみたって、わかるだろ?
 同じ男なんだから。
 ……そりゃ、こいつらよりはマトモだったと思いたいが。
「でもだな。だからって、お前は少し羽織にくっつきすぎだっつーの。兄貴なんだから、ベタベタすんな。……みっともない」
「……みっともない?」
「なんだよ」
「そういうお前だって、俺のこと言えないだろ?」
「なんで?」
「ほー。……言ってくれるね、お前も」
「……なんだよ」
 平然といかにも『俺は違う』という顔をした孝之にジト目を送ってから、足を止めずに――……とある方向を顎で指し示してやる。
 これで、彼の本音ってヤツが見えるはずだ。
「あそこ」
「? 何――……っ!」
 途端、案の定彼の表情が一変した。
 足早にそちらへ向かい、こちらに背を向けていた生徒の肩を掴んでから――……半ば強引に連れ戻してくる。
 ……ったく。
 お前だって、俺とやってること変わりないじゃないか。
「葉月! お前、もう少し緊張感ってヤツを持て!」
「なぁに? たーくん。私、最近出た本の話をしてただけで――」
「本だったら、俺の専門分野だろ! 学校だからって、気を抜くな!」
「……もー。何言ってるの?」
 困ったような顔をしていた葉月と、そんな彼女の気持ちも知らずにこってりと言い聞かせている孝之。
 実の妹よりもずっと厳しいのが、少し笑えた。
 結局、アイツもアイツなりに、“妹”のことを大事に考えていることだろう。
 ……ま。だからこそ、とやかく言われる筋合いはない。
 ある意味の免罪符だな。彼女が。
「……ん?」
 孝之をそのままにして向かう、職員室――……の途中。
 ちょうど、渡り廊下になっている部分に差しかかったとき。
 思わず、足が止まった。
「……アイツか」
 自然と、瞳が細くなる。
 視線の先にいるのは、どれだけ離れていようとすぐにわかる最愛の妹。
 ――……と。
 かなり余計で邪魔な虫が1匹。
 朝、しっかりと追い払ったはずの、慶介だ。
 羽織はこちらに背を向けているので表情まではわからない。
 だが。
 ……何よりも気に入らないのが、ヤツの表情。
 それがすべてを物語っているようでかなり気に入らなかった。
 ……なんなんだ? そのだらしない笑みは。
 はっきり言って、腹が立つ。
 しかも、無性に。
 少しばかり羽織より背が高いという理由から、無論彼の目線は下がり気味。
 ……まぁ、俺より低いけどな。
 付け加えるならば、俺より力もなさそうだし、俺よりも頼りなさそう――……と、挙げるとすればキリがない。
 それほど、俺のライバルになど到底ならないような男だ。
 しかも、彼はまだ高校生。
 まだまだガキ臭くて、とてもじゃないが俺が対等な男として迎えてやるだけの器の持ち主じゃない。
 ……それは、わかってる。
 わかってるんだぞ? 俺だって。
 ……だが。
「…………鬱陶しい」
 そんなヤツでも、羽織にとっては違う。
 俺よりも頼りないし、俺よりもずっと子どもっぽい。
 だが、それでも彼女にとっては“男”だろう。
 しかも、俺よりも身近で、俺よりもずっと――……『恋愛対象』となりうるだけの。
 自然に、そちらへと向いた足。
 そして、少しずつ縮まる距離。
 慶介を睨んだまま近づき、そのまま声を――……かけようとしたとき、彼が先に気付いた。
 ふ、と上げた視線が合うだけでも、いい気はしない。
 それをコイツは羽織に向けてるんだぞ?
 迷惑防止条例ってヤツを、この冬瀬でも設けてもらいたいもんだ。
「きれいな髪だね」
 ……思わず、足が止まった。
 本当は、今すぐにでも向かいたいのに。
 ヤツのその手を、払い飛ばしたいのに。
 こ……いつ……!!
「っ……け……慶介く……!?」
「いつも思ってたんだ。……いいよね、長くてきれいな髪って」
「……そ……そうかな……」
「うん。そうだよ」
 さらり、とヤツの手から滑る髪。
 それは、誰よりも俺が1番よく知っているものだ。
 滑らかで、心地よくて、柔らかくて。
 すんなりと手に馴染む――……羽織の髪。
 これまで、彼女が俺以外の男に触れさせているのを見たことはない。
 そんなこと、させるつもりはなかった。
 ……なのに、どうだ?
 今、俺の目の前で起きているこの出来事は……いったい、なんなんだ?
「ッ……」
 びっ、と向けられた視線。
 俺よりもずっと年下で、俺よりもずっと子どもっぽい男の。
 恐れることもなく、気にもかけるまでもない、薄い物。
 ……なのに。
 思わず、身体が動いた。
「っ……!? お……お兄ちゃんっ……!?」
「…………何してるんだ」
「あれ? 先生いたんだ。……全然気付かなかったな」
 わざとらしい笑みで、思わず瞳が嫌ってほど細くなる。
 この口からは嘘しか出てこないのか?
 さっきまで、嫌ってほど人の目を見ていろいろ見せ付けていたのは、どこのどいつだ!!
「クソガキが……ッ」
「お兄ちゃん!! 慶介君になんてこと言うの!?」
「そーですよ。……お兄さん?」
「ッるさい!!」
 彼女の肩を引き寄せて、慶介からずっと遠ざけてやる。
 ……くそったれが……!
 ヤツが口元に浮かべている、薄い笑みが気に入らない。
 つーか……ああもう!!
 こいつのすべてが気に入らないんだよ、ちくしょう!!

「いい匂い」

「っ……!」
 ヤツは、俺にも届くくらいの声でそう言った。
 しっかりと俺の目を見たままで、羽織の髪をすくって――……口元へ運んでから。
「もう! お兄ちゃん、どうして急にこんな……」
 眉を寄せて睨まれたって、今は謝る気にもなれない。
 ……どうして、お前は嫌がらなかったんだ?
 それとも、何か?
 …………コイツに触られるのが、嫌じゃないとでも言うのか……?
「……くそ」
 頼むから。
 ほかの男に、そんな簡単に笑顔を見せてなんてやらないでくれ。
 …………そいつが、お前のことを好きになるだろ……?
 何も知らない無垢な子だということは、誰よりも俺がよく知っている。
 だからこそ、どうか。
 自らそういう機会を、相手にわざわざ与えてなんてやらないでくれ。

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