「先生は、車に名前付けたりしないんですか?」
「名前?」
「ほら、よく『車が恋人』って言うじゃないですか」
「……俺には、そんな寂しいこと言わなくて済む、ちゃんとした恋人いるし」
「そ、れはそうですけれど。でも、名前付けてすごーく大事にする人って、いるじゃないですか」
 先日の合宿で、忍野八海へ向かっていたとき。
 何か思い出しでもしたのか、ふいに彼女が話し始めた。
「羽織ちゃんは、俺に名前で呼んでほしいワケ?」
「え? んー……そういう訳でもないんですけど……」
「じゃあ、『羽織』」
「……え?」
「だから、羽織って名前にする」
「や……あの、そ、それはちょっと――……」
「羽織は今日もきれいだねー。乗り心地サイコー。相変わらず、敏感に反応見せるよなぁ」
「っ……! せ、先生っ!!」
 ハンドルを撫でながら呟くと、慌てたように彼女が首を振った。
「何? 俺、車の話してるんだけど」
「っ……うぅ」
 本当に面白いな、この子は。
 彼女が困った顔をしているのがわかるからこそ、あえて声高に続ける。
「羽織は、俺のこと困らせないもんな。いい子いい子」
「……うぅ。もういいです」
「なんで? 名前付けてほしかったんじゃないの?」
「だって、それ……私の名前ですもん」
「別にいいだろ? 俺が愛車になんて名前を付けようと。いやー、今日も羽織は素直で――」
「やだっ! もぅ、おしまいですったら!」
 慌てたように首を振ってそっぽを向いた彼女を横目で見ながら、小さく笑う。
 ……ったく。
 変なこと言い出すから悪いんじゃないか。
 とはいえ、頬を染めて困ったように眉を寄せる彼女は、なかなかかわいいモノで。
 だからつい、いじめたくなるんだけど。
「……っと」
 危うく、思い出に浸っていたら行きすぎるところだった。
 車を買った当初からよく通っている、カー用品専門店。
 実は、ここに友人が勤めているのだ。
 車好きな友人がいるのは、結構助かるもので。
 今ではその友人も、たしか店長補佐とかになってるんじゃなかったか?
 車を停めて店内に入ると、カー用品独特の匂いが鼻についた。
 新車の匂いっぽくて、つい眉が寄る。
 俺は、あんまり新車の匂いって好きじゃないんだけど。
 ……まあ、だからといって、芳香剤置く気もないんだが。
「おー。瀬尋、久しぶり」
「儲かってそうだな」
「はは。まぁなー。で? 今日はどうしたんだよ」
「いや、ちょっと見てもらおうかと思って」
「あー、いいよ別に。オイルの1本でも換えてくれれば、ついでに点検してやるけど?」
「オイルか……まぁ結構乗ってるし、いいけど」
「相変わらず物わりがイイねー。じゃ4番空いてるから、そこに持ってこいよ」
「ああ」
 レジで友人を呼び出してもらうとピットにいたらしく、ツナギ姿で現れた。
 なんか、いつもこんな会話してる気がするんだよな。
 そのたびに、うまくのせられた気がしないでもないんだが、まぁいいとしよう。
 彼は、大学時代に知り合った友人の山崎。
 同じフェラーリ好きということもあって、顔見知りになった。
 俺とは違って機械工学に所属していたものの、何かと会う機会も多く、今でもこうして車繋がりで会ってはいる。
「オーライ。そこでオッケー」
 車を動かしてピットに入れると、早速あれこれ弄り始めた。
 こういうところを間近で見てるのは、結構楽しいモノで。
「で、どうよ? 教師って楽しい?」
「んー……まぁ、それなりに」
「今どこでやってんの?」
「……冬女」
「マジ!? 女子校じゃん。すげー。いいなー」
 ……どいつもこいつも、同じような反応を見せるな。
 いかにも不謹慎極まりない発言をしそうなニヤニヤっぷりで、正直気分はよくない。
「……どこがいいんだよ」
「だって、女子高生見放題だろ? それに、『私、先生のことがっ』とか言われた日にはさぁ、なぁ!!」
「……なぁ、じゃねぇよ。手を出す気かお前は」
「いや、お前もそう言ってるけどな? でも実際、泣きそうな顔で抱きつかれてみ? あーもー、いただきますってなるだろ」
 ……それは……まぁわからないでもない。
 とはいえ、自分の彼女限定の話。
 つーか、人の車をばしばし叩きながら熱弁ふるうのはやめてくれ。
「……お前は教師に向いてないよ」
「まぁなー。堅苦しいの苦手だし。車弄ってるほうがよっぽど楽しい」
「だろうな」
 そんな話をしながら笑っていると、すぐそこへ黒塗りのチェイサーが横付けてきた。
 ……運転席にまでスモーク張るなよ。
 見えねぇっつーの。
 いったい、どんなおっさんが乗っているのか――……と思わず眉を寄せていたら、そこから現れたのはなんとも意外な人物だった。
「小川!?」
「よー。久しぶりー」
 彼は、これまた大学時代の友人。
 ひとつ年上の同学年で、人のよさそうな顔をしてるんだが……まさか、こんな車を選ぶとは。
「おまっ……車、これかよ!」
「あはは。よく言われる」
 ドアを開けた途端、ウーハーの重低音が腹に響いた。
 ……うるさい車だな。
 意外だ。ホントに。
「でも、珍しいなー。瀬尋がこんなトコにいるなんて」
「だろ? 俺も同じこと言った」
 笑いながら山崎がエンジンルームを閉め、3人でそのまま話し込むことになった。
 最近のこと、車のこと、F1のこと、そして――……付き合ってる彼女のこと。
 まさか俺が女子高生と付き合ってるなど思いもしないだろうふたりには、年のことをあえて触れなかった。
 このふたりにそんなこと言えば、それこそ『性職者』とでも言われかねない。
 ……俺の場合は真剣なんだから、そんな言葉ほど心外なことはないが、世間はそう見ちゃくれないからな。当然だけど。
「じゃ、ありがとうな」
「おー。また何かあったら、いつでもこいよ」
「そうする。……あ、小川。お前さ、運転席くらいスモークはがせよ」
「え? だって、西日がまぶしくて……」
「……あのな。だったら、サングラスでもすればいいだろ」
「そうは言ってもさぁ。このほうが楽だし」
「だって、車検通らないだろ?」
「そのときは剥がすよ」
 ……相変わらず、横着なんだかマメなんだか。
 まぁいいけど。俺の車じゃないから。
「それじゃ、またな」
「気をつけてなー」
「捕まるなよー」
 言いたい放題のふたりに苦笑を浮かべて軽くクラクションを鳴らし、自宅を出てからそれなりに時間が経っていたので、家へ帰って書類を片付けることにした。
 ……飯、か。
 んー……。
 また怒られるかもしれないものの、彼女がこなかったというもっともな理由もあるワケで。
 まぁ、ほかにも理由の幾つかは頭に簡単に思い浮かぶ……なんて、いろいろと理由をつけてから結局買って帰ることにした。
 俺に料理なんてものは、やっぱり身につかないアビリティだ。
「……うわ」
 それらを持って部屋に上がると、先ほどまで晴れていた空が急に曇り始めてきたせいか、室内が夕方ばりに真っ暗だった。
 ……なんだ? 俺が洗車したからか?
 などと眉をひそめながら弁当をキッチンの作業台に放り――……。
「あれ?」
 キッチンを誰かに使われた形跡があった。
 そういえば、なんとなく匂いも残っている。
 あたりを見ても何もないのだが、確かにここで料理をされたような――……。
「……あれ?」
 冷蔵庫を開けると、そこにはラップがされた見知らぬハンバーグがあった。
 丁寧に盛りつけもされており、いかにも手作りというコレを見ればピンとくる人物はひとりだけ。
「きたのか? ここに」
 ぽつりと呟いた途端、“寂しい”と素直に思った自分がいた。
 もし、自分がもっと早く帰ってきていれば。
 もし、出かけたりしなければ。
「…………」
 そうすれば――……彼女がいたのに。
 すでに玄関に靴はなく、室内にも姿はない。
 ……来るなら来るって言ってくれればいいのに。
 たまらず、ため息が漏れた。
 スマフォを取り出して早速電話をかけると、すぐに彼女の声が機械ごしに聞こえる。
「家にきた?」
『あ……はい』
「……なんで電話してくれなかった? てっきり今日はこないと思ってたから出かけてたけど……」
『だって、出かけてるってことは用事があるからですよね? ……邪魔しちゃ悪いじゃないですか』
「……俺は、会いたかった」
 ぽつりと呟くと、小さく声をあげた彼女が黙りこんだ。
 本音、本心。
 今、ここにいない彼女へぶつけるのは酷かもしれないが、ひとこと欲しかった自分としては、どうしてもつい出たモノ。
「……メシ、作っておいてくれてありがとう」
『あ……いえ。えと、それくらいしかできないし……それに、先生じゃまた買ってきちゃうでしょ?』
 大正解。
 目の前には、しっかりとコンビニの袋がある。
「……そりゃ、自分じゃ料理しないし。でも、料理してくれるんなら、もう少しいればいいのに」
『んー、結構いましたよ? 2時くらいまでかなぁ』
「2時って……なんだ、本当にさっきまで居たのか」
『……うん』
 すれ違いというか、なんというか。
 それを聞いてしまうと、一層想いが募る。
「なんなら、今からこない? 迎え行くよ」
『……あ……、えと、今日は約束しちゃって……』
「じゃあ、明日は?」
『……ごめんなさい』
 ……はぁ。
 たまらずその場へ座り込み、壁にもたれる。
 随分と、運命ってヤツに翻弄されている感じだ。
「……そっか。わかった」
『ごめんなさい』
「いいよ。約束があるんじゃ、仕方ないし」
 相当困っているであろう顔が目に浮かび、つい苦笑が漏れる。
『あっ。ワイシャツも、アイロンしておきましたから』
「……マメだな。ありがとう。助かる」
『しばらくは、平気ですよ』
「……てことは、何? しばらく、ここにこないつもり?」
『えっ。……そ、んなこと、しないですよ?』
 ……ちょっと、待て。
 俺は、からかうように呟いたんだぞ?
 なのに、電話の向こうからは困った返答。
 思わず、顔がひきつる。
「……何?」
 嘘だろ?
 いつもの彼女ならば、否定することはすぐに返事をする。
 こんなふうに弱気じゃなくて、むしろ怒るようなくらいに。
 それが――……。
「あのさ、俺何かした?」
『え? ううん、何も』
「……じゃあ……」
 ――……どうして、すぐに否定しなかった?
 そう言いかけた口を、思わずつぐむ。
 彼女の反応からして、恐らく自分が期待しているような返事を聞けるとは思えなかった。
 きっと、俺が聞けば困ったように押し黙ってしまい、自分が追い込まれる結果になる。
 それが恐い。
「……なんでもない。じゃあ……また月曜」
『ちゃんと温めてから食べてくださいね? 明日の分も作っておいたから』
「……わかった」
 電話を耳から離して、先に切る。
 いつもならば彼女が切るのを待つのだが、どうしようもない嫌な気持ちにさいなまれていた。
 俺が何かしたのか……?
 思わず頭を抱えて悩むものの、先日、実習生に弁当をもらったくらいしか思い浮かばない。
『しばらく平気だと思うから』
 それが、何を意味するのか。
 何も……考えたくはなかった。
 どうしても、嫌な方向にしか考えが進まないから。
「……はぁ」
 ここしばらく、ため息しかついてないな。
「幸せが逃げまくってる、か」
 思わず独りごちると、自嘲にも似た笑いが漏れた。

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