月曜日の朝。
 いつものようにHRのため、日永先生と篠崎君とともに教室へ。
 すでに生徒の姿がない廊下を歩きながら、日永先生が俺を見上げる。
「瀬尋先生、ちゃんとごはん食べてます?」
「え? ……ええ、まぁそれなりに」
「ダメですよ? 食事はきちんと摂らないと」
「……わかってはいるんですけれどね。つい」
「顔色があんまりよくないですよ? 今、倒れでもされたら困ります」
 くすっと日永先生が苦笑を浮かべてから、教室の戸を開けた。
 その音に反応して、委員長が号令をかける。
 いつも通りの朝。
 だが、いつもの月曜の朝に感じるすっきりしたものはなく、未だに彼女の言葉が頭にこびりついたままだった。
 連絡を手短に済ませて切り上げ、日永先生に続いて教室を出る。
 ふたりは職員室へ向かうので、化学準備室へは自分ひとり。
 静かな廊下に響く足音が、やけに大きく感じられる。
 今日は2組での授業がないこともあって、彼女と接する機会はないに等しい。
 恐らく、今日はこのまま帰りのHRまで会わないんじゃないだろうか。
 ……弁当は、しばらく作ってくれそうにないし。
 などとため息混じりに準備室へ入ると、純也さんが声をかけてきた。
「祐恭君、何かあった?」
「え?」
「……死にそうだってば。顔が」
「…………まぁ、いろいろと……」
 やっぱり。
 思わず苦笑を浮べると、彼もまたいたずらっぽく笑う。
「さては、かわいい彼女と喧嘩でもした?」
「……いや、喧嘩じゃないんですけどね。まぁ、似たようなモノで」
「早く仲直りしたほうがいいぞ? うちのヤツと違って、繊細だから」
「……はは」
 彼から視線を外して席に着くと、同時に重いため息が漏れた。
 今週末まで持たないかも。
 いろいろありすぎて、精神的にかなり参っている。
 珍しく弱気になっている自分が、少しおかしくもあるが、ストレスはハンパない。
『しばらくは大丈夫』
 しばらく、ってのはどの程度を表す言葉なんだろうな。
 彼女の言葉とは違い、かなりの枚数のワイシャツがハンガーに掛かっていた。
 元々多く持っているワケではないが、ほぼすべて。
 きちんとハンガーに掛けられているそれを見るたび、これがある限りは来ないんじゃないかという気がして、嫌だった。
 ……はぁ。
 今週末も来ないつもりか……? もしかして。
 思わず、そんなマイナス思考しか出てこない。
 だからこそ、彼女の存在の大きさを、改めて実感する。
 ……つらい。
 逆境にくじけるなと言われても、結構しんどいな。

 ――……その週の彼女は、普段と変わらない態度を保っていた。
 授業前の連絡にはしっかりと来ていれば、いつも通りの笑みもあるワケで。
 これといって変わったところなど感じられないし、本当にいつもと同じ。
 だが、どこか避けられているように感じるときもあり、それが一層不安を煽る。
 そんな週末。
 待ちに待った金曜の放課後に彼女を呼び寄せ――……ようとしたら、またもや彼女が表情を曇らせた。
 そして、そのままの顔で俺のところに歩いてくる。
「先生、今日は……行けないかも」
「……なんで?」
 不機嫌が顔だけじゃなく言葉尻にまで漏れ出した。
「じゃあ、明日は?」
「……明日も無理です」
 だったら、今日は、じゃなくて今日も、だろ。
 たまらず、彼女の前で不愉快なため息を吐きつつ目を閉じる。
 ……苦痛。
 手を伸ばせば届く距離にいるのに、彼女を抱きしめることも、キスすることもできない。
 あまりにも遠い存在。
 理由を聞くこともできず、ただただ黙るほかない。
「先生……?」
「用事って何?」
「え?」
 思わず彼女に訊ねると、瞳を丸くした。
 2週続けて、ましてや彼女が週末に予定を組むなど考えられない。
 これまでは、1度もなった。
 俺と過ごせることを、何より最優先にしてくれていたからだろう。
 だからこそ、不審でしかない。
 それこそ、何かを隠しているとしか思えない行為。
「……あの、お母さんと、出かけるから」
「じゃあ、日曜日は?」
「……えと、勉強しようかなって……」
「勉強なら、ウチですればいいだろ? 俺が見る」
「っ……それは、そう、ですけれど」
 明らかに、とってつけたような返事。
 あちらこちらへと視線が飛んで、一層怪しさが高まる。
 ……とはいえ。
 何よりも引っかかっているのは、どうしてそこまでして俺を拒むか、だ。
「避けてる? 俺のこと」
「え!? まさかっ! だって、そんな……」
「……じゃあ、どうして2週も連続で会えないんだよ」
「……先生……」
「苦痛。……精神的苦痛で、慰謝料欲しいくらい」
「だって……」
「……だって?」
「……ううん。なんでもない」
「なんでもないワケないだろ? だって、なんだよ。続きは?」
「……せんせぇ……」
 答えられないのか、答えるのをためらっているのか。
 どちらとも取れない、曖昧な表情。
 ……まさかの2週連続か。
 思ってもなかった最悪な事態に、ため息をついてから再び彼女を見る。
 そこにあるのは、いつもと変わらない困ったような顔なんだが……気になる。引っかかる。
「いいよ。……わかった」
「……ごめんなさい」
 小さく頭を下げた彼女が、絵里ちゃんの元へ戻って行った。
 席につくなり、はぁ、とため息をついて肩をすくめる。
 ……なんなんだ。
 俺が何かしたのか?
「…………」
 彼女が何を言おうとしたのか。
 言いかけてやめたのは、何なのか。
 それがわからないからこそ、余計に腹も立つ。
 これまで、あからさまに避けられたことはなかった。
 だから、どうして急にこんな事態に陥っているのか納得できず、飲み込めず、ただただ不安で。
 俺とだけ、だ。
 篠崎君や純也さんとは、楽しそうに話す。
 だが、俺との会話になると……表情が曇る。
 ……まさか、潮時とか言いだすんじゃないだろうな。
「……はー」
 結局いつまでもここにいるわけにもいかず、嫌な考えを拭いきれないまま、自分も席を立って実験室をあとにするほかなかった。

 土日がこんなにも長いものなのかと、嫌ってほど思い知らされている現在。
 ……家にいると、長いよな。
 とはいえ、どこかに出かける気も起きず。
 ただただ、流れるテレビ番組をなんの感情も持たずに見る。
 ――……今日も、先週のように突然くるんじゃないか。
 そんな期待を持ってはいたものの、世の中そう都合よくはできていないらしく、結局、昨日も今日も、彼女が家にくることはなかった。
 明日からは、また1週間が始まる。
 彼女をただ見ているだけで、指1本触れることすらできない日常が。
「…………」
 まるで拷問だな。
 彼女と離れた日々は、2週間がこれまでの最長。
 それが、今回はさらに記録更新となりそうだ。
 週末にも会えず、平日には篠崎君と楽しそうに話す彼女の姿を見るハメになるわけで。
 ……もう、うんざりだ。
 勘弁してくれ。
 どうして、楽しそうに話す相手が俺じゃないんだ?
 淡々とした授業の連絡。
 いつものような笑顔が見られるわけでもなく、こちらとて冗談を言えるほどの余裕がない。
 だからこそ、余計にぎこちなくて。
 結構、ツラいんだよな。彼女のあの顔見てるのは。
 身体のあちこちが不調を訴える。
 頭も、胃も、心臓も。
 どこもうまく働かないんじゃないかと思うくらいの、圧迫感。
 ……彼女がここにいれば、それだけで救われるのに。
 2週間、触れることもキスすることも――……何より抱くことをしていないからこそ、精神的にも不安定になっているのかもしれない。
「…………」
 ――……と、そのとき。
 これまでまったく耳に入ってきていなかったテレビから、音を拾った。
 流れているのは、普段見るようなこともないバラエティ。
 ……なのだが。
「やっぱ、男は優しくないとねー」
「だよねー。今どき『俺についてこい』とか言われたら、引くし」
「しかもさー、なんか、変に自分に自信持っちゃってる人が言わない? そーゆーヤツ」
「そーそー! マジ、ウザいよね。ああいうのって」
 ……鬱陶しい。
 と、つい眉の寄るような会話。
 だが、インタビューを受けているのは、ちょうど羽織ちゃんたちと同じ女子高生で。
 風貌も雰囲気も彼女とはまったく違うものの、年齢は一緒。
 ……18歳。
 あー、若いな。
 改めて彼女の年を実感する。
 …………しかし、だ。
「……優しい、ね」
 つい漏れた言葉に、自嘲気味な笑みが混ざる。
 ハッキリ言って、俺は優しいほうじゃない。
 いい彼氏なんかでも、ないという自覚がある。
 彼女の困った顔を見るのが好きなんだから、相当ヤなヤツだ。
 ……だが。
 篠崎君は、違う。
 俺と違って物腰も柔らかいし、何より――……あの、笑顔。
 屈託なく笑って、いかにも“好青年”の匂いが漂っている彼は、俺とは180度逆だといってもいいだろう。
 ……ってことは、だ。
 やっぱり、彼女も俺なんかより彼みたいなヤツが好きなのかもな。
 優しくて、一緒にいると和めて……男の癒し系とでもいうのだろうか。
 ……なんでもいいか。
 わかったところで、俺には変わることなどできない。
「……はぁ」
 俺じゃダメなのか。
 不相応というか……なんというか。
 目を閉じると浮かぶのは、篠崎君と楽しそうに笑う彼女の姿。
 ……そして。
 次の瞬間、俺と目を合わせて、非常に気まずそうな顔を見せる彼女。
 これが、現実。
 俺が明日から態度を一変させるか、もしくは彼女の気が変わるか。
 そのどちらかしか、この窮地を脱するすべはない。
「……どうしたらいい」
 ソファの縁に頭を乗せると、ふたたび大きなため息が漏れた。


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