実験が始まってしばらく経ったころ、テーブルのあちこちから楽しそうな声があがりだした。
 それを見てから、黙って座っていた教員も立ち上がってそれぞれのテーブルを回り始める。
 今回の実験は、希硫酸と希塩酸を用いている。
 いくら濃度が薄いとはいえ、劇物に変わりはないからこそ、お喋りしながらの実験ではこぼすんじゃないか……という不安もあったのだろう。
 例に漏れず俺もほかのテーブルに行こうとし――……たのだが、いきなり絵里ちゃんに手を掴まれた。
「っ……何?」
「先生は、うちらの班見てよね」
「いや、だから別に――……」
「よくないの。ていうか、見なさい」
 ……ったく。相変わらず、純也さんそっくりだな。
 多分本人に自覚はないんだろうけど。
「…………」
 小さくため息をついてから実験の様子を見ていると、いたって普通だった。
 実験が、じゃない。
 彼女が、だ。
 ……普通……だよな。
 ただ、彼女は俺がいるせいで気まずそうだけど。
「…………」
「……っ……」
 などと考えていたら、ふいに視線が合った。
 が、咄嗟のことでつい視線を逸らしてしまう。
 間違いなく、自分にやましいことがあるから。
「っ……」
 そのとき、何か言いかけた彼女がこちらに手を伸ばした。
 ――……途端。
 ガシャッ
「っ……うわ!」
 彼女を避けるように身体ごと振り返ると、後ろに積まれっぱなしだったビーカーのひとつを弾いてしまった。
 当然ながら床にそれが落ち、勢いよく音を立ててあたりに散らばる。
「うわ……!」
「祐恭君!」
 純也さんやほかの教師が集まってくるのを感じながら、ビーカーの破片を拾う。
 見ると、割れたビーカーは幸いにもひとつだけで、ほかの生徒に怪我はなさそうだった。
 ――……が。
「うわ! 血っ……血ぃ出てるって!!」
「え? ……うわ!?」
 純也さんが声をあげたのも無理はない。
 どこが切れたのかわからないほど、手のひらが真っ赤だったからだ。
 ぼたぼたと血がたれ、床へ落ちる。
 ……って、おいおいおい!!
「うっわ!?」
「ほらっ! 早く保健室!!」
「せ、先生っ!?」
「きゃあー!?」
 一気に実験室がどよめき立ち、騒がしくなる。
 ヤバい。
 ヤバい、ヤバい、ヤバい……!
「ッ……!」
 慌てて手首を掴み、純也さんが渡してくれたティッシュをまとめて握る。
「早く! 止血して!!」
「ど、どこからこんなに……」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!! ほら、早く! 保健室!!」
 ほかの先生にもらったタオルを重ねて傷口を押さえ、慌てて実験室を出てから向かうのは保健室。
 ……だが。
「……すげぇ」
 人間、非日常的なことが起きると笑いが出るらしく、こんな状況ながらもなぜか笑えた。
 少しの傷でも、血ってすげー出るんだな。
 我ながら、まともな感覚じゃないと思う。
 …………って、馬鹿なこと言ってる場合じゃなかった。
 どくどくと傷口が脈打ち、白かったタオルが尋常じゃないスピードで赤く染まり始める。
「うわっ、ちょ、シャレんならな……!!」
 ごくりと喉を鳴らし、慌てて保健室へ。
 階段を数段飛ばしでたどり着いた先にあった、保健室のドア。
 それが見えてすぐ、気が抜けた。
「先生! 血が……!!」
「あら、瀬尋先生。……! ぎゃー!!?」
 保健室に入ると同時に手を見せると、落ち着き払っていた彼女が一変し、慌てて紐のようなもので腕のあたりを縛ってくれた。
 だが、当然ながらそう簡単に落ち着くはずもなく。
 ……ヤバい。
「な、なな、なんですかこれは!?」
「どこが切れたかわからないんですけど、なんか、血が止まらなくて」
「止まらなくてじゃないでしょう! わ、わっ!?」
 握っていたタオルを取ると、ボタボタと血が落ちた。
 うわ……ドラマみてー。
 思わずヘンなところを感心していると、椅子に座らされてテキパキと手当てをしてくれた。
 消毒してもらって余計な血が見えなくなると、傷がいくつか目に入る。
 ひとつひとつは小さいのだが、それぞれ深さが結構あるらしかった。
「……もー。何したんですか?」
「えーと……あー、多分ガラスを掴んだからかと」
「んなもの、掴まないでください!」
「……すみません」
 この年になって、素で怒られた。
 でも、あのままほっとらかしといたら、俺よりも先に羽織ちゃんが『危ないっ』なんて言いながら片付けるべく手を出してきそうだったんだよな。
 だからもう、反射だった。
 それにしても、驚いたな。
 さすがは、ガラス。よく切れる。
 これからは、素手で触らないようにしようと心に誓った。
「…………」
 包帯をしっかりと巻かれ、なんとも重症な左手。
 ……絆創膏で直ると思うんだけど。
 などと考えながら実験室にそっと戻ると、慌てたように篠崎君が声をかけてきた。
「瀬尋先生! 大丈夫ですか?」
「あぁ、ごめん。授業の邪魔して。この通り、止まったから」
 苦笑を浮かべて手を振ると、少しほっとしたように彼がうなずいた。
 椅子に戻る途中で生徒たちから声をかけられたが、苦笑を浮べて手を振るにとどめておく。
「大丈夫?」
「ええ、この通り」
 心配そうな純也さんに手を見せて笑うと、彼も苦笑を浮かべて首を振った。
「ったくー。びっくりしたよ。血がすげー出るんだもん」
「あはは。俺も同じこと思いました」
 思わず声を出して笑うと、絵里が苦笑を浮べていた。
 ……だが。
 隣の彼女はというと、俺を見て唇を噛んでいて。
 ……? なんでそんな顔するんだよ。
 これは俺のせいなのに。
 などと眉を寄せたら、授業の終了を告げるチャイムが響いた。
「……あ。ええと、それじゃあ……授業は、以上で終了になります」
 残念ながら時間内に授業が終わらなかったが、途中でアクシデントもあったしな。
 ……つーか、俺のせいだし。
 このあと、準備室で今回の授業の考察がある。
 あそこがよかった悪かったと指摘するんだが……恐らく俺も何か言われるだろう。
 注意力が散漫、とか。
 何してんだお前、とか。
 ……はー…。
 斎藤先生に怒られる姿が目に見えて、生徒たちが引き上げて行くのを見ながらため息が漏れた。
「……ん?」
 バインダーで肩を叩いて立ち上がろうとすると、目の前に見慣れた足が揃った。
 ふと顔を上げると、教科書類を胸の前で抱えたまま俺を見下ろしている彼女の姿。
「どうした?」
 視線を合わせて呟く――……と、突然彼女の瞳から涙が落ちた。
「……な」
「ふぇ……」
 慌てて立ち上がるものの、いきなり泣かれたら戸惑いもする。
「ち、ちょっ……! ま、待って! ここじゃなくて――」
「……もぅ……っ」
「頼むから。……泣くなって……」
「だって……!」
 慌てて両肩に手を置くものの、目の前でぼろぼろと涙を流しながら、口元に手を当てて首を振る。
 ほかの生徒の姿がなくなったからいいようなモノの……あー、すみません。
 実験室のドアが閉まったのを見て反射的に準備室側のドアを見ると、小さく笑った純也さんがドアを閉めた。
 軽く頭を下げ、彼女を抱きしめる。
 小さく聞こえた音は、恐らく彼が鍵をかけてくれたからだろう。
 ……ありがたい。
「……泣くことないだろ? 俺が悪いんだし。それにほら、もう大丈夫だから」
「だっ……て、だって……!」
「大丈夫だから。別に、死ぬような怪我じゃないし」
「けどっ! すごい、いっぱい血が……っ……!」
「傷も大したことないから。……ほら、もう泣かない」
 さっきのは、泣くのをこらえていた顔だったのか。
 やっと、気落ちしていた理由がわかって、少しだけほっとする。
 ……ったく。
 大した怪我じゃないのに。
 そりゃまぁ、あれだけの血が出ればびっくりもするだろうが。
「……心配かけて、ごめん」
 そっと髪を撫でると、小さくうなずいてから顔を上げた。
 涙の跡と赤くなったまぶたが目に入り、思わず眉が寄る。
 泣かないでくれ、頼むから。
「……悪かった」
 思わず、続けざまに謝ってからまぶたに唇を寄せ、抱きしめる腕に力を込める。
 久しぶりの温もり。
 それが妙に安心できて、嬉しくて、つい堪能するように目を閉じていた。
 ただでさえ3週間も我慢している上、先日、してはならないことを彼女にした。
 ……そのせいかもしれない。
 彼女をこうして抱きしめていると、自分も自然に落ち着いていた。
「この前は、嫌な思いさせてごめん」
「……ううん。大丈夫です」
 そっと呟くと、首を振ってから瞳を合わせてくれた。
 いまだ悲しみの色が濃かったが、それでも、先日見た姿よりはずっと穏やかで。
 ゆっくり額を合わせると、久しぶりに彼女から笑みが漏れた。
 これだけで、今まで深く考えすぎていたことが、どれだけ馬鹿げたものだったかわかる。
 彼女には、こういう不思議な力があった。
 逆に、彼女がいないと自分がいかに弱い人間かを今回のことでまざまざと思い知らされたが。
「……昨日、篠崎先生に会ったんだって?」
「あ……はい」
 壁にもたれるようにしてから彼女を抱きしめると、一瞬視線を外してから小さくうなずいた。
 ……昨日、ね。
 家にくるんじゃないかと勝手に期待してたからこそ、まさかヨソの男と会っていたなんて、結構ショックだったんだけど。
「どうし――」
 意を決して聞こうと思ったのだが、無情にも途中で6時限目のチャイムが響いた。
「あ、次、古典……」
「……ってことは、日永先生か」
「です」
「じゃあ、急いで」
「……でもっ……!」
「いいから!」
「っ……」
 慌てて彼女を離し、ドアから見送る。
 パタパタと足音を響かせて行――……った彼女が、1度こちらを振り返ってから渡り廊下を進んでいった。
 先ほどまでとは違い、ずいぶんと気持ちが落ち着いていることがわかる。
 ……やっぱり、彼女がいないとダメなんだな。
 それが、よくわかった。
「…………」
 ……にしても、だ。
 当然気にはなる。
 昨日篠崎君と会っていたこともそうだが、それ以上にずっと俺を避け続けていたことが。
 ……まぁいい。
 とりあえず、今日こそは彼女を家に連れて帰ろう。
 せっかく、こうして訪れたチャンスなんだし。
 などと放課後に思いをはせながら、改めて自分も準備室に戻るべく――……実験室を出て、表のドアから中に入った。


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