「……は?」
「だって、あの……。用事があって……」
 部活が終わったあと。
 彼女を呼んで繰り広げ始めたバラ色になるはずの会話は、突然ぷつりと切れた。
 てっきり、彼女はふたつ返事で家にきてくれる思っていたのに、なぜだか知らないが、まったく予想とは違う答えが返ってきた。
 ……ちょっと待て。
 これ以上、我慢しろっていうのか?
 つーか、どうしてそこまでウチに来たがらないんだ? この子は。
「あのさ。俺、何した?」
「だから、なにもしてませんってば」
「じゃあ、なんでそんなに避けるワケ?」
「……避けてるんじゃなくて……」
「なくて?」
「……だって……邪魔になるの、嫌なんだもん」
「邪魔? 邪魔って、なんの?」
「だから、先生の」
「……俺? ……ちょっと待って。ワケがわからない。……俺が誘ってるのに、どうして邪魔になるんだ?」
「それは……その……」
 彼女が何を言っているのか飲み込めないのか、それとも俺の頭がちょっとおかしくなってるのか、どっちだ。
 眉を寄せた彼女に手のひらを向けてこめかみに指を当てるものの、眉は当然寄ったままで。
 つーか、邪魔なんてどうして考えてるんだ?
「だって、お兄ちゃんが――……」
「孝之? 孝之が何か言ったのか?」
「っ……! う、ううん。なんでもないです。えと、あの、今日は絵里と約束があるからっ」
「ちょっと待った。孝之が、何?」
「なんでもないの! じ、じゃあ、失礼しますっ」
「あ、ちょっ!?」
 慌てて立ち上がるものの、こちらに見向きもせずに彼女は絵里ちゃんの隣へ戻ってしまった。
 おい。
 おいおいおい。
 なんなんだ、いったい。
「…………」
 ため息をつきながら椅子に座り直すと、絵里ちゃんと話をしている彼女に目が行く。
 ……しかし、孝之がどうのって言ってたな。
 今日はどっちみち大学へ行く予定もあったので、それじゃあ聞いてみるか。
 考えていても埒が明かない。
 早々に荷物をまとめるべく準備室に向かい、荷物を持って学校をあとにすべく昇降口へ。
 彼女に聞いたところで、俺が欲しい答えをくれそうにない。
 だとすれば、今はとにかく鍵を握っていそうな孝之に聞くほか選択の余地がなかった。

 図書館前の教員駐車場にこっそり停めてから、本館に入る。
 ……ここに停めたのバレたら、怒られるだろうな。
 とはいえ、これでも教員のはしくれ。
 一般人とは程遠い場所に足を踏み入れているからこそ、文句を言われる筋合いもない……と思っている。
 エレベーターで3階に上がり、担当教授の宮代豊(みやしろ ゆたか)の研究室を目指す。
 ……あー。
 いつものことだが、どうして彼の研究室を訪ねるときは緊張感がハンパないのだろう。
「失礼します」
「どうぞ」
 控えめにノックをすると、いつも通りの声が響いた。
 のんきそうな声とは裏腹に、結構ちくちくやられるから……たまらん。
「こんにちは」
「瀬尋君か。いらっしゃい」
 一見、人のよさそうなじーさん。
 だが、こう見えて結構なヤリ手だから、人間あなどれないというモノだ。
「論文を提出にきました」
「お。いつものことながら早いねぇ。前回の論文、ほかの大学の教授連中も唸ってたぞー?」
「それは光栄です」
 にやりと浮かべられた笑みに苦笑しながら、プリントアウトした束とFDを渡す。
 今どきFDってのもどうかと思うが、まぁ、仕方ない。
 俺としては、そろそろSDカード使えるようになってほしいところだが、彼のデスク周りにはその類のものはないんだから。
「英文は、こっちに入れてあります」
「ん。ご苦労さん」
 軽く頭を下げてドアに手をかけたところで、彼が小さく笑った。
 その笑みに、どきりというより、ぎくりと強張る。
「今回も、楽しませてもらうよ」
「……はは」
 苦笑を浮かべて部屋を出てから、ため息ひとつ。
 そして、足早に図書館を目指す。
 目的は、もちろんただひとり。
 何かを知っているであろう、孝之だけ。
 この時間ならば、恐らくまだ仕事をしているはず。
 はやる気持ちを抑えながら足を向け、本館から伸びる渡り廊下を足早に通り過ぎ、ガラスの重い図書館のドアからカウンターに向かう。
「あ、瀬尋さん。珍しいですね」
「どうも。孝之、います?」
「ええ。ちょっと待ってくださいね」
 昔からいる司書の女性に笑顔を見せると、奥から孝之がひょっこり顔を出した。
「あれ、珍しいな。お前がここにくるなんて」
「お前に聞きたいことがある」
「……なんだよ、いきなり」
 紙の束を持ちながら出てきた彼に、笑みなんて出るはずもなく。
 じぃっと見たまま瞳を細めると、怪訝そうな顔を見せた。
「羽織ちゃん、ここしばらく何してた?」
「羽織? ……さぁ。そういえば、珍しく週末お前のところに行かなかったな。なんで?」
「なんで、って……それがわからないからお前に聞いてるんだろ」
「……そう言われてもな。知らねぇって」
「何か、変な素振りとかなかったか? いつもと違ったこととか」
「さぁ……。あ」
「え?」
 首をかしげた孝之が、まるで何かを思い出したかのようにバツの悪そうな顔を見せた。
 ……この顔。
 明らかに、何かやらかしたことを隠してる顔だ。
「いや……ちょっと話したんだよ」
「何を」
 思わず顔が険しくなる。
 こいつがこういうふうに話を濁らせるときは、大抵ロクでもないことをしている。
 ……やっぱりお前のせいだったのか。
 ふつふつと湧き上がる怒りにも似た感情を押し止めていると、軽く頭をかきながら彼が続けた。
「ほら、お前論文書いてるだろ?」
「それが?」
「1日中教師の仕事やって、週末はアイツと会って。いつ論文書いてるんだろうなって話はした」
「……で?」
「アイツ、知らなかったらしくて。そういや、すげぇ気にしてたな……って」
「…………へぇ。お前、そんなこと言ったのか」
「いや、だから。てっきり、知ってるもんだと思って――」
 ……余計なことを。
 瞳がキリキリと音を立てて細くなるのがわかる。
 なんというか、こー……殴りたい。
 思わず拳を作って孝之を見ると、慌てたように両手を挙げて“降参”ポーズを見せながら、後ずさりした。
「じゃあ、何か。お前が余計なことを言ったから、彼女が拒んだ……と」
「いや、それが理由かわかんねぇぞ? ……っ、おい。おま、ちょっと落ち着け!」
「……そうか。お前のせいか。お前が悪いんだな」
「だから! そういうワケじゃ――」
 慌てふためく孝之を睨みつけたまま数秒。
 ごくり、と喉を鳴らしたのを見てからきびすを返し、ドアへ向かう。
 目標はもちろん、彼女の家。
 ……絶対許さん。
 誰をって、それはもちろん――……。
「……孝之」
「っ……! な、んだよ」
「覚悟しとけ」
「ぶ! ちょっと待て、なんで俺なんだよ!」
「お前しかいないだろ!」
 こっそり背を向けて戻ろうとしていた彼をキツく睨んでから図書館をあとにし、車へ乗り込む。
 外に出ると、日が落ち始めていた。
 9月ともなると、暗くなるのが早いな。
 などと考えながら彼女の家へと向かうと、途中で渋滞に捕まったものの割と早く着いた。
 いつものように車をガレージ前へ停め、外階段を駆け上がってからチャイムを鳴らす。
 ――……と、彼女ではなくお袋さんが玄関を開けてくれた。
「あら。羽織、まだ帰ってないのよ?」
「……え、そうなんですか?」
「ええ。あ、どうぞ。入って待ってて」
「あ、いえ。でしたら、ちょっと探してみます」
「そう? じゃあ、もし入れ違いで帰ってきたら電話するわね」
「お願いします」
 頭を下げてからドアを閉め、道を眺めながらスマフォを取り出して電話をかける。
 ……こんな時間まで、どこを歩き回ってるんだよ。
 部活の時間はとっくに過ぎてるからこそ、暗くなる時分に彼女が家にいないというのは、不自然極まりない。
「今、どこにいる?」
『え? あ、の……もうすぐ家ですけど……』
 彼女が電話に出ると同時に問いただすと、少し困った声が聞こえた。
 ――……だが。
 バックに聞こえる、聞きなれない音楽。
 そして、こもったような声の響き。
 ……車?
「今、誰と一緒にいる?」
『え!? 別に、誰とも……』
「ふぅん。俺、羽織ちゃんちの前にいるんだけど」
『えっ!? なんでですか!』
「いちゃマズい?」
『そ、うじゃないですけど……』
 相変わらず、微妙に困惑の色が伝わってくる会話。
 ドアへもたれるようにして彼女と電話をしていたのだが、遠くから聞こえてきた車の音で、そちらに視線が向いた。
 ……だが。
 目の前に停まった1台のデミオを見て口が開く。
 いや。正確には、そこから降りてきた人間を見て、だけど。
「せ、んせい……」
 助手席から降りたのは、紛れもなく彼女だった。
 ……しかもそれだけじゃない。
 運転しているのは、篠崎君。
 スマフォをポケットに突っ込み、外階段を下りて向かうと彼も車から降りてきた。
「瀬尋先生。どうしたんですか?」
「それはこっちのセリフ。どうして彼女と一緒に?」
「あ……帰りが遅くなってしまったんで、絵里ちゃんと彼女を送ってきたんです」
「ふぅん」
 ちらりと彼女を見ると、気まずそうに俯いていた。
 ……なんで俺に電話しないんだよ。
 思わず、腹が立つ。
「でも、ひとりで帰れたんじゃないか? バスだってまだあるし」
「……それは……そうですけれど」
 彼に向かって放った言葉だったが、彼よりも先に彼女が反応を見せた。
 そこでようやく視線が彼女へ向くものの、困ったように視線を逸らす。
「でも、彼女は部活の子でもありますし、心配じゃないんですか? 可哀想ですよ」
「……可哀想? どうして」
 ふいに彼女をかばうように手を出したのは、篠崎君だった。
 眉を寄せて、言いたいことでもあるのか不服そうだ。
「女の子なんですよ? こんな遅くに……ひとりでなんて帰せません」
「だから送ってきたってこと?」
「はい。僕が送る、と言ったんです」
 ……ちょっと待った。
 その目は、まさか……冗談だよな?
 ひとりの教師として言っているようじゃない顔。
 見たことがあるような態度に、瞳が細まる。
「……それは、ひとりの生徒に対して言ってる?」
「え……?」
「まるで、彼女が好きみたいな口ぶりだなと思って」
「っ……それは」
 目の前で俯くのを見て、大きくため息が漏れた。
 ……勘弁してくれ。
 お前まで、彼女を好きだとか言い出すのか……?
 再びため息をついて運転席のドアを開けたまま車のキーを回すと、音に反応してか、ふたりそろってこちらを見た。
「それ、先生のなんですか? ……すごい車ですね」
「きれいだろ?」
「ええ」
「じゃじゃ馬で、馴らすのが大変だけど」
「……へぇ……」
 ルーフ越しに彼女を見ると、少し困ったように視線を合わせてきた。
 ……じゃじゃ馬、ね。
 彼女はどちらかというとそうでもないが、まぁ……ある意味馴らすのは大変かもしれない。
「大変だぞ?」
「え?」
「彼女も、ね」
「えっと……羽織ちゃんが、ですか?」
 じぃっと彼女を見たままで呟くと、篠崎君と同じくきょとんとした顔を見せた。

 今から俺が何を言うか、わかる?

 そんな意味をこめて小さく笑ってから、篠崎先生へと視線を移す。
「ええと、それはどういう……」
「このお嬢さんと同じ名前だからね」
「っ……」
 コン、とルーフを叩いて笑うと、彼女が口元を押さえた。
 俺がこんなこと言い出すなんて、思わなかっただろ?
 彼女の反応が予想通りで、少し笑える。
「……さて。ここまでのエスコート、ありがとう。代わるよ」
「え?」
 不思議そうな顔をした篠崎君を見ずに、彼女を見たまま言葉を続ける。
 もう、止まらないし止められない。
 俺には、譲ってやる余裕も理由もないんだから。
「孝之から話は聞いた。話したいことあるんだけど」
「っ……! 聞いた……んですか?」
「しっかりね。……勝手に自己完結して離れないでくれる?」
 瞳を細めて続けると、困ったように視線を逸らした。
 だが、彼女がこうするであろうことはよーくわかっているワケで。
 今日こそは、絶対に連れて帰るからな。
 これ以上の我慢を強いるならば、問答無用で俺が部屋に押しかけてやる。
「どうする? くる? ……それとも、また避けるの?」
「……それは……」
「ち、ちょっと待ってください! 瀬尋先生っ!」
「何?」
「あのっ、どういうことですか? なんだか、わけがわからないんですけれど……」
「まぁ、そういうことだよ」
「え?」
「俺の“彼女”を、わざわざ送ってくれてありがとう」
「っ……先生!」
 にっこりと篠崎君を見て笑うと、慌てたように羽織ちゃんが首を振った。
 いいだろ? 別に。
 俺は、ずっと悩みすぎてたんだ。
 もっと早く、こうしてしまえばよかったのに。
「バレたって別に構わない。……羽織ちゃん以外のものはすべて、いくらでも代替がきくんだ。地位も立場も失おうと、構わないね」
「だけど……!」
「何に代えても、護るって言っただろ?」
「っ……」
 少し前の、約束。
 いや、誓約とも言うか。
 彼女と付き合うと決めたとき、そう言ったのは事実。
 彼女にも、そしてご家族にも。
「……先生……」
 まっすぐ見つめたまま小さく笑うと、彼女もまた嬉しそうに微笑んだ。
 ……そう。
 俺は、ずっとその顔が見たかった。
「どうするの?」
「……行きます」
「ん。聞きわけのいいお嬢さんで」
 にっこり微笑んでから、助手席を開けて彼女を乗せる。
 すると、乗り込む瞬間に目が合った。
「たく。手間賃、上乗せね」
「……もぅ」
 いつもと同じ顔。
 柔らかく笑って困ったように頬を染める姿は、ずっとずっと俺が欲しかった仕草。
「じゃ、そういうことだから」
「え? あの……ええと……」
 運転席へ乗り込む瞬間、目が合った篠崎君へそれだけ告げ、とっととギアを入れて車を出す。
 アクセルを踏み込んで角を曲がると、バックミラーからもすぐに彼は見えなくなった。
 たとえ、事実が学校に広まったとしても構わない。
 ……あ。
 俺じゃなくて、彼女が困るか。
 しまったな。
 自分のことしか考えてなかった。
「……ごめん、やっぱ軽率だったな」
「え?」
「学校にバレたら、羽織ちゃんが困る」
「……そんなことですか?」
「そんなことって……!」
「私だって、先生のほうが大切ですもん。……それに、もうすぐ卒業だし」
 国道に入ってマンションに向かう途中の赤信号で彼女を見ると、あの優しい笑みを浮かべてくれていた。
 ……相変わらず、器がデカいな。
 そういう物事にこだわらず自分で判断下すところ、孝之にそっくりだ。
「俺が責任取るよ。……ちゃんと」
「っ……先生」
「全部ね」
 髪を撫でて微笑むと、一瞬驚いたようにしてから嬉しそうに笑ってくれた。
 この笑みを護る。
 俺も、そう誓ったんだ。
 結果として急に早まったとしても、彼女だけは手放すワケにいかない。
 ……あんな思いするのは、たくさんだ。
 改めて、そう強く思った。


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