激しく気分が悪い。
 その上、機嫌も悪かった。
 彼女を家まで送った帰り道ながらも、どうしたってため息が漏れる。
 ……洋画に、宇宙一運の悪い男が主人公の、『Meet the Parents』という映画がある。
 これはまぁ、付き合ってる彼女の両親に会って、そこの父親が元CIA諜報員で堅物で……っていうヤツなんだが。
 しかしながら、『宇宙一運の悪い男』という言葉がセカンドタイトルのようなモンで。
 ……なんでこんなことを思い出したか、って?
 答えは簡単。
 ――……現在の自分が、その映画の主人公よりも運が悪いと思えるからだ。

 祝日の、木曜日。
 ……そう。今日のことだ。
 昨日は彼女が泊まれなくなってしまい、ただでさえ気分は最悪。
 ……そんなときだ。
「っく……ぅ」
 ベッドの棚に放ったままのスマフォが、デカい着うたを響かせたのは。
 深夜までスカパーで映画を見てしまい、それから論文をやり……。
 寝たのは、3時過ぎ。
 だというのに、起こされたのは9時少し前で……。
 しかも、それが自分でセットした目覚ましではなくいきなりの着信によるものとなると、当然ながら目覚めはよくないし、機嫌も超絶悪くなる。
「……っるせ……」
 隣に温もりのないベッドでひとり、大きく寝返りを打ってから枕で耳を塞ぐ。
 ――……が。
 一向に鳴り止む気配を見せない、着うた。
 これが彼女の着信を知らせるものなら、間違いなくすぐに目が覚めて、奪い取るようにスマフォを引っ掴んだはずだ。
 だが、そんな気が起きるワケがない。
 ……電話をかけてきた相手が、涼だから。
 どーせまた下らない電話だろ。
 大方、どっかに行きたいとか、そんなとこだと思う。
 だから、あえて放ったらかしにしておいた。
 ちゃんと起きて、目が覚めたころに折り返し電話しよう。
 そう思って、敢えて出ないでいたのだが……。
「……うー……」
 切れることなく、ずーーーっと、ひたっすら鳴り続ける電話。
 ……うるさい。
 なんなんだよ……あーもー、ちくしょう!
 せっかくの休みなのに、朝からっ!!
「…………」
 ぶちっと音を立てて通話ボタンを押すが、無論横になったまま。
 いつものように愛想よく応えてやれるだけの余力なんぞ、今の俺にはない。
 無言でスマフォを耳元に当てると、やたら元気な涼の声が響いてきた。
『あ、もしもしー? 兄貴ー?』
 ……頭に響く。
 つーか、頭痛ぇ……。
 放ったままでいたのだが、やたらと『兄貴』を連呼するので仕方なく手にすることにした。
「…………うるさい」
『なんだ、いるんじゃん。ちゃんと電話くらい出てくれてもいいだろ?』
「……朝っぱらからなんの用だ。下らなかったら、殺す」
『なんでそんなに機嫌悪いんだよー。いや、ちょっとさー、今近くに来てるんだけどー』
 ……それだけで、嫌な予感がする。
 ウチに来るとかなんとか言い出すんじゃないのか、コイツは。
『んでさー、ちょっと兄貴んトコ行きたいんだけど。いい?』
「来るな」
『えー!? なんだよ、冷てー!! あ、アレ? もしかして、羽織ちゃん今横にいるとか――』
「い な い。……だから、来るな。今、ものすごく機嫌が悪いことくらい、わかるだろ」
『いいじゃん! ちょっとさー、あっははー。実は車貸してほしいんだけど!』
「死ね」
『えぇええぇ!? ちょ、なっ……兄貴!? おっ、お兄さまっ!?』
 いきなり何を言い出すのかと思いきや、ウチに来るだとか、挙句の果てには車を貸せ、だと?
 コイツは本当に何も考えてねぇな。
 つーか、俺がこんだけ機嫌悪いんだから、そういう馬鹿みたいなことを頼むな。
『ちょっとだけだってー』
「嫌だ」
『あー、でもさー。もう着いちゃったんだよね、俺』
「……は?」
 唐突な言葉に、つい瞳が開く。
 着いたって……ひょっとして、ウチに……か?
 そんなことを考えていると、チャイムが家に響いた。
 まさか……っ!
「……涼。お前……」
『いるんだろー? ちょっと開けてー』
 ……くそったれが。
 俺の身近にいる人間どもは、平気で家に押しかけてきやがる。
 それが、ものすごく腹立たしい。
 スマフォをベッドへ投げつけるように切ってからリビングに向かい、ドアホンの前に立つ。
 すると、やはりそこには見慣れたヤツの顔があった。
 ……はぁ。
 せっかくの休みだってのに、なんなんだよこの仕打ちは……。
 大きく……それは大きく漏れたため息をそのままに、仕方なくオートロックを解除することにした。

「うへぇー。やっぱ、いいねー。エンジンが違うと、すげぇ気持ちいい」
 相変わらず、人の運転はあまり好きじゃない。
 ……しかも、それが自分の車だとなると余計に。
 助手席にもたれながら涼の運転を見ていると、どうしても安心してすべてを任せる……というわけにはいかない。
 運転が下手とまでは言わないが、どうしたって気が気じゃないわけで。
 ましてや、まだ買ってさほど経ってない車ともなると、余計にそんな思いは強くなる。
 近所のモールまで運転させ、無事に辿り着いた立体駐車場。
 祝日ということもあって込み合っているため、普段停めることのない4階まで警備員に誘導されるはめになった。
「あー、すっげぇ面白かった。やっぱ、違うわ」
「……あ、そ」
 バックで駐車してモール内に向かう途中もずっとそんな話を続ける涼に、いつしか笑みが漏れる。
 子どもみたいだな……相変わらず。
 ころころと表情を変えながらあれこれ楽しそうに話す姿は、いつまで経っても小さいころの印象が抜けない
「……で? お前、何しにきたんだよ」
「今度新しくできた香水専門店があるの、知ってた?」
「……知らん」
「やっぱり」
 さも当然という感じに肩をすくめられたのが、なんとなく気に入らない。
 ……俺が香水に興味あるわけないだろ。
 エスカレーターで下りながらこちらを振り返り、やたら自慢げに話してくる姿はやっぱり笑えた。
 知識をひけらかすのが好きだからな、こいつは。
 3階に着いて雑貨の並ぶ通りを歩いていくと、1箇所だけ異様な雰囲気が漂っている――……というか、ものすごく匂いがキツい場所に行き当たった。
 ガラス張りの店舗で、透明なケースにずらっと並ぶ小瓶類。
 すべての匂いが混ざってるんじゃないかと思えるそこが、涼の目的地だった。
「……勘弁してくれ」
「あれ? 兄貴、ダメなんだっけ」
「……俺がいつ好きになった」
「そっか」
 けろっとした顔で店舗に迷うことなく足を進めると、店員らしき女性と何やら親しげに話をしだした。
 ……まるで、知り合いみたいだな。
 相変わらず人当たりがいいというか、軽いというか……。
 中に入る気はまったく起きなかったので、通りに設置されたベンチに座って待つことにする。
 楽しそうに試用の紙をひらひら振って話す姿は、女なんじゃないかとさえ思えるほど。
 彼女に贈るんだかなんだか知らないが、マメだよな……。
 同じ兄弟とは、とても思えない。
 確かに、自分の好きな匂いを自分の女がつけていれば、それはそれでいいと思うが……。
 でも、俺の場合は彼女の匂いが好きなわけで。
 今の俺にとって1番好みの匂いは、やっぱり彼女のつける香水……もあるけど、とにかく彼女。
 自分と同じシャンプーだろうが、なんだろうが、彼女ならばなんでもよし。
 そんな気さえしてくる。
 ……はぁ。
 昨日の放課後に彼女を誘ったのだが、今日は絵里ちゃんと買い物に行くからという理由で断られてしまった。
 ……というか、純也さんが出張で1日留守にするから、ってのもあるんだけど。
 そのため、珍しく彼女は絵里ちゃんの……というか、純也さんのというか。あの家へ泊まりに行ったのだ。
 彼女がいない休日が、これほど長いものだとは思いもしなかった。
 それだけに、どうしたって彼女に会いたくなってくる。
 女ふたりで何話してるんだろうな……。
 ……相手が絵里ちゃんとなると、またふたりで怪しいビデオでも見てるんじゃないかと若干気にはなるのだが。
「お待たせー」
 流れ行く人の波を見ながらぼーっと過ごしていると、どっかの待ち合わせにでも来た女のように涼が笑みを浮かべて戻ってきた。
 手には、しっかりとした紙袋。
「……お前、マメだよな」
「そう? でも俺自身、香水結構好きなんだよなー。だからかもしんない」
 確かに、そう言われてみると涼は昔からやたら瓶を持っていた気がする。
 つける香水も、いつも一緒ってワケじゃなかったし。
 ……まぁ、馬鹿みたいにつけてるわけじゃないから、いいとするが。
「……あ。そういえば――」
「あ、馬鹿!」
 くるっと俺の前に身体を滑らせて、こちらを振り返った涼に慌てて声をかけるも――……遅かった。

 どんっ

 軽い音と同時に、涼の足にぶつかった……まだ小さな子。
 その子が、ぺたんっと床にしりもちをついた。
 恐らく3,4歳と思われる女の子が、今にも泣き出しそうな顔で涼を見上げて――……。
「っ……ぅ、ふぇ……」
「わっ!? ご、ごめっ……!!」
「うわぁあんっ!!」
 やっぱり、泣き出してしまった。
 ……あーあぁ。
「ごめんっ、ごめんな!?」
 慌てふためいて涼がしゃがみこむものの、一向に泣きやむ様子はない。
 ……相変わらず、子どもの扱いに慣れてないな。
 つーか、こいつの場合は自分より下に弟や妹がいないから……かもしれないが。
 小さくため息をついてから涼の横にしゃがみ、女の子を立たせてやってから服を軽く払ってやる。
 すると、きょとんとした顔をしてから恐る恐る視線を合わせてきた。
「ごめんな。……大丈夫?」
「…………」
 何も言わずに小さくうなずいたその子に笑みを見せ、よしよしと頭に手をやる。
 そんな自分の姿が、まるで昔のようで……少しおかしかった。
 どこか、羽織ちゃんが小さかったころはこんななんだろうな……なんて雰囲気がある、その子。
 ……まぁ、恐らく泣いているからだとは思うが。
 …………いや、まぁ、いつもいつも彼女が泣いているわけではないんだが。
「このお兄ちゃんにはよく言っておくから。許してやってくれる?」
「……うん」
「ん。ありがとう」
 ぐしっと涙を拭ってうなずいたその子に笑みを返すと、涼も慌てて手を合わせてから謝った。
「すみません、この子ってば……」
「あ、いえ。こいつが悪いんですから」
 母親らしき女性が抱きかかえてからこちらに頭を下げたが、悪いのは何よりも涼。
 首を振って立ち上がると、ぎゅっとしがみついていたその子が振り返った。
「ほら、ばいばいでしょ?」
 母親の言葉に一瞬視線を外してから、片手を挙げ……そして――……。
「おじちゃん、ばいばぁい」
 お……!?
「こらっ! おにいさんでしょ!!」
 慌てて母親がたしなめるのが見えたが、思わず顔が引きつる。
 しかも、隣にいる涼は、やたらおかしそうに笑い出す始末。
 ……お……おじちゃん……?
 俺が!!?
 そ、そりゃあ、もう20歳過ぎたけど……でも、でもだな。
 おじちゃんはないだろ……。
 よく、テレビとかで見るありきたりの光景。
 それが、まさか自分の身に起きることになろうとは、考えてもいなかった。
 ……ヤバい。
 これは相当ショックだ……。
 あまりのことに硬直していると、くっくと喉で笑いながら涼が肩を叩いた。
「ま、まぁ……ほら、なんつーの? あのくらいの子にとってみれば、兄貴は十分オジサンなわけでさー」
「…………」
「でもほら、別にそんなにショックじゃ――」
「……うるさい」
 ……ああ。
 なんか、頭痛い。
 ていうか、実際自分がそういう立場になってみると……結構ヘコむな。
 自分に子どもでもいればまだ捉え方は違うだろうが……まだ24だぞ? 俺。
 大きくため息をついて足早にその場をあとにすると、涼が慌てたように追いかけてきた。
 何やらいろいろと励ましてくれて……というよりは、ものすごく馬鹿にされているような気がする。
 ……ちくしょう。
 あの子になんの罪もないのはわかっているが、やっぱりどうしたってショックはショックなわけで。
 もう、家に帰って…………もしくは、羽織ちゃんに会って慰めてもらいたい気分だ。
 ……しかし、このことを彼女が知れば……笑うよな、やっぱり。
 思い浮かべると当然のように、また重くため息が漏れた。


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