「兄貴、まだヘコんでんの?」
「……別に」
「ま、気持ちはわからないでもないけどねー」
 昼どきになって、モールから少し離れたファミレスへと場所を変えたものの、どうしても先ほどの件が尾を引いていた。
 ……それも、結構激しく。
 食べ終わった皿をテーブルの端にやりながら、氷が溶けてしまったアイスティーのグラスを見つめていると、スマフォが鳴った。
 途端に身体が動き、通話ボタンを押す。
「もしもし」
 意外そうな顔で目の前にいる涼は放っておくことにして、今は電話だけに集中。
 なんと言っても、聞こえてきたのが――……今1番会いたい人物だったから。
『もしもし? ……今、平気ですか?』
「もちろん。どうした?」
 人間、気の持ちようで左右される生き物だと心底思う。
 どれだけヘコんでいても、こうして彼女の声を聞くことができれば――……たとえ、スマフォであろうとも彼女と触れることができれば、それだけで十分嫌な気分が払拭されるから。
『田代先生が帰ってきたから、そろそろ帰ろうと思ってたんですけど……先生、今家にいます?』
「あ、いや。でも、すぐ帰れるけど……」
『え? あ、じゃあ誰かと一緒なんですか? それなら、別に――』
「いるのは、涼だよ。だから、すぐ迎え行く。……どこ?」
 向かいから小さく『えぇ?』という声が聞こえたような気もするが、あえて気にしない。
 ……自分の身内と一緒にいても面白くないし。
 つーか、たとえ兄弟だろうと彼女のほうが大事。
 視線を外したままで会話を続け、彼女がこれから純也さんのマンションを出るところだと聞きだしてから伝票を手にすると、涼も慌ててあとをついてきた。
「わかった。それじゃ、すぐ行くから」
 スマフォを切ってから清算を済ませ、とっとと外へ向かう。
 鍵を――……ああ、そういや涼が持ってたのか。
 車に向かいながら振り返ると、『当然俺が運転』という顔の涼。
 ……仕方ないヤツ。
「なるべく飛ばさずに、急げ」
「えー? なんだよ、その無茶な命令は」
 助手席にもたれながら呟くと、苦笑を浮かべて涼がエンジンをかけた。
「いいから。急げよ?」
「はいはい」
 自分がするように、助手席のシートへ手をかけながらバックして車を出す姿を見ながら、なんとも言えない気持ちになる。
 ……人に……つーか、男に手を当てられることほど嫌なものはないな。
「……なんだ、あっちから出ないのか?」
「こういうときは、脇道が早いんだよ。こっちなら、信号ないし」
 大通りへ出られる出口ではなく、小道を走る出口を選んだ涼。
 ……でも。
「……お前、こういう細い道通るなよ」
「なんで? あー、何? もしかして、俺がぶつける心配でもしてるわけ? 馬鹿だなぁー、俺がそんなことするわけないじゃん」
 けらけら笑う涼に、余計不安が大きくなる。
 ……嫌な予感。
 これでも、俺のこういう勘は昔から外れたことがない。
 いわゆる、第六感。
 それは優れているという自負があった。
 ……あ。
「お前、そこ気をつけろよ。針金が――」
「え?」

 ガッキン

「……………あ」
「な……!!」
 ガリガリガリ……パキンッ
「……折れたねぇ」
「お……折れた、だァ……?」
「いや、あの……あ、兄貴? なんつーか、今のはさ。えっと……不可抗力っつーか……」
「不可抗力? コレが? ふ……ざけんな……!!」
「うわ!?」
 ふつふつと湧き上がる、怒り。
 ……そりゃそうだろ。
 目の前で。
 助手席の俺でさえ気付く、切れて道に出ているフェンスの針金。
 それを、よりにもよって……俺の車に……だぞ?
「ぐぇっ!?」
「降りろ」
「……あ……兄貴……?」
「降りろ。今すぐ」
 サイドブレーキを引いて車を止め、ベルトを外す。
「あ、ちょっ……う、祐恭さん!?」
 ……最悪。
 これまで、傷つけるどころか、なるべく段差のある場所も通らなかったのに。
 俺がどんだけ、これを大事に乗ってきたか……ッ……!!
「ッわかってねぇだろ、お前ッ!!」
「ごめんなさいーーーっ!?」
 助手席の窓を叩いて中に声を張り上げると、今にも殺されるんじゃないかという表情で涼が飛び降りてきた。
「……最悪。絶対許さないからなお前」
「…………ご、ごめんって……」
 入れ替わるように運転席へ座り、窓を開けてそこから傷口を見てみる。
 ……うわ……っ。
 ヤバい。
 ……泣きそう。
 よりにもよって……なんで針金引っかけるんだよ……この馬鹿は!
 痛いくらいに針金が突き刺さって、えぐられたドア。
 塗料が激しく付いているのを見ると、実際もっと酷いのかも……。
 今日は祝日。
 恐らく、整備工場は開いていない。
 となると、手元に戻ってくるのは早くても2日かかるわけで――……。
「お前のセリカ置いていけ」
「うぇ!? なん――」
「……置いてけ」
「…………はぃ……」
 ヘコむ。
 なんつーか、ものすごく。
 ……俺の車なのに……。
 これまで、ものすごく大事に乗ってきたのに…………っ。
 ちくしょう。
 やっぱり、涼なんかの電話を取るんじゃなかった。
 このとき改めて激しく後悔したのは、言うまでもない。

「うへー……。派手にやったなぁ、お前」
「……俺じゃない。コイツだよコイツ」
「…………ごめんって……」
 彼女を純也さんのマンションで拾ってから向かった先は、大学時代の同級生である光が店長補佐を務める、カー用品専門店。
 無論、ここで修理をしてもらうことはできないのだが、紹介してもらうつもりだった。
 どこか祝日でもやっている整備工場がないか、と思った……んだが……。
「……さすがに、今日やってるトコはねぇな……」
「やっぱり……」
 取引先の台帳を見ながらの言葉に、思わずボンネットへうなだれるほかなかった。
 ……ちくしょう。
「明日頼んで……んで、まぁ……明後日……そうだなー、早くて日曜ってトコか」
「……そっか」
「どうする? 置いてくか?」
「ああ。こんな状態じゃ乗れないし」
「じゃあ、俺が持ってくよ」
「悪いな」
「おー」
 キーを光に預けながらも、出るのはため息ばかり。
「……お前が持てよ、修理代」
「うぐ。……わかってるよ」
「ったく」
 セリカのキーを受け取りながら涼を睨むと、一瞬ひるみながらも渋々とうなずいた。
 まだ明日も学校あるってのに……。
 ホント勘弁してほしい。
「じゃあ、光。悪いけど、頼む」
「ああ。多分、ドア1枚塗りなおすことになると思うけど……いいよな?」
「もちろん。キレイに直してくれよ」
「わかってるよ」
 セリカの運転席に乗り込んで窓を開け、光に苦笑を浮かべる。
 ……しかしながら。
 光が俺の車に向ける痛々しい視線からは、やっぱり重症なんだよなぁと実感するわけで。
 ……切ない。
 あいさつを交わしてそのまま冬瀬駅に向かい、涼を下ろす。
 どうせこいつは大学までのバスがあるんだし、不自由ないだろ。
「じゃあ、またねー」
「それじゃあ」
 ……涼のヤツ……にこやかにあいさつなんてしやがって。
 俺の身にもなってみろ。
 最後にキッと睨んでからロータリーを回り、一路家へと向けて車を走らせる。
 昔乗っていた車とはいえ、やはり現在のオーナーが違えばまったく違う車になる。
 ……だいたい、青林檎だかなんだか知らないが、匂いがキツいんだよ。
 俺は車に芳香剤を載せないからこそ、余計にキツい気分だ。
 ……捨てたい。
 たとえ2日とはいえ乗ることになる、この車。
 だからこそ、やっぱりこの匂いに始終包まれるのは嫌だ。
 せっかく彼女と会えたにも関わらず、どーにもこーにもテンションは低い。
 マンションの駐車場へ乗り入れるも、いつもここにあるはずの赤いRX-8が、今日は黒のセリカなわけで。
 ……やっぱ、見慣れないよな。
 早く帰ってきてほしい。
 そんな思いで、いっぱいだった。
「大丈夫ですか……?」
「……あんまり」
 エレベーターに乗り込んでボタンを押すとき、不安そうな顔を彼女が見せた。
「今日は朝からいろいろありすぎてさ……」
 壁にもたれるようにしていると、珍しく彼女が手を取ってくれる。
 それで、思わず瞳が向いた。
 まっすぐに見つめ返して、柔らかく微笑んでくれる彼女。
 ……あーもう。
「ありがと」
 わしわしと頭を撫でてその手を取ると、自然に笑みが漏れた。
 やっぱ……この子にはホント救われる。
 家の鍵を開けて中に入ると、ついそのまま抱きしめていた。
「せんせ……」
「……今日はもう最悪」
「そんなにいろいろあったんですか?」
「ん」
 正面から抱きなおして髪を撫でると、心地よく指を滑る。
 と同時に広がる、甘い香り。
 ……やっぱ、匂いは彼女に限る。
 もたれるように抱き寄せて身体を預けると、しっかり抱きとめてくれた。
 いろいろ、聞いてほしいこともある。
 話して、彼女に救ってほしいこともある。
 なんだが……。
「……慰めて」
「え……?」
「俺のこと」
「……先生のこと……を?」
 こくこくと黙ってうなずき、頬に手のひらを滑らせる。
 きょとんとした瞳が1度まばたきを見せてから、おずおずとした両手は肩へ。
 そのまま彼女の動向を見守っていると、わずかに頬を染めてから瞳を閉じた。
 キスだけでも、救われる。
 ……相変わらず、俺のことよくわかってるじゃないか。
 少しかがんで背を合わせ、そのまま――……。
「…………」
「……先生」
「…………わかってる」
 突然響いた、着うた。
 ……今度は誰だ。
 あとちょっとでキスできただけに、非常に不満。
 ポケットにねじこんでいたスマフォを取り出して画面を見る……と…………。
「……学校……?」
「え?」
 嫌な予感がする。
 おいおいおい。今日は祝日だぞ……。
 思わずため息を漏らしながら通話ボタンを押すと、申し訳なさそうな日永先生の声が聞こえてきた。


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