「おやすみ」
 ぷいっと彼女へ背を向け、肘を枕にして無理矢理に瞳を閉じる。
 こうでもしないと、手を出してしまいそうだったから。
 ……だと思う。
 こんな早い時間に眠れるはずもないが……まぁ、いたしかたない。
 ――……が、次の瞬間。
 背中へ温かい感触が当たった。
「……先生」
「っ……」
 思わず、鼓動が早くなる。
 ……勘弁してくれよ。
 このまま何事もなくすぎてほしい。
 そう思い、敢えて返事はしなかった。
 だが、絵里はなおも続ける。
「……あのさぁ、お願いがあるんだけど」
「…………なんだよ」
「あの……ね」
 いつもと違う雰囲気と声色でつい返事をしてしまい、鼓動が早くなった。
 言ってほしくない言葉が出てきそうで、正直怖かったのに。
「キスしてほしいんだけど」
「…………」
 自分が想像していたことよりも柔らかかったせいか、力が抜けた。
 抱いてほしいとでも言うんじゃないかと思っていただけに、その願いが軽く感じる。
「さっきしただろ?」
「そうじゃなくて!」
 ため息混じりに呟くと、ぐいっと肩を引っ張られた。
 と同時に、横になったまま俺を見ている彼女と目が合う。
 スタンドの光を受けた瞳は、どこか女を感じさせるものだった。
 ……だからこそ、つい視線が外れる。
「……キスしてくれたら……先生のこと忘れるから」
 定番といえば、定番のうたい文句。
 ため息をついてから彼女を見ると、何か決めているような芯の強い表情をしていた。
「……キスされれば、簡単に忘れられるような気持ちなのかよ」
「それはっ……。けど、努力する」
「……はぁ」
 強い眼差しに瞳を閉じると、きゅっとTシャツを握り締めてきた。
 だけじゃない。
 俺の顔を覗きこむように、彼女の身体が上にくる。
「……お願い」
 眉を寄せて小さく呟いた彼女に視線を合わせると、思いつめたように瞳を揺らした。
 キスで済むのなら。
 彼女がそれで思いを断ち切れるなら。
 ……などと、思うことはできなかった。
 だが、その真剣な顔に、つい手が伸びる。
 単に望みを叶えるため、ではない。
 自らの欲求……だったんだと思う。
「…………」
 そっと頬に手のひらを這わせて、顔を寄せる。
 不安げに見つめる瞳。
 そこから逃れるように瞳を閉じ、気付くと唇を重ねていた。
 柔らかい感触。
 何も知らない……そして、自分とのキスしか知らない唇。
 水族館で交わした触れるようなものとは違い、唇を味わうようにしっかりと口づけてから顔を離してやる。
「……は……ぁ」
 これで済ませられる――……なんて、簡単なモンじゃない。
 キスをすれば、どうしたってその次が欲しくなる。
 相手が、惚れた女ならば尚さらに。
「っ……」
 頬へ唇を滑らせて、そのまま耳元に寄せる。
 それだけで、ぴくっと身体を震わせて息を呑んだ。
「……簡単にキスしてとか言うなよ」
「け……どっ」
「………相手が俺じゃなかったら、とっくに食われてたぞ」
 わざと息がかかるように囁くと、そのたびにシャツを握る手が小さく震える。
 頬に当てていた手を髪に滑らせてすくうようにすれば、こくんとうなずくのが見えた。
「……先生なら……いいもん」
 思わず、喉が鳴った。
 ……あーもー、だから。
「簡単にそんなことを言うな」
「……本気」
 震える声で呟いたかと思うと、ぐいっと肩を押して瞳を合わせてきた。
 わずかに染まった頬。
 そして、濡れた瞳。
 明らかに、腕の中にいるのはひとりの女だった。
 16歳とは思えない彼女の容貌もあるのだが、ある種の妖艶な感じを覚える。
「はぁ……。ったく」
「っ!?」
 そのまま彼女を抱きしめると、一瞬身体を強張らせた。
 触れられるだけでこれなのに、簡単に許すなっつーの。
「お前のことは好きだけど、あと先考えずにそうやって安易に口走るところは直せよな」
「……え……?」
「いっつも冷静なクセして、ときどきダメだし。そんなんじゃ人に簡単に騙されるぞ?」
「ちょ……ちょっと待ってよ!」
 ため息混じりに続けていると、彼女が肩を押して瞳を覗き込んだ。
 少し怪訝そうだが、いつもと同じ。
 ……少し安心する。
「今……好きとか言った……?」
「気のせいだろ?」
「うそっ! ねぇ、ちょっと! ……ちゃんとっ……言ってよ」
 ぶんぶんと首を振って語尾をしぼめ、きゅっと唇を結ぶ。
 そんな彼女に小さく笑いながらかたちのいい唇をなぞると、くすぐったそうにうっすらと開いた。
「……好きだ」
「…………ホント……?」
「ああ」
「ぃやったぁーー!!!」
「うっわ!?」
 いきなり抱きつかれてバランスを崩すと、そのまま逆にのしかかられた。
 ……これは……結構なんか、カッコ悪いぞ。
「ホントにホントね? 絶対!?」
「しつこいな、お前……。ホントだよ」
 苦笑交じりにうなずくのを見てから、彼女が心底嬉しそうに笑った。
 その顔に、ついこちらも顔が緩む。
 ――……と思ったのも束の間。
「ホントはさー、先生って最初から私のこと好きだったんじゃないの?」
 とんでもないことを言い出した。
「……は?」
「ね。絶対そうだよー。でしょ?」
「……んなワケあるか!」
 はん、と顔をそむけて笑うものの、まぁそう言われれば……そうだったのかもなぁ、と少し思う。
 新入生代表のあいさつをしたときから、目で追っていたのは事実だし。
 ……って、そんなことを言ったらつけあがるに決まってるから、言わないでおくが。
「ウソー。絶対そうだよー。でしょでしょ?」
「……かもな」
「……え……ホントに?」
 驚いたように瞳を丸くして頬を染めた絵里に視線を戻すと、目を見張った。
「ウソ」
「んなっ……!? こっ……!」
「俺がそんな簡単に堕ちるかよ。ぶぁーか」
「っく……!! このぉーっ!!」
「うわ!? ちょ、馬鹿! 皆瀬、やめろって!!」
「てぇーい!! 消えてしまえぇー」
「ぐえっ! くるしっ……!!」
 ぎりぎりと首を絞められてたまらず彼女を押しのけ、そのままクセで押し倒してしまう。
「ったく! 馬鹿かお前は! 俺を殺す気か!」
「……っ……だって」
 …………は。
 近い。
 距離が……ものすごく。
「……あ……」
 しまった。
 せっかく、あの妙な雰囲気から抜け出たと思ったのに。
 組み敷いている格好なので、鼻先がつくほど。
 頬を染めて視線を逸らした彼女を見ていたら、その、なんつーか……。
「っ……悪い」
 慌てて手を離し、吐くのを忘れていたように息をつく。
 ……あーもー。
 こればっかりはクセなんだよな。
 やられたら反射的に身体が動く。
 だからこそ、こういった状況になってしまったわけで。
「……っ! 皆瀬……」
 だが、次の瞬間。
 小さな手のひらを震えさせたまま頬に当て……彼女が口づけをしてきた。
 思わず瞳を丸くして彼女を見ると、瞳を閉じて再び。
 柔らかい感触に思わずまぶたを閉じると、自然に手が伸びていた。
「……ん……」
 そっと唇を開かせ、舌でなぞる。
 向き合っているときのような威勢のいい声とは違い、やけに甘い声が漏れた。
 ……ヤバい。
 心底、焦る。
「え……? せ、んせ……?」
「……おやすみ」
「ちょっ……! な、んで?」
 彼女を離してベッドから立ち上がると、急にその手を取られた。
 不安げに、揺れる瞳。
 ……あーもー。
「……どーなってもいいのかよ」
「…………どうなるって……どう、なるの?」
「だから。俺だって、余裕ないんだよ!」
「だって! 私はっ……それでもいいって……」
「もっと自分を大事にしろ!」
「っ……先生だから言ってるんでしょ! 馬鹿!!」
「わ!?」
 ぼふっと枕を投げつけられてよろけると、タオルケットへくるまりながら彼女が背を向けた。
 ……ったく、何拗ねてんだか。
 わけがわからん。
 隣へ腰を下ろし、ため息をついてから彼女の髪に手を伸ばす。
 さらりと指を通る髪。
 だが、一向にこちらを振り返ってくれそうにはなかった。
「皆瀬」
「知らないっ! ……このわからずや!!」
 相変わらず威勢だけはいい。
 ……ったく、しょーがねーな。
「っ……!」
「……何怒ってんだよ」
 後ろ向きに抱きしめてやると、一瞬身体を強張らせてから軽く俯いた。
「……どうしてほしいんだよ」
「…………ちゃんと……してよ」
「お前は……どこで覚えたんだそんな言葉」
「最近の女の子は、詳しいって知らないの?」
「知るかっ!」
 くるっと振り返った彼女に瞳を細めると、首に腕を回された。
 耳にかかる、吐息。
 ……俺もダメかも。
 思わず息をついて彼女の髪を撫でると、息を吐いてから囁いた。


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