「絵里、ちょっと付き合ってくれないかなぁ?」
「は?」
 昼休み。
 羽織が顔を覗き込むようにして、くりっとした瞳を見せた。
「どこへ? トイレ?」
「えへへー」
 りんごジュースを飲みながら彼女を見ると、にまっと笑ったまま手を引く。
「ちょっと。どこ行くのよー」
「いいからっ」
 ストローをくわえたまま羽織のあとをついていく格好で歩き出すと、そのまま渡り廊下を通って――……。
「いーやーだ」
「どうして?」
「どうしてじゃないわよ。……行き先が準備室なんて聞いてない」
「言ってないもん」
「っ……アンタね」
 しれっとした顔で羽織が呟き、そのまま有無を言わさずに手を引いた。
 ……だからもー。
「純也とは仲直りするわよ。……そのうち」
「そのうちじゃダメなのっ。寂しいクセしてー」
「ぶっ。は、羽織ッ!」
「失礼しまーす」
「ちょっと!?」
 ジュースをふき出しかけて羽織を睨むものの、とっとと背を向けて準備室のノブを回してしまった。
 ……くぅー。
 まだ何も考えてないのに。
 仕方なしに、手を引かれるまま羽織のあとをついていくと、見慣れた机が視界に入る。
 ……はぁー。
 もちろん、見えたのは机だけじゃないからため息が漏れた。
「あれ。……先生、眼鏡じゃないの?」
「ん?」
 なんかへんだなーと思って声をかけると、いつも眼鏡のはずの祐恭先生がやっぱり珍しく眼鏡をしてなかった。
 ――……ものの。
 瞳を細めて、頬杖をつく。
「どこかの誰かさんが、人のフレームねじ曲げてくれたんだよ」
「……ぅ」
「高かったんだよなー、あの眼鏡。弁償してくれるのかなー」
「そ、それはその……」
 じぃっと向けられた視線はこちらなんだけど、明らかに言葉の矛先は羽織なわけで。
 ふたりのやり取りが、少しおかしかった。
「……あ」
 そんな祐恭先生を見ていて、あることを思い出した。
 多分、間違いない……はず。
「先生、2年前に女子高生と見合いする予定あったでしょ」
「えぇ!?」
「はぁ!?」
 ……あれ?
 羽織が驚くのはわかるんだけど……彼まで驚くのは、ちょっと予想外。
 相変わらず黙々と弁当を食べている純也以外は、しっかり私の言葉に反応を見せた。
「見合い……って、しかも女子高生と?」
「うん。16歳の、絵里ちゃんと」
「……絵里って……」
「だから、私」
「「ええッ!?」」
 ぱくぱくと同じようなリアクションを取る羽織と祐恭先生を見ていたら、純也が箸をくわえたまま顔を上げた。
「……あー、アレって祐恭君だったのか」
「じ……純也さんも知ってるんですか!?」
「うん。絵里に当時聞いたから」
 驚いた祐恭先生に苦笑を浮かべてから、ちろっと瞳を細めてこちらを見る。
 ……何よ、その顔は。
「祐恭君、断って正解だよなー。こんなガラの悪い娘、大変だぞ?」
「んなっ……!?」
「牛乳ごときで朝っぱらから腹立てやがってよー。ガキにもほどがある、っつーの」
「っく……何よそれっ!! 大体ねぇ、あのとき純也が迎えに来たから断ったんでしょ!?」
「人のせいにすんな! ったく、朝からつまんねーことでキレられる身にもなってみろ!」
「何よ!」
「なんだよ!?」
 キッと純也を睨んで対峙すると、慌てて羽織が間に入った。
「どきなさい、羽織ッ」
「ち、ちょっと待って! もぅ! 田代先生もですよっ!」
「でもね、羽織ちゃん!!」
 バチバチと火花を飛ばしたまま羽織に押さえられたものの、腹の虫がおさまるはずはない。
 っくぅー!! 悔しい! この馬鹿!
「今日はもう帰らないからね!」
「勝手にすればいいだろ」
「あっそう。いいのね。ホントにいいのね?」
「ああ、どーぞお好きに。どこでも好きにしてくれ」
「ふーん。………実家に帰ってやる」
「っ……」
 ぴたり。
 実家という言葉を口にした、純也の顔色が変わった。
 それも、そのはず。
 私が見合いを断った理由が彼ということを両親に言ったため、もちろんながらいろいろと言われたわけで。
 確かに、現在両親は家にいないけれど、祖母がいる。
 あの見合いをセッティングした、張本人が。
「……いや、だからそれは――」
「純也が勝手にしろって言ったんでしょ」
「けど、だなぁ……」
「羽織もウチにきなさい」
「……わ……私?」
「そ。先生の見合い写真見せてあげる」
「ホント? 行くー」
「ちょっ……こら!」
 嬉しそうな顔を見せた羽織と私の間に割って入ったのは、もちろん祐恭先生本人。
 ……この慌てっぷりからするに、当時の写真は相当見せたくないみたいね。
 そうなると、やりたくなるのが性分というもの。
 にやっと意地悪く彼に笑うと、ひきつった笑みを見せた。
「成人式のー誰かさんのしゃしーんに、おばーさまー。……フ。ふたりとも、私が弱み握ってること、忘れないでね」
「……く……」
「脅迫かよ……」
 ひらひらと手を振って羽織の手を取ってから、そのままふたりに背を向ける。
 だけど、なぜかそれで1番慌てたのは羽織だった。
「ち、ちょっと、絵里!」
「だから、純也とは仲直りしないわよ」
「でもっ!」
「……おい、絵里」
 ぼそぼそと話していると、急に純也が声をかけてきた。
 瞳を細めてそちらを見ると、大きくため息をついて机に寄りかかりながら視線を合わせてくる。
「南ヶ丘牧場」
 ぴく。
「あそこの牛乳、誰かさん好きだったよなー」
「……それは……」
「千本松とかなー」
「う……」
 にやにやと顎に手を当てて意地悪っぽい笑みを浮かべた純也に、思わず声が漏れる。
 ……うー……。
 何よ、あんた。
 そっちのほうが、よっぽど脅迫じゃないの。
「……わかったわよ。買ってくれるなら、帰ってあげてもいいわ」
「わかればいいんだよ、わかれば」
「何がよ!」
 ふんっ、とやたら偉そうに鼻で笑った純也を軽く睨むと、ふっと笑みを見せた。
 っ……だからその顔、ずるくない? いつも思うんだけど。
 顔赤くなるから、ホントにやめて。
「授業遅れるぞ」
「……わかってるわよ」
 ……悔しい。
 けど、やっぱり、こう……あの笑みを浮かべられると、正直弱い。
 純也には私が本気で怒ってるかどうかが、すぐにバレてしまう。
 それは都合よくもあるけど……やっぱり、都合悪いかな。
 ……まぁ、いいけど。
 しょうがない、のよね。
 この男を好きになっちゃったんだから。
「……絵里?」
「っ……」
 しばらく黙ったままうつむいていると、純也が顔を覗き込むように首を傾げた。
 ……くぅー……。
「……馬鹿」
「なんとでも言え」
 わしわしと頭を撫でられ、しまいには何も言えなくなってしまう。
 しかも、少し離れたところでは、羽織と祐恭先生が楽しそうに顔を見合わせて笑ってるし。
 ……もぉ。
「ちゃんと買ってよね」
「はいはい」
「……約束破ったら、絶交」
「お前はどこの子どもだ」
 おかしそうに笑う顔も、意地悪っぽい笑みも、呆れたように細める瞳も。
 ……やっぱり、好き。
 うー、悔しい。
 大体、純也はわかってるのかしら。
 人がこれだけ想ってやってるってこと。
「…………」
「……なんだよ」
 じぃーっと見つめていると、眉を寄せて怪訝そうな顔をしてから、そっぽを向いた。
 ……だから、思わず笑みがこぼれる。
 この顔は、彼が照れたときに見せる顔だから。
「……別に?」
「ったく」
 ごほごほと咳き払いしながら机に戻り、椅子へ深く腰かける。
 そんな彼を見ていたら、少しおかしくなった。
 ……まぁ、いいか。
 いざとなったら、私のほうが強いんだし。
「羽織。行くよ」
「あ、うん」
 にやにやと笑っていた彼女に笑みを見せて準備室をあとにすると、窓の外には秋の空が広がっていた。
 秋、か。
 また純也引っ張って水族館行こうかな。
 そういえば、リニューアルしたらしいし。
「んー……我ながら、がんばりました」
「もー。しょうがないなぁ」
 伸びを見せると、羽織がおかしそうに笑う。
 そんな彼女にこちらも笑みを返してから、のんびりと教室に戻ることにした。
 なんだかんだ言っても、彼以外は考えられない。
 惚れた弱み……なのかしらね、これが。
 珍しくそんなことが頭に浮かび、思わず苦笑が漏れた。
「あ、そうそう。今度持ってきてあげようか?」
「え?」
「先生の、秘蔵写真」
「……ホント?」
「絵里ちゃん、ウソつかなーい」
「…………お願いします」
「うむ。クリームコロッケひとつでお譲りしよう」
「やったぁ」
 こそこそと呟いて嬉しそうに笑った羽織にうなずくと、やっぱりかわいい顔を見せた。
 ……ふ。
 見てなさい、祐恭先生。
 あなたの昔の姿、この彼女にもしっかりと(さら)しておくから。
 いっつも不思議なんだけど、どうしてこういうときって無条件で楽しくなるのかしらね。
 人間って、ホント正直な生き物だわ。


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