「……あ、おはようございます」
「おはよ。……寒いね。今日も」
「ですねー」
 白い息が、宙へ溶けた。
 それを見てから彼を見ると、同じように白い息を見つめてからにっこり微笑む。
 ……なんだか、いつもと違うみたい。
 思わず、彼を見ながらくすくすと笑いが漏れた。
 だって、まさかこんなのんびりした会話をするなんて……正直思わなかったから。
 …………。
 って、そうでもないか。
 多分……ううん。
 彼とならば間違いなく、そんな会話をしていると思う。
 きっと――……誰かに無理矢理つっこまれて、切り上げさせられるまでは。
「ちょっと」
 そんなことを考えていたからか、彼の後ろから鋭い声が飛んできた。
「あ。おはよ、絵里」
「おはよ、じゃないわよ。……ったく」
 ひょっこりと顔を出した彼女は、なぜかわからないけれど、やたらと不機嫌そうだった。
 ……なんでだろ。
 理由がわからないけれど、でも、表情からして間違いなくそうだとわかる。
 …………。
 ……あ。
 もしかしてまた……いや、あの……ま、『また』なんて言い方はものすごく失礼かもしれないんだけど。
 でも、もしかしたら『また』喧嘩したのかもしれない。
「……ごめんね、羽織ちゃん」
「あ、いえ。とんでもないです」
 ――……今の今までのんびりした会話を繰り広げていた、田代先生その人と。

 きっかけは、なんだっただろう。
 確か――……あぁ、うん。
 たぶん、絵里からの電話だったんじゃないかな。
 …………うーん。
 それとも、テレビ番組……?
 とにかく、思い当たる節が多すぎて、実は特定できないというのが正直なところ。
 ……でも。
 もしかしたら、それが正解なのかもしれない。
 いろいろなことが積み重なって絡んだせいで、要因として成り立っているような気がしないでもないから。
 …………で。
 ともかく、最初に戻るとすると……そう。
 1番最初に起きた出来事は、絵里からの電話だった。

 『羽織って、ブリとか下ろせる?』

 一瞬、何かの聞き間違いかと思った。
 ……だって、ブリだよ? ブリ。
 “魚”ヘンに、師匠の“師”。
 …………。
 ……なんか、そう考えるとすごい名前だよね。
 由来までは詳しくわからないけれど……でも、誰だって電話口でいきなりそんなことを言われたら、結構びっくりすると思うよ?
 しかも、私にしてみれば起きぬけの電話で。
 ……正直言って、絵里がなんのことを言ってるか理解するまで少し時間がかかった。
 …………そ……それはあの……まぁ、確かに、もっと早く起きればいいだけの話なんだけれど。
 それにしたって、同じ受験を控えた立場の友達から持ちかけられる相談じゃないとは思う。
 だいたい、絵里が丸ごと1匹魚を貰うなんてこと、これまで1度もなかったし、何よりもあんまり耳にしないじゃない?
 『貰っちゃって困ってる』なんて。
 スーパーでさえ、なかなか鰤が丸ごと売られてるの見たことないのに。
 いったいどんな確率で引き当てたんだろう。
 正直言って、鰤をお刺身にできるかどうか以前に、いったいどこからそれを手に入れたかばかりが気になっていた。
 ……だけど。
「……ごめん、無理だよ」
 当然、首を振りながら否定する。
 だって私、そんなに大きな魚はさすがに下ろしたことないもん。
 せいぜい、アジとかサバとか……その辺まで。
 それに、鰤ってすごく大きいじゃない?
 お寿司屋さんで1匹丸々まな板に乗ってるのを見たことがあるけれど、本当に大きかったもん。
 だけど絵里は、やっぱりそのまま『わかった』と終わりにしてはくれなかった。
『うっそ! ねぇ、大丈夫だって! 羽織ならできるから、ちょっとウチまで来て?』
「えぇ……!? いや、あの……あのね? ホントに、無理だってば! だって、そんな大きい包丁もないし……」
『大丈夫よ! 包丁なんて普通の包丁でも、多分できるから! 羽織なら!』
「できないってば、そんなぁ! 無理だよ!」
 ……かれこれ、そんな会話を5分以上繰り広げていたんじゃないだろうか。
 結局は、折れてくれない上にこの先も折れそうにない絵里に根負けして、『今から行く』羽目になって。
 ……でも、無理なのに……。
 絵里がどれだけ私を買いかぶってくれてるのかはわからないけれど、どうにもならないことのほうが多いんだけどなぁ。
「…………はあ」
 電話を切ったあとで漏れるのは、まさにため息。
 ベッドの上でそんな会話を繰り広げた私は、当然約束した以上行かないわけにはいかない。
「……困ったなぁ」
 着替えが終わるまでに何度その言葉を口にしたか、正直わからなかった。

「で、これなんだけど……」
 そんなやりとりから、まだ1時間も経っていない現在。
 促されるまま田代先生の家のキッチンに向かうと、そこのまな板の上には、どーんと何かが乗っていた。
「……絵里」
「ん?」

「……ちゃんと下ろしてあるじゃない」

 遠目からでも、よくわかるそれ。
 内心、いったいどんな代物があるのかとどきどきしていたんだけれど、拍子抜けだ。
 だって、ここにあるのは紛れもなく、下ろされている鰤の切り身で。
 大きさからして、多分……半身の4分の1くらいかなぁ。
 皮が付いてはいるけれど、魚の原形は留めていなかった。
「えぇ? でもほら、ここに骨とか付いてるじゃない」
「あー……うん。でもこれは、普通に包丁で切れば――」
「切れないんだってば!」
「……そう?」
「そーよ!!」
 なぜ、こうも語気が荒いのか。
 それはわからないけれど、鰤を見下ろし、ダンダンと作業台を叩く彼女。
 でも、多分怒ってるんだろうなってことはわかる。
 よく見てみると、鰤のそばには1本の包丁が置かれていた。
 ……う……うーん。
 見るからにそれは“菜切り包丁”なんだけど、あっちこっちに鰤の身らしい肉片が付いている。
 …………。
 ……ということは。
 この包丁と絵里の苛立ちようとを総合的に考えると――………実際に手は出してみたんだけれど、どうにもならなかった……みたいな感じなのかな。
 ならば、うなずける。
 きっと、田代先生が困ってるのを見た絵里が、先にありったけの包丁で(さば)きにかかったんだろうな。
 ……でも、菜切り包丁じゃちょっと……無理だとは思うけれど。
「実はさ、それ……ウチの親父が持って来たんだよ」
「え? そうなんですか?」
「うん」
 まるで敵を見るみたいな目で切り身を見ていた絵里をよそに、田代先生が苦笑を浮かべた。
 どうやら、田代先生のお父さんが、知り合いの人と釣りに出かけて釣ってきたらしい。
 ……で、新鮮だからこそ、捌いたそのままの状態で持って来てくれた……と。
「刺身にしろって言われたんだけどさ、いくららやっても皮がうまく剥がせなくて」
「……なるほど」
「そんで、せっかくの休みで申し訳ないんだけど……羽織ちゃんに、ね」
 シンクにもたれながらため息をついた彼が、ふっと視線を絵里へ向けた。
 つられて私もそちらへ向く――……と。
「くっ……このまま食べたい気分だわ……!」
 ぼそりと、なんだか荒っぽい言葉が聞こえた。
「え……ええと、それじゃ、あの……出刃包丁があったら、お借りしたいんですけれど」
「あ。……あー……でもどうかな。ちょっと錆びてるかも……」
「あっ、大丈夫です。砥ぎますから」
 このままだと、素手のままかぶりつきかねない。
 そんなただならぬオーラを感じ取ると同時に、思わず手を挙げていた。
 1匹丸々はさすがに捌けないけれど、この大きさなら多分……な……なんとかなるんじゃないかな。
 基本的に1度か2度しかお刺身なんて作ったことないけど、でも……絵里に皮ごと噛み付かせるわけにはいかない。
「キッチン、お借りしますね」
 出してくれた出刃包丁を握り締め、いざまな板へと向かう。
 するとそのとき、すぐ隣にいた絵里も大きくうなずいたように見えた。


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