「んんー、おいひー!」
 お皿を囲んでの、一服。
 こたつに入ったままぬくぬくと味わっていた絵里の第一声が、それだった。
「よかった」
 にっこりと笑顔を見せた彼女に、ようやく胸を撫で下ろす。
 ……ほ。
 ちゃんとお刺身にできてよかった。
 そして――……。
「……お前食いすぎ」
「うるさいわね。私だってがんばったんだから、その労に値する稼ぎは貰うのが筋よ!」
「あはは」
 絵里の機嫌が直って、本当によかった。
 しっしと田代先生の箸を手で追い払いながら鰤をつまむ絵里を見て、苦笑が浮かぶ。
 じぃーっと絵里に見張られたまま、それこそ1ミリのミスも許されないような状況の中で、なんとか皮を剥いで身だけにできた。
 あとは、普通の牛刀とかでも下ろせるから、包丁を変えてもう1。
 ……なんてことを繰り返していたら、まな板の真横で見守っていた絵里がぽつりと呟いた。

「……あー……。あの包丁じゃダメなのね」

 なるほど、と付け加えた彼女に、うんうんとうなずく。
 ……が、しかし。
 ふっと小さく笑った田代先生が『それだけの問題じゃないだろ』と言い放った瞬間、また事態はちょっと変わった方向へ曲がっちゃったんだけど。
「やっぱ、お刺身は醤油に限るわね」
「……お前は付けすぎだ」
「何よ。いいでしょ? 別に。っていうか、いちいち人の食べ方に文句つけないでよ」
「文句のひとつも付けたくなるだろうが! それじゃ、醤油漬け食ってんのと同じだろ」
「なっ……んですって……!?」
「なんだよ!!」
 ……うわあぁあ……。
 な……なんでこんなことになっちゃうの……?
 っていうか、いつもはだいたい喧嘩“後”に遭遇するばかりで、まず、こんなふうに“now”の状態で鉢合わせしたことはない。
 だから、いつもいったいどんな理由で喧嘩になっちゃうんだろうと思ってたんだけど……うぅう。
 まさか、お醤油の付け方ひとつでも喧嘩になってしまうとは。
「っ……あっ! ええと、田代先生!」
「え……?」
「チャンネル変えてもいいですか?」
 どうしようどうしよう、と考え込んでから思いついた、ひとつの案。
 それは、とりあえずこの雰囲気をどうにかすべく、ふたりを1度離すこと。
「あ、いいよ。どうぞ」
「ありがとうございます」
 ひとまず、彼の手元にあったリモコンを貰うことで、一時的なものかもしれないけれど休戦状態を作り出してみる。
 ――……と。
「…………」
「…………」
 依然として一触即発の雰囲気は残っていたものの、ふたりのあの激しいやり取りが収まっていた。
 ……ほ。
 多少気まずい雰囲気はあるけれど、でも、きっと大丈夫。
 このままならば、なんとかなる。
 ……そう、このときの私は思っていた。
「……あ。コレか」
 チャンネルを変えた途端、田代先生が反応を見せた。
「先生も知ってます?」
「うん。割とよく見るよ」
 お茶碗を手にしたままの彼が、うなずいてからまたテレビへと向き直る。
 ……ほ。
 その顔には若干の笑みが浮かんでいたから、もう大丈夫だろう。
 そんなふうに思いながら絵里を見てみると、彼と同じようにテレビを向いていた。
 この番組は、街行く人に突然お題を出して、そのお題通りのメニューを作ってもらうという突撃料理番組。
 『えぇ!?』とか『おぉ!』という内容の料理が飛び出してくるからこそ、面白くもあり、参考にもなり。
 そんなわけで、私もこの曜日この時間にテレビを見ているときは、大抵これを見るのが習慣になっていた。
 ……何気に、先生とも一緒に見るし。
 でも、そのたびによく彼が言っているのが『俺も笑えないけどね』という意味深なセリフだった。
「…………」
「…………」
「…………」
 おかずをつまみながら、黙々とテレビを見る3人。
 今日は、先生が大学に用事があるということで、予定が丸っきり空いていた。
 だからこそ、のんびりとあんな時間まで家で寝てたんだけど……。
 でも、さっききた彼からのメールに、ここにいることを返信したから……もしかしたら、先生も来るつもりなのかもしれない。
 ちょうど、時間もいいころだしね。
「……ふ」
「……?」
 しばらく、その番組を見ていたときのことだった。
 不意に、田代先生がテレビから目を逸らして、お茶碗に残っていたご飯を食べ始めたのは。

「どっかの誰かと、いい勝負だな」

 ぽつり。
 その小さな短い彼のセリフは、私から見ても、間違いなく大きな地雷のスイッチを押したように見えた。
「……なんですって……?」
 ぴくり。
 低い低い声とともに、絵里の片眉が吊り上がる。
 でも田代先生はそんな絵里に気付いているのかいないのか、相変わらずご飯を黙々と食べながら口角を上げた。
「……別に。俺はホントのことを言ったまでだ」
 カチャン。
 彼が、きれいになったお茶碗にお箸を揃えて置いた。
「なんですって……? じゃあ、何? 私があの程度の料理をできないとでも言いたいの?」
 パシン!
 まっすぐに彼を見つめた絵里が、鋭い音を立ててお箸をテーブルに置く。
 ――……そんなふたりに挟まれる格好になっている、私はというと……。
「…………」
 どうにもこうにもいづらい状況で、どちらの顔も見れずに、ただただ俯くしかなかった。
「ほお? じゃあ何か? お前は、アレが作れるとでも言うのか?」
 ガタンッ
「当たり前でしょ……!? 馬鹿にしないでほしいわね!」
 ガタタンッ
「へー。そりゃ初耳だな。……んじゃ、実際に今から作ってもらおうじゃねぇか」
 パチッ
「いーわよ? ……ただし、完璧にできたときは、床に額を擦り付けて詫びなさいよね」
 パチパチパチッ
「は。でけぇ口叩くじゃねーか。いーだろう。……やってやる」
 ピカッ
「フン。あとで泣きを見るのはそっちだからね!」
 カッ! ゴロゴロゴロゴロ……。
「上等じゃねぇか……! そうなるのがどっちか、身をもって教えてやる!!」
 ピシャーン! ガラガラガラガラ……。
「………………」
 え……えっと、ええと……あの……。
 思わずお箸を置きながらふたりを見上げると、なんだかものすごく巨大に見えた。
 そんなふたりの頭上とバックには、暗雲がぐるぐると渦巻いて見える。
 ……あぁ……。
 なんかもう、どうしよう。
 こんな状況になってしまったのは間違いなく私のせいだし、何よりも……まさか自分自身がこんな場所に巻き込まれるだなんて。
 内心、『第三者がいれば喧嘩にはならないだろう』なんて踏んでいたのもある。
 ……でも、だからこそこんなことになるなんて予想だにしなかったわけで。
「……ッわ!?」
 帰るにも帰れず、もぞもぞと居場所を探していたら、いきなり、がしっと肩を掴まれた。
 ……しかも、片方だけじゃない。
 見ると、ふたりがそれぞれ相手をギッと見据えたままの状態ながらも、それぞれ片手で私の肩を掴んでいて。
 ………は……はわあぁあ……。
 どうすればいいの……!?
 困りに困って半分泣きそうな状態でい――……た、そのとき。
「……あっ……」
 突然、スマフォが鳴った。
 でもそれは、私のじゃなくて……田代先生の。
「……もしもし?」
 相変わらず絵里をまっすぐに見据えたままの彼は1度もそちらを見ずにスマフォに手を伸ばし、そのまま耳へと持って行った。
「え……?」
「……あ。着いた? ちょっと待って。今開けるから」
 一瞬、彼が私を見て笑った。
 思わず瞳を丸くしてまばたきをし、喋りながらキッチンへ向かって行った彼を目で追う。
 すると、インターフォンのところで、何かしているようだった。
「……あ」
 画面に映った、人。
 それは間違いなく――……ずっと、ずっと『早く!』と願っていたその人で。
「……先生だ……」
 思わず、安堵の表情とともに口にする。
 ……よかった。
 これでもう、ひとりきりじゃない。
 彼が一緒ならば、さすがにこれ以上ふたりの喧嘩がスパークすることもないだろう。
 …………そんなふうに、考えていた。
 単純、だったのかもしれない。
 でも、多分普通の考えだとは思ったんだけどな……。

 だけどこのすぐあと、今浮かべた笑顔がまた封印される羽目になるとは――……ちっとも思ってなかった。
 いったい、誰が想像できただろう。
 ……彼の来訪こそがまさに、風雲急を告げる事態の幕開けであったなどとは。


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