「でね……? あの、これがわからないんだけど……」
 迫りに迫った、試験前日の夜。
 私は当然のように、いまいちわからない部分を納得できるまで徹底的にやり直していた。
 幸いとも呼べることに、我が家には割と……助けてくれる人が多い。
 現役高校教師のお父さんはもちろん、ネイティブな英語と向こうで学んでいたドイツ語を話せる葉月。
 ――そして。
「っだーら、ちげーっつってんだろ! 馬鹿か!」
「………何もそんなふうに言わなくても……」
「なんべん説明したらわかンだ、お前。……はー。祐恭のヤツ、よっっっっっっっぽど気がなげーんだな」
「……うー……」
 根っからの文系であるはずなのにも関わらず、なぜか理系も強いお兄ちゃん。
「もう。たーくん、そんなふうに言わなくてもいいでしょう?」
「あのな。明日明後日が勝負なんだろ? 直前でテキトーに慰めたって、どうにもなんねぇだろ?」
「それは……そうかもしれないけれど」
 大げさにため息をついて肩をすくめながら化学の教科書をばしばし叩く彼を、私の右隣に座っている葉月がなだめるように助けてくれた。
 決戦の場は、リビングのこたつ。
 みんなで座っている様は、まるで年末年始のイベントのようにも見える。
「っはー。お前、本気で化学受ける気あんの?」
「うー……だから、あるってば……」
「だったら、マジで気合入れねぇといくらマークシートでも点数とれねーぞ」
「うぅう……わかってるってばぁ……」
「もう。たーくん、お願いだから『どうしたらいいか』を具体的に教えてあげて。羽織のモチベーションが少しでも上がるように」
「ンなもん、わかるまで解いて覚えるしかねーだろ。ほら。さっさとやれ」
「……はあぁあ……」
 うぅう。
 目の前で繰り広げられ続ける、“静か”という字からは最も縁遠い空間。
 そんな彼らに囲まれたまま、それでも私はやっぱり諦めることはできなかった。
 あがきと言われようとも、何と言われようとも。
 もがいてもなんでも、がむしゃらに掴みたいものがこの先にある以上は。
「たーくんも、何か飲む?」
「あー……コーヒー。ブラックでいい」
「ん、淹れてくるね」
「お前もなんか持ってこい。この先長ぇぞ」
「ふふ。みんな、羽織のために一所懸命だもんね」
「…………」
 お兄ちゃんと葉月のやり取りをぼーっと見たままでいたら、いつしか頬杖をついて、ため息が漏れた。
 ……先生、今ごろ何してるんだろう。
 今日は金曜日なので、いつもだったら今ごろは……一緒に過ごしているはずだった。
 一緒にごはんを食べて、一緒にテレビを見て、一緒に……。
「…………」
 どうしたって、意識は彼へと飛んでしまう。
 明日はもう試験本番で、今日の、この時間しか私には残されていないってわかっているのに。
 ……わかって……るのに。
「…………はぁ」
 彼と約束した。
 それに、彼がすごくすごく私のことももちろん……両親のことも大切に考えてくれているのがわかったからこそ、我侭は言えないし、言うつもりもない。
 …………会いたいって思うのは……我侭だよね。やっぱり。
 明日明後日と試験が行われるので、会えても、明後日の日曜の試験が終わってからが1番最短。
 ……でも。
 たとえ限られた時間だとしても、彼はちゃんと会ってくれる約束を私にくれた。
 そう。
 ちゃんと先生は、『終わったらウチにおいで』って言ってくれたから。
 だから――。
「……がんばらなきゃ」
 きゅ、とシャーペンを握り締めると同時に、軽くうなずいていた。
「んで、次。いいか?  これは……あ?」
 葉月との話が終わったらしくお兄ちゃんが改めて私に向き直った、そのとき。
 こんな時間にしては珍しく、家のチャイムが鳴った。
「あら、誰かしら。はいはーい」
 お母さんがインフターフォンへ向かってすぐ、玄関へ向かう。
 ……誰だろ。
 どうしたって、見える対象だから目がそちらを追う。
「ぁいたっ!」
「あのな。お前はこっちに集中しろよ。俺の時間割いてやってんだろ!」
「……うー……痛い……」
 じぃっとお母さんを視線で追っていたら、お兄ちゃんがいきなり教科書の角で頭を小突いた。
 痛い……すごい痛い。
 じんじんという鈍い痛みが頭に残っていて、思わずそこを手で押さえる。
 だけど彼はまったく気にもかけない様子で瞳を細めると、『こっち見ろ』と指でトントンテーブルを叩く。
 ……うー。
 これが実の兄?
 ……いや、実の兄だからこそこれが現実かもしれない。
 非道だよね、まさに。
 見た目だってガラが悪いし、素行も言動も当然粗野で乱暴で――。
「……え?」
「お客さんよ」
 お兄ちゃんを軽く睨みながら、叩かれた部分をしっかりと撫でていたとき。
 玄関から戻って来たお母さんが、やけに意味ありげな顔をして玄関を指差した。
 ……お客さん。
 しかも、私に。
 …………え、こんな時間に?
 時間が時間ということもあってか、このときの私は瞬時に『誰か』を思い浮かべられなかった。

「こんばんは」
「っ……せんせ……!?」
「ごめんね、こんな時間に。……ちょっと……どうしても、会いたくて」
「っ……」
 少しだけ申し訳なさそうに……だけど、ほんのちょっぴり照れたように。
 彼が笑ってくれた顔を見た瞬間、嬉しくて心の底からの笑みが浮かんだ。
「……嬉しい」
「え?」
「だって私も、会いたかったんだもん」
 ぽろりと本音が零れる。
 でも、これは仕方ないと思う。
 だって、本当に本当に嬉しくてたまらなかったんだから。
「実はさ……どうしても、渡したい物があったんだ」
 1度視線を外した彼が、少しだけもったいぶるかのように、ポケットへ手を入れた。
 渡したい……もの?
 それはもしかして、あのプリクラとは別の何かなのかな。
 それとも、何か彼の部屋へ置いてきてしまった……忘れ物?
「……?」
 ……なんだろう。
 彼と、彼の手元とをついつい見比べてしまう。
 でも、やっぱりわかるはずなんかなくて。
 どうやら彼も私がこんな態度を見せるであろうことは予想済みだったらしく、くすくす笑ったまま何かを握っているらしき手をゆっくりと目の前へ差し出した。
「はい」
「……これ……っ」
「割と有名っていうか……ベタな位置付けになるとは思うけど。試験のお守りって言ったら、やっぱりこれかなって思って」
 両手を彼の手の下に広げると、小さめの紙のような物がそっと置かれた。
 これは、受験だけじゃなくていろんな用途のお守りに用いられることが多い、相鉄のとある駅間の切符。
 その駅というのがなんとも縁起のいい駅名だからこそ、お守りと言われるようになったんだけれど。

 『ゆめが丘→希望ケ丘』

 夢から希望へ向かうように。
 願いが叶うように。
 そんな意味合いが込められた切符だから、お守りとして用いられている。
 彼が言うように、これは有名なモノだから、私だってもちろん知ってる。
 なんだけれど実は、知ってる以外にも理由が……あったりして。
「ありがとうございます。ちゃんと持っていきますね」
「……あー……うん」
「? 先生?」

「もしかして、もう誰かに貰った?」

「っえぇ!? どっ、どうし……っ……ぁ」
「……やっぱり」
「ぅあ……ごっ……ごめんなさい!!」
 じぃーっと私を見つめていた彼に出てしまった、とんでもない声。
 慌てて口を両手で塞いだけれど、やっぱり彼にはばっちりと……バレてしまったようだった。
「やっぱ、そうか。まあ定番だからね」
「あ、あのでもっ……! でも、嬉しいです!! だって先生……忙しいのに買って来てくれたんでしょ? だから、すごく嬉しいんです」
 はあ、と大きくため息をついて視線を逸らした彼に慌てて手と首を振り、きゅっとコートの袖を掴む。
 だけど、彼は苦笑を浮かべて『いいよ』と首を振るだけで、むしろ――……逆に私を慰めてくれた。
「ごめん、気を遣わせて。……っていうか、発想が単純でごめん」
「っそんなことないですってば!」
「いや、いーんだ。ホント」
 くすくす笑いながら首を振り、頭を撫でてくれる。
 ……ぅー。
 でもやっぱり、先生のその優しさが本当に申し訳なかった。
 きっと、彼は私が喜ぶと思って買ってきてくれたんだろう。
 にもかかわらず……私はイマイチの反応しか返せなくて。
「……ごめんなさい……」
「なんで羽織ちゃんが謝るんだよ。何も悪いことしてないだろ?」
「でも……っ」
「いいんだって。……で? 誰に貰った?」
 う。
 来ると思った、その質問。
 ……あの……でもなんか、微妙に瞳が真剣なのは、その、ひょっとして――……怒ってる、とかだったりします?
 彼は、こう見えても負けず嫌いなところがある。
 だから……もしかしたら。
 自惚れさせてもらうとしたら。
 ……悔しがってくれてる、みたいな。
 私の肩に手を置いて顔を覗き込む彼の姿が、そんなふうに見えた。
「えっと……」
「うん」
「……実は……」
「実は?」

「……お兄ちゃんと、絵里……」

「2枚!?」
 おずおずと彼を見上げて、指でもその数を作ってみる。
 すると、それはそれは驚いたように――……そして少しだけ嫌そうに、眉を寄せて大きな声をあげた。
「ごっ、ごめんなさい……」
 反射的に謝り、頭を下げる。
 だけど彼は、私にもしっかりと聞こえるような大きさで深いため息をついてから、『いいんだ』と力なさげに首を振った。
「……はー……そっか。3枚目か……それじゃ感動もないよな……」
「やっ、あ、あの! でもほらっ! 先生がくれたっていうのが私にとっては特別なんで、あの……っ……」
「いいんだよ。……だから、そんな顔しない」
「……すみません」
 しどろもどろに思い浮かんだことを口に出してみる。
 だけど彼は、苦笑を浮かべて首を振ってくれるだけだった。
 ……でも、さっき言ったことはもちろん嘘じゃない。
 彼からもらえたとのが特別で嬉しくて、この1枚は特別な意味を持ったお守りだと思ったんだから。
「……え?」
「それじゃ、もうひとつ」
 くすっと笑った彼が再びポケットに手を入れたかと思いきや、何かを――……取り出した。
 今度は彼の手のひらに納まりきらない……大きさというか、長さというか……。
「……っ、これ……」
「合格鉛筆」
 そう。
 彼が私に渡してくれたのは、2本のキャップ付き鉛筆だった。
 日永先生がくれた物とは少し違う気もしたけれど、やっぱりきれいなままで。
「先生が……削ってくれたんですか?」
「んー……まぁそれもあるんだけど、さ」
「え?」
 きゅっと両手でそれを握ったまま彼を見上げ、まばたきをする。
 すると、ほんの少しだけ首を振った彼が、ふっと笑った。
「実はこれ、俺が七ヶ瀬の受験のときに使った鉛筆なんだよ」
「……っえ……!」
「だから、『合格鉛筆』。どこの稲荷大明神とかよりも、効き目あると思うよ」
 ほんの少しだけ、彼らしい……にやっとした笑みで私の頭を撫でてくれた。
 ……嬉しい。
 彼の物を借りられたというのももちろんだけど、だって、まさかっ……!
 まさか、彼が実際に受験で使った物を借りられるなんて、思わなかったから。
「ありがとうございます! ……大切にお借りしますね」
「ん。ああ、あとコレも。……まぁ、センターだから使うことはないと思うけど……お守り代わりにね」
「……あ……。はいっ!」
 彼が私に握らせてくれたのは、1本のシャーペンだった。
 ……これは、確かに見覚えがあるモノ。
 学校でも、家でも。
 彼が普段使っているのを何度となく見ていたからこそ、記憶に確か。
 …………でも。
「ん?」
「ごめんなさい、あの……っ……なんか嬉しくて……」
 不思議そうな顔をされて慌てて首を振り、鉛筆とシャーペンを握ったまま頬に指を当てる。
 ……直らない。
 嬉しくてたまらなくて、顔がにやけたまま。
 だって、切符だけじゃなくて、こんなにもたくさんのお守りをもらえるなんて考えたりしなかったんだもん。
 ……すごく、すごく嬉しい。
 彼に想われていることと、彼の優しさと。
 そして、今日、こうやって会いに来てくれたことも。
 それらすべてがどうしようもなく嬉しくて、心底誰かに自慢したい気分で、にまにまとした笑みはしばらく消えることがなかった。
「……え……?」
「そんなに喜んでもらえたら、本望」
「えへへ」
 ぽんぽんと頭を撫でてくれた彼に改めて笑い、大きくうなずく。
 私を見てくれた彼もやっぱり笑顔で、なんだか……この前のことが嘘みたい。
 あのときは本当に――……こんなふうに笑い会える日がもう2度と来ないんじゃないかって思ったから。
「……? 先生?」
「ホントは……これで帰ろうと思ったんだけど」
「っ……」
 さらりと髪をすくった彼が、そのまま……頬へ手のひらを滑らせた。
 この時期でこの時間。
 ……なのに、ちょっとだけ彼の手が熱く感じられて、冷たくなった頬に心地よかった。
「せ……んせ……」
「……ちょっとだけ」
 すっ、と近付いた彼に一瞬慌てた私を、まっすぐに見つめたままで彼が小さく首を振った。
「…………」
 ……まるで、初めてキスをするときみたいな……あんな感じ。
 どきどきして、胸が苦しいほど鼓動が強く鳴る。
「……お守り」
「…………ん……」
 囁くようにすぐ顔の目の前で告げられ、頬が赤くなった。
 ……これが1番のお守りって言ったら……怒られちゃうかな。
 ふっと笑ってから頭を撫でてくれた彼に、ふにゃんと崩れたままの表情はやっぱりしばらく直らないかもしれない。
「……それじゃ、俺はこれで――」

「ちょっと待った」

「……え……?」
 玄関のドアに手をかけた彼に飛んだ、リビングからの声。
 それは低くて、少しだけ機嫌が悪そうで。
 あー振り返りたくないなぁ。
 だって、家でこんな声出す人ひとりしかいないもん。
「逃げんな」
「は?」
 訝しげな顔をした先生と一緒にそちらを見ると、それはそれは不機嫌そうに化学の教科書を持った、愛想皆無なお兄ちゃんがいた。
「コイツ、本気でヤバいからな」
「……? なんで?」
「なんでじゃねーよ! いーからお前も来い! どーせ暇なんだろ!?」
「だっ!? ちょ、なっ……んだよ!」
「自分の女なら、きっちり面倒見ろって!」
「は……ぁ? 何が?」
「もーー俺は付き合いきれねぇ。だいたい、化学はお前の得意分野だろ? もいっぺん、きっちりハナっから叩き込め!」
「……はァ……?」
 帰ろうとした彼の腕を掴んだまま引っ張ったせいで、体勢を崩し、転びそうになった。
 だけどそんなことすらお構いなしという感じで、お兄ちゃんがリビングへと連れ込もうとする。
 ……なんだろう。
 途端にリビングがこれまで以上に騒がしくなり、ぽかんと情けなく口が開いた。
 …………。
 えっと……明日から私……試験、だよね?
 彼が入ったことでテンションが上がったらしきお母さんの楽しそうな声が聞こえてきて、ほんの少しだけ乾いた笑いが漏れた。
「…………もぅ」
 口ではそんなふうに言いながらも、私だっていつしか笑っていたんだから……『楽しくない』はずはないんだけどね。

 ――……ちなみに。
 その日の勉強会と称された会合は、深夜遅くまで続けられた。
 ……途中でお酒やおつまみが出て来たのは、きっと気のせいじゃなかったはず。


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