「ぎゃー!?」
 校舎と校舎の間の空間。
 そこに、とんでもない声が響き渡った。
「ちょっ……! ちょっと!! 不意打ちなんて、卑怯じゃない!!」
「それは心外だな。俺は正々堂々やってる」
「嘘つけぇ!! 思いっきり、無防備だったわよ! そっちからなんて!!」
 彼はただ、雪玉を手のひらから転がして落としただけ。
 それは、隣にいた俺が証人。
 ……ただ、ひとつ。
 絵里ちゃんが今言っていたように、彼女は明らかに純也さんが行動に出ていたことを知らなかった。
「くっ……! このっ……!!」
 キッとこちらを睨み上げた彼女が、両手に握った雪玉を振り返りざまに投げ放った。
 ――……がしかし。

 ピシャ。

「ぬっ!? こらーーー!! 卑怯でしょうが、アンタ!!」
「……ふ。何を言うかと思えば。正当行為だろうが」
 何も言わずに、純也さんが素早く窓を閉めた。
 無論、絵里ちゃんが正確に狙ってきた雪玉も、ガラスを前にしては塵の如く。
 ふたつほど痕跡を残しながらも、窓で砕け散った。
 ……しかし。
 先ほどから気になってるのだが……。
「…………」
「……ん? どうした?」
「え? あ、いや……何も」
「そう? んじゃ、手加減しないで応戦して?」
「……え。……は、はあ……」
 にっこりと。
彼は新たな雪玉を手にしつつ、俺に笑いかけた。
 ……うー……ん?
 なぜか、普段と彼の雰囲気がまるで違うのは気のせいだろうか。
 喋り方といい、手の施しようといい。
 どことなく黒いオーラが出てるような……。
 彼の横顔は、まさに“愉しんでる”という言葉がしっくり来るようなモノ。
 常に不敵な笑みを浮かべて彼女らを見下ろしているワケで。
 …………。
 ……勝負、という名が付いているからだろうか。
 なんだか、妙に彼が男らしく見える。
「くっ……! こっちは何もないのに、そっちばっかり盾なんてズルいじゃない!」
「ぶぁーか。ズルいも何も、ハナっからお前に勝ち目なんかねーんだよ!」
「んが!? な……なんだと、コラー!!」
「……ふ。だいたい、見りゃわかんだろ? そもそも、お前のほうが絶対的に不利なんだよ」
 新たな雪玉をこしらえながら、彼が窓脇にもたれつつ……あ。
「ぎあ!?」
 それはそれは、たのしそーー…な顔をして雪玉を落とした。
 そして、見事なまでに絵里ちゃんの頭で砕け散る。
 ……う……うーん?
 なんだかこう、一方的に弱い者いじめをしてる気分なんだが。
「…………」
 純也さんを見ていると、それに加担というか加勢というか……その行為がどうしてもできなくなる。
 勢いがそげるというか、なんというか。
 気付くと、持ったままの雪玉が溶けて滴が手の甲まで伝っていた。
「きゃう……っ……」
「……え?」
 水を含んで、べしょべしょになったソレ。
 純也さんを見ながら何気なく真下へ落としたら、途端に情けない声が耳に届いた。
「…………あ」
「……ぅー……」
 視線を落として、後悔する。
 そこには………明らかに、今、被害を受けた彼女自身が、恨めしそうな顔で見上げていたから。
「えー……と」
「…………」
「……その……」
「…………」
「…………ごめん」
「……ひどいです……こんな……」
 数メートルの距離を開けての会話。
 だが、はっきりと彼女の表情はわかる。
 そんでもって、溶けた雪だるまみたいなモノを頭に載せたまま、両手でそこを押さえている姿も。
 ……あー……えー……と。
 …………びしょびしょだな、オイ。
「…………」
 当然といえば当然なのだが、彼女の頬には濡れた跡があった。
 ……えー……。
 いや、別にワザとやったわけじゃないんだぞ?
 明らかに今のは不可抗力。そう。それ。
 ……なんだが……。
「うぅ……冷たい……」
 今にも泣きそうな顔で視線を外した彼女を見て、申し訳なさから苦笑しか浮かばない。
 何度謝っても、こればかりはな。
 『いいですよ』とか『もぅ。先生ってば』なんて笑って許してもらえそうにはない。
 ……あー……。
 絶対怒ってる。
 というか、むしろ今にも泣き出されそうで、ものすごく良心をチクチクやられるというか。
 …………し……心臓に悪い。
「…………」
 苦しくて、思わず胸のあたりにこぶしを当てていた。
「……くっ……! 祐恭先生まで、馬鹿純也の手下に成り下がるなんて……!!」
「え」
「純情なオトメをこんな目に遭わすなんて、紳士たるものどうかと思うわよ!?」
「いや、ちょっ……これには深いわけが――」
「問答無用!!」
 事態を目ざとく見つけた彼女が、ハンドタオルで彼女の頭を拭いてやりながらものすごい睨みを利かせた。
 ……違う。
 断じて違う。
 今のは決してワザとじゃないし、俺のせいでも……あ、いや、まぁ……多少は俺のせいのような気もするが。
「祐恭君」
「……え?」
 ぽつりと名前を呼ばれて彼女らからそちらへと視線を向けると、一瞬口元がひくついた。
「……な……んすか?」
「うん。いや……うん」
 にこにこと。
 それはそれは嬉しそうに、微笑んでいる純也さんがいましたとさ。
 ……いや。
 正確には、『羽織ちゃんにあんなことするなんて、君も好きだなー』なんて言ってるようなヌルい笑顔だったけど。
 …………。
 やっぱり純也さん……なんか、人が違うんですが。
 普段だったら、そんな顔しないのに。
 どうしてそんなにも神々しくかつ、清貧の笑みを浮かべているんだろう。
 思わず、背負ってるオーラのせいで何も言えなくなる。
「だーー! 負けてなるものかぁー!」
「無駄無駄ァ」
「きーー!! こンの、卑怯モノめがー!!」
「はっはっは。弱犬め、なんとでも言うがいい」
 本気モードにスイッチでも入ってしまったかの如く、彼女は雪玉を作っては投げ、作っては投げを繰り返し始めた。
 だが、しかし。
 こちらには、純也さんが先ほども言ったように、雪玉ごときではビクともしない強大なシールドがあるわけで。
「………………」
 ……なんだコレ。
 素早く窓で雪玉をブロックする純也さんの不敵な笑みと、一方の絵里ちゃんの半泣きな様子。
 …………うーん。
 なんだか、やっぱり異様な光景だ。
「はぁ、はぁっ……くっ……! 卑怯よ!」
「なんとでも言え」
 10分程度、そんな攻防が繰り広げられていただろうか。
 先に膝を付いたのは、案の定絵里ちゃんのほう。
 そんな彼女の隣では、頭を濡らした羽織ちゃんが、困ったように腕を抱きながら眉を寄せていた。
「……大丈夫?」
「…………ちょっと……寒くて」
 そりゃそうだ。
 冬だぞ? 冬。
 絵里ちゃんみたいに始終動き回ってるなら話は別だけど、彼女はそうじゃないし。
 ……俺と同じく、蚊帳の外。
 しかも――……俺のせいで、水をかぶったようなモンだし。
「………中、来れば?」
「え? ……でも……」
「大丈夫だって。それに、風邪引いて卒業式欠席なんてなったら、俺が困る」
 絵里ちゃんと俺とを見比べた彼女が、顎元に手を当てた。
 だが、心なしかその手も震えているようにさえ見える。
 俺でさえ、こうして窓を開けているだけでものすごく寒いのに……一面銀世界その真ん中に突っ立っていたら、寒くないワケがない。
「……それじゃあ……」
「うん。そうしなよ」
 小さくうなずいた彼女に、こちらもうなずく。
 すると、純也さんがこちらを向いた。
「……それが懸命だな」
「え?」
「アイツも、羽織ちゃんみたいにハナっから大人しくしてればいいものを……」
 困ったようにため息をついた彼が、彼女へ向かって小さく『ごめんね』と苦笑を見せた。
 ……ふむ。
 その顔はまったく違和感のない、普段の彼のモノ。
 ってことは――……もしかしたら、絵里ちゃんを懲らしめるために……やってる、とか……。
 …………。
 いや、なんか思い切り語弊を招きそうな言葉を選んだのは自分でもわかっているが。
「……そろそろ、終わりにします?」
「そうだな。さすがに、手も冷た――」

 ばしゅ

 一瞬の出来事だった。
 赤くなり始めた両手を見ようと、彼が一瞬視線を落したとき……事件は起こった。
「ふふふ……ふふふふふっ……はぁーっはっはっはっは!! やった! やってやったわよ!!」
 まるで、『ハプニング大賞』さながらの映像だった。
 こちらを向いていた純也さんの横顔に、大き目の雪玉がクリティカルヒットし、一瞬、その雪で彼の顔が見えなくなったんだから。
 ……まさか、こんなことになるとは。
 微動だにせず立ち尽くしている彼――表情は見えないが――に、思わず、何も声がかけられない。
「……あ」
 しばらく、止まっていた時間。
 それが、ゆっくりとスローモーションを見ているかのように、動き出した。
「…………あの……じゅ、純也さん……?」
 ぎぎぎ、と鈍い音を立ててようやく動き出した彼が、ゆっくりと、顔に張り付いた雪を払い落とす。
 ……だが、しかし。
 雪の下から現れた表情は、そこはかとなく無感情だった。
「ぎゃーー!!?」
 ――……そのあとの彼は、素早かった。
 ガッと勢いよく白いボトルを掴んだかと思うと、蓋を開けて中身を大き目のビーカーに突っ込んだ。
 さらにそこへ躊躇なく水を注ぎ、ぐりぐりとかき混ぜてから――……窓の外へ、勢い良くぶちまけたのだ。
 きらきらと光を受けて輝く、液体。
 それが、宙で広がったのを確かに見た。
「ぶわ!? ちょっ……何よこれ! ぎゃー! つめたーー!! ていうか、足元までびっちょびちょじゃない!」
 咄嗟のことで一瞬頭がついていかなかったが、ようやく、外から聞こえてきたキンキン響いている声で事態を把握する。
「ったりめーだろうが。雪溶かしてんだから」
「なんでよ!? ちょっと!」
「……フン。化学教師をナメるなよ」
 冷ややかな目線とともに、放たれた言葉。
 冷静すぎる……だからこそ、怖い。
「純也さん、それは……」
「大丈夫。塩化ナトリウム入ってるから」
「……いや……そういう問題じゃ……」
 眉ひとつ動かさずに下を見つめている彼の横顔は、何か意見できるような雰囲気を持ち合わせてはいなかった。
 ……その表情。
 それがヤケに印象強く映像として残ったのは、言うまでもない。


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