「っだー……! 苦しい……!!」
 いったい、いつ振りだろうか。
 こんなふうに、階段を数段跳びで駆け下りたのは。
 ぜーぜーと荒くなった息のままエントランスを抜け、駐車場へと向かう。
 ……だが、そのとき。
 今日、これまでの間に身につけたクセなのか、思わず車の安否を確認していた。
「…………」
 大丈夫だろうな……。
 十円キズ付けられたりしてないだろうな……?
 あとは、パンクしてたりとか……はたまた、ガラス割られたりとか。
「…………ほ」
 だが、こちらの心配をよそに、タイヤが取れるなどという事件もなく、無事にいつもと同じ姿を保っていた。
 ――……その、側面だけは。
「……ッ……な……んだこれ!!」
 愕然というよりは、ふつふつ沸き立った怒りが爆発したような。
 そんな勢いで、思わずかっと目が開いた。
 毛、毛、毛、毛、毛。
 とにかくもう、どこを見てもものすごい量の白い短い毛があった。
 ボンネットの上、フロントガラス、そして――……ルーフ。
 あらゆる場所が『毛だらけ』という言葉しかぴったり来ない状況と化していて、あんぐりと口が開いた。
「……ンだよコレッ……!」
 それが、意味するモノ。
 ……それは、ひとつしかもちろんない。
「ッ……!」
「……んなぁーーおぉ……」
 すぐそこにある高い塀に上って、のんきに顔を洗っている白い猫へとすぐ顔が向いた。
 アイツに決まってる。
 アイツに違いない。
「…………」
 そう思うと、思わず息を吸い込み――……。

「お前のせいだーー!!!」

「ふにゃっ!?」
 間近まで近寄ってから、思いのタケを発散。
 お陰で、それまで顔を洗っていた呑気が猫が慌ててそこから飛び降りた。
 ……ちょっとすっきり。
 動物愛護団体にとやかく言われそうな気もするが、人間誰しも感情がある。
 動物だって悪いことをすれば叱られるってのが世の常だろ?
 そういうワケで、完結させていた。
「……ったく」
 見るも無残になった、我が愛車。
 光沢は愚か、今はもう、なんか……ヘンテコな情けない車としか見えなくて。
「……はー……」
 これまで、ここに住んでの数年間。
 一度たりとも、こんな動物の被害にもいたずらにも遭ったことなかったのに。
 ……よりによって、こんな、遅刻ぎりぎりってときに……!
 なくなく運転席に座り込んで鍵を差し込むと、やっぱり重たくて深いため息が漏れた。
 …………が、しかし。
 いつまでもヘコんでるワケにはいかない。
 車は洗車すれば済むだろうし、今は何よりも仕事が優先。
 そりゃあ……爪の傷が付いてないとはいえないんだが。
 とりあえず今は、余計なことを振り払うしかない。

 きゅるるるるる

「…………え」
 エンジンをかけようと、キーを回した途端。
 何やら……何やら、ものすごく情けないと同時に――……問答無用で不安になるような音が聞こえた。
「……嘘だろ……」
 手ごたえのない、キー。
 それはイコール……エンジンが……ということであって。
「おい……オイオイオイっ……勘弁してくれ……!」
 うんともすんとも言わない、我が愛車。
 いや、ちょっ……ちょっと待ってくれ。
 だってほら、昨日だって俺、車で学校に行ったんだぜ?
 それどころか毎日車に乗ってるんだから、そうそうバッテリーがあがるワケもなく。
「冗談だろ……!?」
 悪い夢なら覚めてくれ。
 ……あの、夢のように。
 焦りから打ち付ける鼓動のままもう1度キーを回すも、やっぱり、何も反応がなかった。
「……ッ……くそ…!」
 時間はすでに7時50分。
 ここからあそこまで歩いて行けるような距離ではないから、探すとしたら――……やっぱり、アレしかないか。
「……ああもう……! ちくしょう!!」
 八つ当たりでしかないに決まってる。
 だが、思わずハンドルを強く打ち付けていた。
「っ……」
 くそ。
 くそっ……!!
「………あーもー……」
 そのとき、情けなく1度だけ響いたクラクションがより一層自分をヘコませた。

 朝の通勤ラッシュ。
 そんなモノをのんびり車窓から眺めていると、隣に立つ彼女はくすくす笑った。
「でも珍しいわねー。先生が、バスなんて」
 ……そう。
 今は、普段乗りもしなかったバスの車内。
 ラッシュに巻き込まれているのはバスも同じなのだが、なんとなくそんな第三者と化している。
 声をかけてきたのは、例に漏れず当然冬女の制服を着た子。
 ……と呼んでいいものか悩むが、今日はなるべく関わりを最小限にしておきたいので、これ以上は明言しない。
「……ちょっとね」
「ふぅん。……ちょっと、ねぇ……?」
「……なんだよ」
「別に?」
 そちらを向かないままぼそっと告げると、小さく笑ったのが聞こえた。
 ……なんだよ。
 そんなふうにされると、気になるだろ。
 まぁ……どうせ、芳しくない情報だとは思うけど。
 1番近くの停留所でバスを待っていたら、たまたま一緒になったのだ。
 ……誰と?
 そんなモン、ひとりしかいないに決まってる。
「で? そーゆー絵里ちゃんは、どうしたんだよ」
「……別に」
「別に?」
「そ。別に、ちょっとね」
「……ふぅん」
 彼女ほど、『ちょっと』の中身がわかりやすい子もいないだろう。
 ……純也さんと喧嘩したのか。
 相変わらず……相変わらずだな。
「何よ」
「別に」
 じぃっと見つめていたワケでもないのに睨まれて、思わず肩をすくめていた。
「……あ、れ? 珍しいですね、先生がバスなんて。おはようございます」
「おはよ」
 次の次の停留所から乗ってきた、こちらもよく見知ってる子。
 俺を見て目を丸くしたが、その顔はすぐに笑顔になった。
 朝から会えて嬉しいよ、俺ももちろん。
 ……が、しかし。
 今日ばかりは、いつもと思いは違う。
「……? どうかしたんですか?」
「別に」
 別に、とは言いながらも、当然『別に』なんかじゃない。
 マフラーを巻いて、コートを着込んでいる彼女が不思議そうに首をかしげるのを見ていると、まったくあのときと同じには見えないんだけどな。
 ……はー。
 ついつい、俺じゃなくて優人を庇った瞬間の彼女とダブって見えて、つり革を掴みながらため息が漏れた。
「っわ!?」
「……ッ……!」
 途端。
 ガタンっと大きくバスが横に揺れた。
 突然のことで周囲も予測してなかったらしく、驚いたような声があがる。
 それは俺のすぐ隣にいた羽織ちゃんも同じで。
 ぐらっとバランスを崩したかと思いきや、そのまま俺にぶつかった。
 ――……途端。
「っ……」
 ふわりと、甘い匂いがした。
 それはそれはよく……1番よく、俺が知ってる匂い。
「……ぁ……」
 ふと顔を横に向けると、すぐそこに彼女の顔があった。
 驚いたように瞳を丸くしつつ、頬を染めている……彼女が。
「っ……ごめん」
「……あ。い、いえ……」
 ……これはこれは。
 これまでのツケが回ってきたとは考えられない、好機。
 どうやらバランスを崩した拍子に、俺が彼女の肩へ顎を乗せるような格好になっていたらしい。
 だからこそ当然、ふるふるとした柔らかそうな――……と言うまでもなく、自身が1番よく知ってる唇。
 それが目の前にあって、もう少しでキスしそうだった。
 ……危なかった、のか。はたまた……惜しかったのか。
 今回のは、それこそ“事故”と言える。
 だからこそ、うっかりキスしても……俺のせいにはならなかった、かもしれないのに。
「…………」
 ふと彼女を見ると、俯いたまま頬を染めて少し困っていた。
 ……うん。
 やっぱり、惜しいことをしたな。
 結局は、そう結論付けられた。
「ってぇ……!?」
「……ったく。とっとと気づいてよね!」
「いって……なんだよ、急に」
 バシンっといきなり痛みを背中に感じて振り返ると、ものすごく怖い顔の絵里ちゃんがいた。
「……え?」
「え、じゃないわよ! 人の足踏みつけたままで……!!」
「……あれ?」
 言われて見てみると、確かに、俺のかかと部分に彼女のローファーの先が見えた。
 ……あー……。
「ごめん。まったく気づかなかった」
「まったく、だぁ……!? ふざけんなー!!」
「うっわ!?」
「っきゃ!」
 ただでさえ狭い車内なのにいきなり両手で彼女に押され、当然とも言うべくバランスを失った。
 ……だけでなく。
「いっ……!?」
「っ……せんせ……!?」

 ぱっちん。

 そんなイイ音とともに、頬を思い切り叩かれた。
「……いつ……」
「っご、ごめんなさい……!! あの、あのっ……私……!」
 そう。
 バランスを崩したのは、俺だけじゃなかった。
 隣にいた羽織ちゃんもそうだったらしく、その反動で……振り上げられた手が俺にヒットしたというワケで。
 ……痛い。
 力も何もなかったとは思うのだが、どう食らったのか見事なクリティカル。
 じんじんというよりはひりひりとした痛みが消えず、結局は事故とはいえ二重の痛みを味わう羽目になった。


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