運の悪いモノと言うのは、本当に重なるもので。
「……あれ……?」
 たらりと冷や汗が背中を伝う前に、暖房と人の温かさから半ば眠りかけていた頭が、一気に覚醒した。
「……? どうしたんですか?」
「……いや……」
 もう、すぐそこに学校前のバス停が見えている場所。
 そこで、運賃を払うべく財布を取り出したら――……ないのだ。
 何がって、その財布自体が。
「……財布がない……」
「えぇっ!?」
「……あーらら」
 ぽつりと漏らした言葉に対しての反応は、それぞれまったく違っていた。
「天罰じゃなの?」
「もぉ……絵里ってば……。そんなこと言わないの!」
「……でもねェ。人の足踏んづけたし? 罰が当たったのよ、罰が」
 …………どうやら、相当お怒りを買っているらしい。
 まぁ、もしかしたらそれに拍車をかけてるのは、純也さんとの攻防かもしれないが。
 …………それにしても。
 財布だよ、財布。
 そういえば、アレ……確かにポケットへ入れたか……?
「…………」
 思い出すのは、朝のあの一連の流れ作業。
 ……果たして。
 俺はちゃんと、持って出ただろうか。
 テーブルの上にあったのは、確かに見た。
 ……だけど。
「……………」
 どこかに落としてなければそれでいいが、もしも……もしも、この、朝っぱらの騒動の中でどこかに落としてでもいたら。
 そう思うと同時に、さーっと血の気が引く。
 キャッシュカードにクレジットカード、挙句の果てには免許まで。
 ついでに、教職員組合のカードもあったはず。
 ……ヤバい。
 本気でどうしよう。
 不安も心配も尽きないのだが……しかし。
 今はそれよりも何よりも、この“運賃の支払い”という目の前にある絶対条件をどうにかしなければならない。
 ……その方法。
 それを考えるまでもなく浮かんだのは――……情けない話だが、コレのみ。
「……羽織ちゃん」
「はい?」

「……ごめん。……金、貸してくれない?」

 恥も外聞も捨てて、俺は彼女に手のひらを差し出していた。


「……ありがと。本気で助かったよ」
「いいえ。私にできることがあったら、なんでも言ってくださいね」
 にっこりと微笑んでくれた彼女が、紛れもなく俺にとっての女神に見えた。
 ……ああ、ありがとう。
 捨てる神あれば、拾う神アリだな。マジで。
 借りた千円から引かれた、バス代。
 その釣銭をポケットに入れたままバスを降りると、時計は――……ジャスト8時10分。
「……っ……」
 学生が登校するには、何も問題ない時間。
 だが……それが教職員にも当てはまるかというと、そうじゃない。
「っそれじゃ……!」
「あっ。気をつけてくださいね」
「お大事にー」
「……ひとこと多い!」
 青信号と同時に横断歩道を駆け、そのまま職員用の玄関へと向かう。
 当然ながら、そのときほかの先生方の姿はまったくなかった。
 ……ああ。
 せめてもの救いは、今日は朝礼がなかったことか。
 しかし、財布がないとなると……やっぱ朝メシはおろか、昼メシも……危ういよな。
 まさか、俺みたいな下っ端が、“ツケ”で食うわけにもいかないし。
 …………残り残高、800円。
 今日の放課後まで、これでなんとかしのがなくては。
 …………。
 ……って、ダメじゃん。
 帰りもバスなんだから、そこからさらに200円マイナスして――……600円か。
「……はぁ……」
 なんとも心もとない数字だ。
 ……ふと、一時期のジリ貧学生時代という文字が頭に浮かんだ。

「おはよ、祐恭君」
「……あ。おはようございます」
 職員室での職員会議にギリギリ間に合ってから、移った先は準備室。
 ……準備室か。
 ふと、来る途中であの“魔の階段”が目に入り、情けなくも心が折れそうになった。
 ……いや、でもしかし。
 大丈夫。
 アレは紛れもないちゃんとした夢だったんだから。
 今度こそ分厚いファイルをぶちまけないように両手で抱えながら来た自分が、少しだけ情けなかったが。
「どーした? ……なんか、あんまり元気ないね」
「……そうなんすよ」
 自分の席についてから純也さんを見ると、頬杖を付いてから苦笑を浮かべた。
 ……はー……。
 なんか、今日は朝がものすごく無駄に長かったな。
 座ると同時にどっと疲れが出てきて、やけに身体が重たく感じられた。
「……今日はもう、朝起きたときからなんか……ずっと感じ悪くて」
「それは随分だね。……あー……そんで死にそうなの?」
「……またそんな顔してます?」
「うん。ばっちり」
 くすくす笑った彼を見ると、立ち上がって淹れたコーヒーのひとつを俺にくれた。
 ……ありがたい。
 いや、でも……正直言うと、やっぱすきっ腹にコーヒーって結構こたえるんだよな。
 などとは思うが、軽くカップを上げて礼を告げてから早速口付ける。
 ――……と。
「……っ……!」
 突然、机に置いたままだったスマフォがけたたましい着うたを響かせた。
「なっ……」
 瞬間的に手に取り、慌ててボタンを押す。
 当然、すぐに音は消えた……とはいえあたりに漂うのは芳しくない空気で。
「…………すみません」
 誰にともなく、そんな謝罪を口にしていた。
「……メール」
「…………です」
 ため息をついてから受信ボックスを開く。
 ……って、広告かよ……。
 しかも、まったく身に覚えのない内容がそこにはあって、落胆なんぞよりも先に怒りがふつふつとこみ上げてきた。
 ……誰かと思えば……!
 知らんヤツのせいで嫌な思いするなんて、最低だと言わずしてなんと言う。
「……くそ……」
 ギシ、と椅子を鳴らせながらもたれ、とっととメールを削除する。
 ……余計なことした気分だ。
 なんかもう、本気で今日はとことんツイてない。
「疲れてるねぇ」
「……ですよ」
 対面の席に着いた純也さんが、頬杖を付きながら『お疲れ』とひとことくれた。
 なんかもう、たとえ小さなことでも、連続してこうも起こると……やっぱいい気はしなくて。
 むしろ、普段と違うというだけのレベルでも“不幸”に分類されるから、やっぱ人間って正直なんだな。
 ……いや。
 わがままだと言うべきかも知れないが。
「……あ」
「え?」
 それまで、穏やかな表情のままだった純也さん。
 だが、何かを見つけたみたいな顔をすると同時に、さっと俺から目を逸らした。
「……? なんですか?」
「……いや……」
 小声。
 それこそ、ものすごく小さな小声。
 ぼそりと呟いて首を振り、そのまま――……っていうか、あれ……?
 なんか、純也さんこそ顔色があまりよくないんじゃ……?
「…………?」
 思わずぱちぱちと瞬きしながら彼を見つめ、“?”が増えた頭をかしげる。

 ぽんっ

「っ……!」
 途端。
 思ってもなかったでっかいモノが、容赦なく俺に降りてきた。
「瀬尋先生」
「はぃっ……!」
 思わず、がたんっと音を立ててその場に立ち上が――……れなかった。
 両肩に置かれた、大きなゴツい手。
 それをスーツ越しに感じたまま、身動きが取れない。
 ……なんつー力だ……。
 それと同時にものすごい威圧感。
 …………これは。
 これは……やっぱ…………やっぱり、するんだろうか。
「あまり感心しませんな。私用電話ですか?」
「いえっ……! あの、これは――」
「就業時間は過ぎてますが?」
「……そ……それは……」
「勤務中に堂々となんて……生徒に言い訳できませんよ?」
「っ……すっ……すみません」
 どきどきどきどき。
 だらだらだらだら。
 この年になって、久しぶりの『ヤバい』。
 かつ、違った種類の『恐怖』をばっちりと味わった時間。
 それは恐らく、ものの3分もしなかったと思う。
 ……だが。
 俺にとってみれば、時間が止まったんじゃないかと思うくらいに、ものすごい果ての見えない経験で。
「教師たるもの、きちんと襟を正しましょうか」
「はいっ…………すみません……」
 ようやく両肩を解放されたものの、やっぱり何度も頭を下げながら謝罪の言葉を述べていた。
「…………こえー……」
 小さな声でそちらを見ると、まるで他人事とは思えないような顔をした純也さんが、ゆっくりと彼のあとを追うかのように視線を動かしていた。
 ――……この部屋の主とも呼ぶべき、斉藤先生。
 彼は生徒にも恐れられているが、教職員にも……当然そうだった。
 …………はー……。
 これまで、彼に『学生気分じゃ困る』などという直接的なお叱りを食らったことはないのだが、そうじゃなくもっと手厳しい言葉を何度もちょうだいしてきたわけで。
 ……怖かった……。
 今でも、ばくばくと心臓がうるさいほど。
「………………」
 ……はー。
 思わず大きなため息をつき、改めてスマフォを消音に切り替える。
 …………怖かった。
 出たため息は言うまでもなく、ほっとしてのモノに違いなかった。


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