「……う……。さむ」
 日なたと日陰は、雲泥の差。
 太陽と反対側の向きに窓がある階段の踊り場に差しかかると、一瞬ぞくっとしたモノが背中を走った。
 現在、1時限目の真っ最中。
 終わるまでは、だいぶ時間がある。
 ……そんな中。
 試験監督でも、ほかの学年で授業を持ってるわけでもない俺がなぜここにいるかというと――……理由はひとつ。

 純也さんに、強く保健室へ行くことを勧められたから。

 ……しかも、ものすごく。
 正直言って、あそこまで真剣に迫られるとは、思いもしなかった。

 ときは少し、遡る。
 そもそもの発端は、俺が『寒い』発言をしたのがきっかけだった。
 そのあと純也さんに俺が着ている服の枚数を口にしたら……ものすごく驚かれた上に、激しく首を振られた。

「ありえない」

 ただ、そのひとことのみを残して。
「……でも、寒い……よな。今日」
 日なたにいれば、それこそぽかぽかと暖かい穏やかな日にも感じられる今日。
 だが、一歩廊下へ踏み出すと、それこそ凍えそうなほど寒い。
 ……はず。
「…………」
 いや、しかし。
 ……ちょっと待て。
 純也さんには『おかしい』と言われただけじゃなく、『壊れてる』とまで言われたからな。
 確かにまぁ、彼が言う通り普段の俺は誰よりも薄着で通してるんだが……。
 普段はそれこそ、暖房がない場所であろうとも、ワイシャツに白衣とかそんなあたり。
 この時期になると当然のようにセーターやベストを着込む人々が増えてくるから、結構目立ってはいたらしく、何かあるたびに『元気ですね』とか『お若いですね』とか声をかけられた。
 ……が、しかし。
 今日に限っては、別。
 もしかしたら、純也さんが言うように――……校内一、厚着をしている人物かもしれない。
「……失礼します」
 2号館の1階。
 階段を降りて少し歩いたところにある保健室の引き戸を開けると、暖かい空気が全身に触れた。
「あら、瀬尋先生。どうしたんですか?」
「いや……ちょっと。……勧められまして」
 椅子に座ってパソコンと向き合っていた彼女に苦笑を見せると、『珍しいこともあるんですね』と言いながらも、椅子を差し出された。
 窓際に置かれた加湿器からは、もうもうと白い湯気が出ている。
 椅子に座ってあたりを見るも、特にこれといったモノはなくて。
 ときおり、時計の針の音が響く以外は本当に静かな場所だった。
 ……まぁ、お蔭さまで保健室とは縁遠い場所に昔からいたからな。
 お世話になることはあっても、怪我とかそっちでだったし。
 ――……って、教師になってからはかえって訪れる機会が増えた気もするが。
「それで、どうされたんですか?」
 キィ、と音を立ててこちらに椅子ごと向き直った彼女に、改めてこちらも向き直る。
 ……さて。
 いったいどう言ったらいいだろうか。
 まさか、純也さんに『おかしいから見てもらったほうがいい』と言われたなんて、言えないしな……。
 説明しろと言われても、これはこれで結構難しい。
「その……ちょっと、寒気がするんですが」
「あらまぁ、大変。それは風邪の引き始めかもしれませんよ」
 あらあらと言いながら立ち上がった彼女は、ゆっくりとした動作で体温計を持ってきてくれた。
 電子タイプではなく、昔ながらの水銀のアレ。
 ……俺も、こっちのほうが好きなんだよな。
 血圧計でもなんでも、デジタルならばイイってもんじゃないと思う。
 自宅ならまだしも、病院でまでアレが出てくると……なんかな、って気になるし。
 ってまぁ、それは俺くらいのモンかもしれないが。
 アナログのままでいい物って、結構多いと思うけどね。
「……それにしても……」
「え?」

「瀬尋先生。今日、いったい何枚お洋服召されてらっしゃいます?」

 真正面の椅子に再び座り直した彼女が、顎に手を当てて呻りながら俺を見た。
 それこそ、つま先から、頭のてっぺんまで。
 いかにも『悩んでます』という感じに眉を寄せてくれながら。
「……えーと……5枚、ですけど」
「ごっ……5枚!? えぇー!? やだわ、瀬尋先生。それじゃあムレちゃいますよ!?」
「いや……あの、でも寒くて――」
「んまぁああぁあっ! どうしたんですかいったい!! 健康優良児の瀬尋先生が、そっ……んなに厚着して!!」
「……えーと……」
 わざわざ溜めてまで強調してくれた彼女に、なんとも言えない表情しか浮かばなかった。
 ……いや、うん。
 ついさっき、同じ反応を純也さんにももらったんだけど。
 ひぃふぅ、と数えてから弾き出した、確かな数字。
 Tシャツ、ワイシャツ、セーターで、上着。
 そして最後は、いつもと同じく白衣を1枚。
 一方の純也さんは、2枚なワケで。
 ……そりゃ、『壊れてる』とか言われるよな。
 しかも、挙句の果てに、まだ寒いって言うんだから。
「はい、終了!」
「あ」
 ぼーっとしたまま熱弁をふるう彼女を見ていたら、バッと音を立てて振り返ると同時に体温計を回収された。
「むむっ……あぁあっ! やっぱり! やっぱりですよ、先生!!」
 両手でじっくりと見定めた直後――……当然のように大きな声で『ダメじゃないですか!!』と怒られる。
 何がダメなのか。
 そんなモン、まったくわかりもしなかったんだが……。

「37.9度!!」

「……え」
「ばっちり間違いなく熱がありますよ、瀬尋先生!!」
 びしっと目の前5cmへ突きつけられた、ガラスの体温計。
 嫌でも示されている数字を見ると――……人間とは、本当に“結果”や“経験”に弱い生き物だとわかる。
「これじゃあ、夜になってからきっと高い熱が――……瀬尋先生? どうされました?」
「いえ……なんか、急に……頭が……」
「わっ!? わ、ちょっ……ちょっと! 瀬尋先生!? 先生!!?」

 一瞬、くらりと目の前が揺れたように見えた。



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