「――……というわけで、瀬尋先生は体調を崩されたので早退しました」
「ええーーー!!!?」
 化学室の、教壇。
 そこに立つ田代先生の声で、室内が沸いた。
「……え……」
「ありゃ」
 もちろん、私も例に漏れず。
 『俺に言われても……』とばかりに困った顔をして頭をかいている田代先生を見ながら、何も声が出てこなかった。
「それにしても、祐恭先生も具合悪くなることあるのね」
「……もぅ。絵里!」
「あ。ごめんごめん」
 つい、なんて言いながら舌を出した彼女に眉を寄せると、ひらひら手を振りながら頬杖を付いた。
 ……それにしても。
 そういえば確かに、先生はいつもとちょっと違ってた。
 朝からしても、そう。
 くしゃみもそうだけど、いつもと違って……どこか上の空っていうか。
 確かに、今週の頭から始まった学年末試験の準備とかで、疲れが出たのかなとも思ったんだけど……。
「…………」
 ……まさか、早退するほど具合がよくないなんて。
「……んー? 彼女としては心配ですかな?」
「…………もぅ。からかわないの!」
「だって、そんな顔してるじゃない」
「それは――……うん」
 つんつん、と頬をつついた絵里にうなずき、改めて前を見る。
 教壇に立って声をあげている、田代先生。
 一昨年まではこれが当たり前の光景だったのに、今じゃ……やっぱり、違和感があった。
「帰りにでも、お見舞い行ってみたら?」
「……うん。……そう、しようかな」
 いつの間にか、無意識の内に手にしていたシャーペン。
 それは、返しそびれていた……センター試験のときに彼から借りたままのもの。
「…………」
 早退するなんて、よっぽど具合悪いんだろうなぁ。
 ついつい、咳き込みながらぐったりと横になっている彼の姿が頭に浮かんでしまい、心配とか不安とか……そんないろんな気持ちから、集中力に欠けていた。
「っ……え?」
「ほら、羽織の番よ」
 とんとん、というより少し強めに背中を押されて振り返ると、顎で前を指しながら、絵里が言った。
 …………。
 ……あ。
「……っ……!」
「たくもー。……しっかりしなさいよね」
「うー……」
 今は、テスト返しの真っ最中。
 そういえば少し前に『今から、帰る前に瀬尋先生が死ぬ気で採点したテストを返すから』って言ってたんだっけ。
「すっ、すみません……」
「いいえ。……はい、置き土産」
「ありがとうございます」
 テーブルに身体を預けてる田代先生から答案を受け取り、軽く頭を下げる。
 にっこり笑って首を振ってくれるあたり、やっぱり彼らしい。
 ……同じことをしても、こうも違うんだなぁ……。
 きっと彼なら、間違いなく意味ありげな目線を残してくれるに違いない。
「……はー」
 席に戻ってから、半分に折っていた答案を恐る恐る開く。
 ――……と。
「……バツが少ない……!」
「…………どんな感想よ」
「え? ……だってぇ」
「まったく」
 自分でもびっくりして呟いた言葉だったのに、隣の絵里は鋭い言葉をくれた。
 ……うぅ。
 でも、私にとってみれば、これってものすごい快挙なのに。
 たしかに、絵里みたいにいつもバツを数えたほうが早い答案なら、コメントはまた違ってくるんだけど。
「…………」
 名前を呼ばれる前に答案を取りに行った絵里を見送ってから、改めて手元に視線を落とす。
 斜めに引かれている、まっすぐの線。
 そこに書かれている、癖のないきれいな字。
 ……それを見ていると、少しだけ苦しくなった。
 先生って、本当に……律儀っていうか、丁寧っていうか……。
 何も、自分が具合悪いときまで無理することなんてないのに。
 手元には間違いなく彼の形跡があるのに、顔を上げるとそこには何ひとつ残っていない。
 いつも、彼がいる場所。
 だけど今は……そこに何もない。
「…………」
 思わず、答案を持っていた手に力が篭る。
 と同時に、お見舞いに行こうという強い気持ちも。
「……それにしても」
「え?」
 頬杖を付いた絵里が、正面を向いてから眉を寄せた。
 その先にいるのは、もちろん――……言うまでもなく、田代先生。
 黒板には、どこか懐かしい感じのする彼の字が幾つも並んでいる。
「それじゃあ、今から答え合わせするから。わからないところあったら、質問して」
 解答の刷られたわら半紙のプリント。
 それを配り終えた田代先生が、声を張りあげる。
 ――……が。

「はい」

「っ……絵里……!」
 手を上げると同時に立ち上がった絵里が、早速口を開いた。
「……なんだ」
「あら。……ずいぶんと手厚い歓迎ですこと」
「……うるさいな」
 途端に曇る、田代先生の顔。
 だけど、絵里があっさり食い下がるはずもない。
 大げさに肩をすくめて『やれやれ』なんてジェスチャーを見せたかと思ったら、キっと瞳を細めて黒板を指した。
「その字。小さくて見えないんですけど」
「…………」
 ぱしっと向かった、絵里の言葉。
 でも、田代先生は特に気にする様子もなく、絵里を一瞥して黒板に向き直った。
 ……うぅ。
 なんか、ものすごく……ち……力入ってません?
 消してから書き直している彼の後ろ姿を見ているんだけれど、かなり離れたこの場所まで、ガリガリとチョークの削れる音が聞こえてくる。
 ……それも、かなり鮮明に。
「……あぁ、なるほど」
「え?」
 頭上から、フッと小さな笑い声が聞こえた。
 思わず振り返――……った事を、ものすごく……後悔する。

「読めないのは、字の汚さが原因だったのね」

「っ……絵里!!」
 腕を組んだまま嘲るように言い放った絵里を慌てて掴むものの、言うまでもなく……ときすでに遅し。
 ガツンッとチョークの粉々になる音が響いた次の瞬間、ゆらりと田代先生がこちらを睨みつけるのが見えた。
 ……あ……あわわあわわ。
 き……聞いてないよ……そんな……!

 まさか、まさか……っ……今日もやっぱり……朝から、喧嘩してたなんて……!

「ッ……んだと……!?」
 机を、大きく田代先生が叩いたとき。
 それはまさに、カァンとゴングが鳴り響いた瞬間そのものだった。


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