「……大丈夫?」
「え?」
 思わず声をかけてしまったのには、ワケがある。
 明らかに、目で見てわかるモノ。
 とにかく、ひと目見てまず『あれ?』と思った。
「え……っと……何がですか?」
「いや、なんか……具合悪いとか、ない?」
 昼休みの教科連絡。
 いつものように俺のところへきた彼女なのに、いつもとは違う。
 ……そういえば。
 思い返してみると、今朝のSHRからすでにいつもと違っていたような気もする。
 大っぴらに接触できない間柄だからこそ、何気ない仕草や表情から判断するしかできないのだが、それでも……いつもと違う何かを感じていたのは確か。
 こうして直接彼女と面してようやく、事態の深刻さに気付いた。
「……大丈夫です」
 儚く微笑んで首を振られるのが、どれほど不安になるか。
 彼女はそれを知っているだろうか。
 ……大丈夫じゃないだろ。
 咄嗟に否定する自分は、恐らく間違ってない。
 力ないというか、どこかおぼつかないような。
 そんな足取りと口調。
 いろんな意味で力がないというか、心もとないというか……覇気がないというか。
 まるで、ふっと風にでも吹かれたらそのまま飛ばされてしまいそうなほどの、脆い印象を受ける。
 確かに、普段の彼女だって屈強な頑丈さは見受けられないが、そういう意味じゃなくて。
 もっとこう……どこか、病的な感じを受けたのだ。
「ちょっと……寝不足、っていうか……」
「……寝不足?」
「だと思うんです。……少し頭が痛いだけだから」
 眉が寄ったままの俺を気遣うかのように『大丈夫です』を繰り返す彼女を見て、当然表情が晴れるワケがない。
 だが、やはり体調が思わしくなかったか。
 一瞬、つらそうに瞳を閉じて眉を寄せたのが見えて、一層つらく思えた。
 言わずもがな、彼女の体調が彼女のセリフ以上であると思って間違いない。
 ……無理する子だからな。
 『大丈夫』と過分に口にするからこそ、やはり心配だった。
「……っ……!」
「え……?」
 それまではなんとか持ちこたえていたように見えた彼女。
 だが次の瞬間、突然口元に手を当てたかと思うと、苦しそうに背中を曲げた。
「っ……大丈夫?」
「ごめんなさい、あの……ちょっと……」
 咄嗟に、立ち上がって彼女に触れていた。
 目の前で、大切な彼女が今にも倒れそうなほどの急変を見せたんだ。
 身体が動かないはずがない。
「……平気ですっ! ……すみません」
 だが、まるで抱きかかえんばかりの俺を見てか、彼女は慌てて背を伸ばした。
 ……そんな気遣いはいい。
 あからさまに周囲を意識しての、強がり。
 そう目に映って、一層眉が寄る。
「……ちょっと……匂いが……」
「匂い?」
「……はい」
 しばらくつらそうに瞳を伏せていた彼女がようやく俺を見上げたとき、半ば無理矢理作られた笑みとともに、少し遠くを見つめる仕草をした。
 その、先。
 そこには、この部屋の給湯室がある。
 時間はちょうど、昼休み。
 後半に差しかかってはいるのだが、どうやらまだ昼食を取ってなかった教員がいたらしく、あたりにはカップ麺特有のスープの匂いが漂っていた。
「…………」
「……なんか……ヘンですよね。すみません。……ちょっと、体調がよくないみたいで……」
 苦笑を浮かべるその姿も、痛ましくて。
 ……無理しなくていい。
 思い切り抱きしめて、しっかりとそう言ってやりたい気分だ。
「先生……?」
「……ホントに、大丈夫?」
 椅子に座り直すこともできず、そのままの格好で彼女を見下ろす。
 いったい、どうしてのうのうと普段の姿勢に戻れるだろう。
 ……できるはずがない。
 なんせ、先日自分が体調を崩したばかりで……もしや、という思いがないとは言えなかったから。
 彼女は受験生。
 しかも、未だ先の見えない選定の真っ只中。
 そんな彼女が今、この重要な時期に倒れでもしたらと思うと、ぞっとしない。
 ……そんなことになったら、間違いなく俺の責任であるに違いない。
 謝って済む問題なんかじゃなくて。
 むしろ、どう手を尽くしたとしても、許されるわけがない。
 どうやって詫びろと?
 どうやって、彼女の未来を償えと?
 たった一度しかないのに。
 彼女は今、未来を自分の手で掴もうとしているのに。
「……無理だけはしないで」
「先生……」
「頼むから。……少しでも具合が悪かったら、迷わず帰るんだ」
 今大切なのは、正直言ってしまえば学校生活なんかじゃない。
 一生の問題である、受験。進路。
 だからこそ、授業をいくつか潰して休養を取ろうとも、誰も文句を言ったりする人間はいないだろう。
 この時期が、どれほど大切か。
 それはきっと生徒以上に、彼女たちに関わる多くの教員が知っているに違いない。
「……大丈夫ですよ」
「けど……!」
「ご心配ありがとうございます。……でも、単なる寝不足で、病気なんかじゃないですから」
 大きく息を吸った彼女が、ふるふると緩く首を振った。
 その、笑み。
 ……そういえば目元には、わずかだがうっすらとクマがあるようにも見える。
 まじまじと見なければ気付かないが、少しだけ顔がこけたようにも……。
「あっ、それじゃあ先に教室に戻りますね」
「……え? あ……うん」
 問おうかと迷ったその瞬間、無情にも響いた予鈴のチャイム。
 わずかに宙を見上げた彼女が頭を下げ、また――……あの儚い笑みを浮かべた。
 ……心配しないで、なんて無茶だ。
 今の彼女を見て『大丈夫?』と言葉が出ないヤツが、どこにいる。
 恐らく、彼女のもっともそばにいるであろう絵里ちゃんからも、同じことを言われているんじゃないのか。
 彼女の反応からして、きっと、同じようなセリフを聞いたのは今だけじゃないはず。
「…………」
 積もる不安。
 拭えない悪寒。
 ……だが、今の俺にできることは……何がある?
 少なくとも、彼女に不要なプレッシャーを与えないようにし、ただただ休息を願うばかり。
 …………倒れたりしないでくれよ。
 彼女が出て行ったドアを見つめたまま、嫌な想像が映像となってふっと頭に浮かんだ。

「………………」
 音のない――……というのは、少し誇張しすぎか。
 だが、普段に比べればずっと大人しい室内。
 先週からよくある光景になった、この、教室での自習という名の元に行われている自由時間。
 教卓にノートパソコンを置き、椅子を置いてそこに座る。
 見渡せば、面々は様々だ。
 こそこそと話をしている者もあれば、真面目に教科書や参考書を開いてペンを走らせている者もいる。
 かと思えば漫画を読んでいたり、はたまた――……机に伏して、眠っていたり。
 ……自分が学生のときはどうだったかなんて考えるまでもないのだが、こうして教師という名の職業に就くと……なんかな。
 自分がいかに普段から教師の目によく映ってなかったのかが、わかるもので。
 ……そりゃ、自分の授業中に寝られたらヘコむよな。
 そんなにつまらない授業なのか、と。
 ……ま、自習中ならば別に何をしようと生徒の勝手だとは思うけど。
「…………」
 そんな中、だ。
 頬杖を付いてあたりを見回していた俺の視線が、1箇所でぴたりと止まった。
 ……張り付くように、と言ってもいい。
 今、もしも誰かが俺を見ていたとしたら、間違いなく『おかしい』と思うだろう。
 それと同時に――……俺が抱えている大きな秘密を、途端に暴かれてしまう可能性も。
「…………」
 そう思ったからというワケではないのだが、ふっと視線が外れた。
 先ほど。
 今からまだ、1時間も経っていない……あのとき。
 準備室で俺の前に立った羽織ちゃんは、誰が見ても具合が悪そうだった。
 少し青ざめた顔といい、力ない口調といい。
 すべてにおいて、いつもとは違う。
 ……不安に駆られるような、そんな姿。
 それをまざまざと見せ付けられていたからこそ、今、視線の先にある彼女の姿を、まっすぐに見つめていられない。

 俺の授業で、堂々と彼女が机に伏すなんてこと……これまで一度あったかどうか。

 痛々しい、としか形容できない様子。
 それを目にして、どうして平静を保っていられる?
「…………」
 椅子へ思い切りもたれてから、こっそりスマフォを取り出す。
 授業中に弄るなんて、まさに御法度。
 生徒がしているのを目にすれば注意せざるを得ない立場にあるからこそ、自身が使うなんてもってのほか。
 ……なんだけどな。
 まさか、これほどたくさんの生徒たちを前にして『大丈夫か?』などと普通に声をかけれるはずがない。
 そんなことしたらどうなるか、なんて考えるまでもなく明らか。
 ……だから。
 そう自分に理由をつけて、今回だけは“例外”という言葉を強く抱く。
 誰に邪魔されることなく、漏洩することなく、確実に彼女だけへ思いを伝える手段。
 それが、俺にはこれ以外に思いつかなかった。
「…………」
 手短に打った文字を、メッセージアプリで彼女へ。
 すると、ほどなくして何かに気付いたらしく、両腕を枕にしていた彼女がゆっくりと面を上げた。
「っ……」
 青い顔。
 先ほど見たモノどころの話じゃない。
 眉を寄せて、かろうじて瞳を開けている……という感じのその姿。
 ……大丈夫じゃないだろ。
 あのとき俺に無理しながら笑って告げた言葉を、改めて否定しておく。
「…………」
「…………」
 スマフォを取り出そうかどうしようかと、そんな迷いを持っていそうな彼女と目が合う。
 ……そんな顔するな。
 彼女が敢えてそんな表情をしているワケじゃないというのは十分わかっているのだが、ついどうしても眉が寄る。
 だけど、メールを送ったのは俺で。
 その内容は、彼女に直接声をかけられないからこそ。
「…………」
 ……見て?
 差出人は、この俺なんだから。
 そう語りかけながら、目を合わせて小さくうなずいていた。
 途端、彼女がわずかに反応を見せる。
 ゆっくりと制服の内ポケットから取り出されたのは、見慣れている彼女のスマフォ。
 窓から差し込む光を受けて、一瞬眩しく光った。

 『保健室行っていいよ?』

 メッセージを開いた彼女には、恐らくこの短い文が見えただろう。
 普段から短文しか打たないが、短くてもきちんと伝わればそれでいいと思う。
 ……それに、正直なところ何をどう打てばいいのかイチイチ考えすぎてしまうというのもあって。
 まどろっこしいんだよな。
 あれこれ打つんだったら、直接電話して告げたほうが間違いないと思うから。
 文字だけじゃ、独特のニュアンスが伝わらず、受け取り方次第でとうとでもなってしまう。
 ……それが面倒臭いっていうのも、当然理由のひとつではある。
「…………」
 1度パソコンの画面に目を落としてから、改めて頬杖を付いて彼女を見る。
 すると、両手でスマフォを弄っていた彼女がふっと俺を見た。
 ……生気ない瞳。
 いつもの彼女らしいキラキラした輝きもなければ、満ち溢れている内からの力も感じられない。
 ……ホントに具合悪いんだな。
 改めてそう思わされると同時に、一層不安が大きくなった。
「っ……」
 だが。
 次の瞬間、彼女はゆっくりと首を横に振った。
 しかも――……無理矢理であるはずなのに、いつもと同じような柔らかい笑みとともに。
 それはまるで『大丈夫』と言ってるようで。
 心配しないで、と俺を気遣っているかのような表情で。
「…………」
 こんなときまで無理してどうするんだよ……。
 明らかにヤセ我慢だとすぐわかるにもかかわらず、彼女はその姿勢を崩さない。
 ……いったい、どうしたら本当の自分を出すんだ……?
 もっと、寄りかかってくれるんだ?
 正直『お手上げ』という以外に言葉が見つからない。
「……はー……」
 とはいえ、彼女がそう言う以上はどうすることもできない。
 つかつかと歩いて行って無理矢理にでも保健室へ連れ込みたいのはやまやまだが、それをしたら……それこそ彼女自身に傷がつく。
 俺がいくら背負おうとそれは自分のためだから構わないが、彼女がとなれば……当然話は別で。
 せっかくここまで来たのに、わざわざ自分の手で打ち崩すようなことをする必要がどこに?
「…………」
 頼むぞ。
 ……頼むから、倒れたりしないでくれよ。
 まったく身の入らないまま強引にパソコンの画面に向き直るものの、頭も手も休止状態。
 ちかちかと点滅を繰り返すバーを見ながら、だけどやっぱり意識も何もかもすべては彼女へと降り注いだままだった。


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