あのあとも、羽織ちゃんは保健室に向かうことな自宅へと帰っていった。
 だが、帰りのSHRのときも、ずっとあの具合悪そうなままで。
 ……心配、なんてモンじゃない。
 “不安”という言葉がしっくり来るほど。
 それでも、俺にできることなど数は少なくて。
 結局は『大丈夫?』などという程度の気遣いしかできなかった。
「…………」
 そして、今日。
 1月最後の本日で、彼女を含めた第3学年の“義務”登校が終わりを告げる。
 明日からは、自主登校。
 となればもちろん――……彼女の声を聞くどころか、彼女の顔を見ることもできなくなる日々の始まりで。
「――……というわけだから、くれぐれも事故なんかに遭ったりしないようにね」
「はーい」
 教壇で続いている日永先生の言葉も、半ばぼーっとしたまま聞き逃していたのに気付いた。
「瀬尋先生、何かあります?」
「え?」
 不意打ちとも呼べる、瞬間。
 にっこりと笑みを向けられて思わず、腕を組んだまま考え込んでいた頭を瞬時に覚醒させる。
「……えー……と」
 彼女が俺を見たことで、当然のようにクラスの視線も一瞬にして俺に集まっていた。
 見渡すまでもなくいくつもの面々がこちらを向いているのがわかって、ぱっと言葉がうまく出てこない。
 ……今日で、最後なのに。
 マトモなことを言えるのは、それこそ――……今日を逃せば、あとは本番の1日だけ。
 そう。
 3月に行われる、彼女たちの卒業式だ。
「……学校生活は実質上今日で終わりだけど……。でも、卒業式まではまだ時間がある、から」
 ふと、1点だけに視線を向けてしまわないよう気をつけ、宙を向いたまま言葉を探る。
 ……自分が、彼女たちと同じ3年のとき。
 当時担任だった瀬那先生は、いったいなんと言葉をかけてくれたか。
 それを思い出すようにすると――……どうしても、彼女の顔が浮かぶ。
 仕方ないことだ、とは思うが……。

「……みんなそれぞれ、悔いの残らないように」

 『みんな』と口では言いながらも、頭ではたったひとりを想う。
 それも、仕方ないだろう?
 未だ進路の決まっていない、不安定な気持ちでいるに違いない彼女。
 その子こそが、俺にとって1番身近で1番……大切な想い子だから。
「残りの時間を、有意義に」
 背を伸ばして声を張ると、自然に笑みが浮かんだ。
 そのとき目の端に映った彼女は、果たして自分と同じように微笑んでくれていただろうか。
 そんなことを、確かに考えながら。
「それじゃみんな、次に会うときまで風邪引いたり怪我したりしないように!」
 俺を見てうなずいた日永先生は、改めて彼女たちに向き直ると同時にびしっと指をさした。
 それはまるで、『あの夕日に向かってダッシュ!』と告げる教師のようで。
 立ち姿には、なんとなくどころか――……ものすごく男気があった。

「私と瀬尋先生のふたりは、またみんなと笑顔で会えることを望みますよ」

 凛とした声が響く、教室。
 声を揃えて『はい!』と応える34名の生徒。
 この光景を見れたこと。
 そして――……。
「ね? 瀬尋先生!」
 この場に、参加者という形でいられたこと。
「はい」
 それを俺は今、心底誇りに思う。


「羽織ちゃん」
 2号館への渡り廊下。
 彼女を見つけた瞬間、反射的に声をかけていた。
「用事?」
「え? あ、えっと……そういうわけじゃないんですけれど……」
 人通りのない、この場所。
 両側が窓だというのもあってか、教室や廊下よりもずっと寒い。
 彼女はというとどうやらもう帰り支度は済んだらしく、マフラーをしっかりと巻いていた。
「……少し、時間ある?」
「あ、はい。それは……」
 あたりを見回したのは、いつものクセから。
 ……しっかり身についたな。
 別に何かやましいことをしてるワケでも――……これからしようとしているワケでもないのだが。
「ちょっと……話したいんだけど」
「……はい」
 少しだけきょとんとしている彼女に囁いてから、白衣を翻して2号館へ向かう。
 そのとき振り返ると、つかず離れずのほどよい距離を保ったままで、彼女がついてくるのが見えた。
 ……相変わらず、よくできた子だな。
 それが嬉しくもあり、少しだけ切ない気もする。
 なんて、そんなモンは俺の我侭にすぎないんだが。

「……先生はごはんもう食べたんですか?」
「いや、まだ」
「えっ! ……だ、ダメですよ! だってもう……お昼休み、なくなっちゃう……」
「平気だって」
「でも!」
「いーから」
 2号館に入ってすぐの廊下で、彼女が眉を寄せた。
 仰る通り、今は昼休み。
 第3学年だけが今日は半日授業なので、担任だろうとそれは通用しない。
 ……だけど。
「どうぞ?」
「……あ。……はい……」
 実験室のドアを開けて彼女を通すと、軽くうなずいてから中に入った。
 放課後ならばここにも人が溢れているのだが……今は違う。
 授業にはまだ早い時間だし、何かほかの予定で使われるなんてこともない。
 そのせいか、やはりここは実験室特有のひんやりした空気が漂っていた。

「……メシよりも、大事なモンがあるだろ?」

「っ……!」
 ドアにもたれるようにして彼女を抱き寄せ、腕に力を込める。
 ここは、ちょうどすぐ横にあるデカい柱のお陰で、死角になる場所。
 高さが同じ1号館の職員室からも見えない。
 ……それが、わかってるから。
 だから、こうして堂々と彼女を抱きしめる。
「具合は?」
「……え?」
 顔を肩口にうずめるようにして囁くと、彼女がわずかに動いた。
 途端に、彼女特有の甘い香りが鼻をつく。
「……大丈夫、です」
「ホントに?」
「嘘じゃないですよ」
 すかさず問うたのがおかしかったのか、緩く首を振りながら笑われた。
 背中から回して肩に置いてある手の甲と、彼女の顔のすぐ横にある自分の頬と。
 さらさら髪が当たって、少しだけくすぐったい。
 ……と同時に、それが心地よくもあるんだが。
「……ただ、ちょっと……。ときどきなんですけど、一瞬『う』ってなることは……」
「『う』?」
「『う』です」
 どんな会話だ、と笑われるだろうな。
 事実、顔を見合わせて話しこんでいた俺たちも、一瞬の間のあとくすくす笑っていたから。
 彼女が言うには、昨日の朝からずっとそうらしい。
 少しキツい匂いに対して、胃がムカつくというか、気分が悪くなるというか。
「……ソースとか、味噌汁とか……。そういうのも、ちょっと」
 困ったように呟いた、その表情が目から離れない。
 ……やっぱり、万全じゃないんじゃないか。
 内心そうは思うが、敢えて突っ込まない。
「……もしかして、俺の風邪が――」
「っ! それはないですよ!!」
「……え」
「……あ……」
 ぽつりと呟いた途端に思いきり否定され、一瞬瞳が丸くなった。
 だが、すぐに少しだけ頬を染めてから、彼女が首を振る。
「……風邪なんかじゃないですから」
「そう?」
「もちろん! ……ちゃんと、気を張ってますからね」
 そう言うと彼女は両腕を曲げて見せ、こちらに身体ごと向き直った。
 その仕草がかわいくもあり、少しだけおかしくもあり。
「……そっか」
 思わず、笑っていた。
「えへへ」
 それを見て応えるように微笑んでくれる、彼女。
 わずかに首を傾げると同時にさらりと流れる髪も、そのはにかむような微笑も……そして声も。
 ……何もかもがここにあるのに。
 なのに――……。
「……あ……」
「…………明日から、いないんだな」
 改めて彼女を強く抱きしめると、ため息が漏れた。
「大っぴらに話ができるとか、こんなふうに抱きしめられるとか……そういうのは確かにこれまでもなかったけど。……それでも姿を見れたり、声を聞けたり……教師と生徒として会話ができるとか。そういうので、かなり救われてたのに」
 髪を撫でるように手のひらを這わせると、心地よいあたたかな髪にすぐ触れた。
 これまでは、毎日だった。
 それこそ、当たり前のように。
 ……だが、これからは違う。
 明日からは、今日まで“当然”だったモノがなく、ただただ彼女の存在を思い浮かべるしかない。
 彼女がいた教室も、席も、何もかも。
 痕跡を見つけるたびに、自分が苦しくなるってわかってるのに。
 ……それでも、恐らく求めるんだろうな。
 明日から卒業式までの……約1ヶ月もの間は。
「……明日も、授業あったのにな」
「………先生……」
「あれほど待ち遠しかった昼休みが、これからは退屈な時間だ」
 自分でも、困ったヤツだってことはわかってる。
 言ってもどうにもならないし、ただ彼女を困らせるだけなのに。
 ……寂しいのは、彼女も同じ。
 それはわかってるし、理解しなきゃならないのに。
 とことん俺という人間は、我侭なんだと思い知る。
「……金曜は……」
「え?」
「金曜は必ず、迎えに行くから」
 両手で彼女の頬を包み、見上げさせるようにして視線を重ねる。
 薄っすらと開いた唇。
 ……それは――……やっぱり、アレか。
「っ……!」
 キスするために、してくれた仕草。
 そう理由付け、唇を落とす。
「……ん……、っ……」
 離れないように、続くように。
 そんな思いを込めながら、何度も何度も口づける。
 ……忘れないように。
 この温もりも、柔らかさも。
 そして――……。
「……ふぁ……」
 ……この、甘い声も。
 何もかもを、自分の身体に刻むように。
 覚え込ませて、霞まないように。
 ……決して、薄くならないように。
「……充電」
 はぁ、と大きく息をついた彼女の耳元で囁くと、一瞬ぴくっと反応を見せてから、俺を見上げた。
「……もぉ……」
 濡れる瞳と、しっかり染まった桃色の頬。
 それを、これでもかというほど、目に焼き付ける。
「……金曜日は……」
「ん?」

「……お家で、待っててもいいですか……?」

 おずおずと見上げられ、瞳が丸くなった。
 絶句。
 まさに、それ。
「……? 先生……?」
「…………」
「っわ!?」
「……あーもー……」
 1度離した彼女を強く抱きしめ、感嘆の息を吐く。
 ……なんて子だ。
 ホントに。
 だからこそ……明日から彼女なしでやっていけるか、それが不安。
 きっとまた暫くしたら、純也さんに『死にそう』と言われるに違いない。
 ……でもまぁ、それも仕方ないか。
「もちろん、大歓迎」
 にっと笑い、彼女の髪に触れる。
 途端に見せてくれた、柔らかい笑み。
 それこそが、俺の力。
 源。
 すべてにおける、原動力。
「……よかった」
 すぐ耳に届いたひとことで、顔が一層ほころんだのがわかった。
 週末には、会える。
 この、愛しくて堪らない大切な彼女と。
 本当はそれこそ“箱入り”にしておきたいが……そうもいかないしな。
 我侭は、これまでの分だけでも十分すぎるほどだから。
「……ありがと」
 耳元で小さく囁いた言葉が、精一杯の今の気持ちを表せる言葉だった。
 その、笑み。
 この、温もり。
 ……愛しい声。
 何もかもこの身に沁み込ませて、明日からの日々に繋げていこう。


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