「祐恭君、はいこれ。例の書類」
「あ、ありがとうございます」
「いーえ」
 翌日も、いつもと同じ時間が流れていた。
 だが、昨日より天気が悪いうえに、すでに日が落ちているというのもあってか、一層寒さが厳しい気がする。
 ……とはいえ、室内にいる人間が言う言葉じゃないのは十分わかっているんだが。
「…………」
 机に向かったまま、ふと手が止まった。
 今日は、金曜日。
 待ちに待ったという言葉が――……やはり、しっくり来る。
 ときは、すでに放課後。
 授業を受け持っていたほかの先生方も帰り支度を始め、中にはすでに姿がない人もあった。
 俺も当然、あとはもう家に帰るだけ。
 そして、彼女と……。
「……眉間に皺寄ってるよ?」
「え?」
 少し明るい声でそちらを見ると、コーヒーを飲みながら純也さんが笑った。
 ……なるほど。
 言われて気付くが、眉間に指を這わせてみると確かにそこには皺があった。
「……男前が台なしっすよ、祐恭センセ」
「…………はは」
 にやっと笑われて、思わず苦笑が浮かんだ。
 昨日から、ずっとこうだ。
 彼が彼なりに俺を気遣ってくれてるのがわかって、申し訳ない。
 ……だけど。
「昨日1日、考えたんで」
「ん?」
「最初にどっちを言うか、決めましたから」
 小さく息を吐いてから告げると、『そっか』と彼がうなずいた。
 謝罪と、感謝。
 まぁ……当然といえば当然なんだろうけれど。
「…………」
 昨夜。
 家に帰ってから俺は、当然ながらずっと絵里ちゃんの言葉だけを考えていた。

『羽織が……産婦人科の病院から出てくるのを見たの』

 ようやく搾り出されたようなあの言葉は、衝撃以外の何物でもなくて。
『制服のままだったから……昨日、帰る途中で寄ったに違いないと思う』
 まっすぐに俺を睨みつけたまま言われ、痛いほど彼女の想いをぶつけられた。
 風呂に入ったときも、普段は簡単にシャワーだけで済ませてしまうことが多い俺が、珍しく湯船にたっぷりと湯を張って。
 縁に頭をもたげながら、もうもうと湯気の立ち込める天井を見つめての熟考。
 ……俺ひとりで結論が出るワケでもなく、俺ひとりが判断できることでもない。
 それはわかっているのだが、それでも当然『まぁいいか』などという考えには及ばない。
 リビングにいるときも、そう。
 ソファに身体まるごと預けながら、テレビをつけてはいたものの上の空。
 いくつモノ情報を垂れ流し、ぼーっとしたままやり過ごす。
 時間の無駄遣い。
 だが、俺にとっては違う。
 ……どうにかして、早く明日にしたかった。
 そして、早く彼女と話をしたかった。
 絵里ちゃんの話は、結局『見た』というだけであって、事実ではない。
 真実は、羽織ちゃんだけが持つ。
 ……だが、スマフォなんていう機械の媒介を通じてするような話なんかじゃもちろんないから。
 だから、早く直接会いたかった。
 ずっとずっと、柄にもなくあれこれ考えていた。
 というのは、流しっぱなしだったテレビから聞こえてくる――……育児用品のCMによって。
 人間ってのはつくづく、自分に不要な情報はどんどん切り捨てているんだなと実感した。
 普段ならば、気にも留めない、目も向けない。
 ……だが、昨日だけは違った。
 嫌でも目が向き、耳が反応する。
 我ながら、それがおかしくもあり――……そして、単純なモンだと少し笑えた。
「祐恭君」
「え?」
 軽く首を振ってから、再び書類に目を通していたとき。
 不意に、純也さんが声をかけてきた。
「……あ」
「その書類はさ、来週の水曜までなんだって」
 見ると、すでに帰り支度を整えている彼。
 あたりを見回してみると、先ほどまでは話をしていた先生方も今は姿が見えなかった。
「だからさ、今日は俺達も上がらない?」
「……え?」
 コートのボタンを閉じ、机に置いていた鞄にいくつかの紙の束をしまった彼が、小さく笑った。
「……いや、でも……」
「平気だって。……ほら、ほかの先生方ももう帰ったし」
「それは……まぁ」
「それに――……もう、イイ時間だと思うだろ?」
「……え……」
 確かに、俺だって本音を言えば帰りたい。
 帰って、彼女と話をする方が先。
 そうは思っていたのだが……まさか、彼がそう言ってくれるとは。
「……そうっすね」
「そゆこと」
 時計を見つめてから笑った彼に、つられて笑う。
 時間はすでに、18時間近。
 今日、彼女がウチに来ることは彼も知っている。
 その上での、言葉だったんだろう。
「それじゃ、帰りますか」
「だね」
 『よし決まり』と手を叩いた彼にならって立ち上がり、自分もロッカーから荷物を取りに向かう。
 そのとき、不意に彼女の言葉が頭で響いた。

 『金曜日は、家で待ってますね』

 あのときの柔らかい表情が目に浮かぶたび、正直苦しい。
 無理してたんだろうか。
 それとも、何かすでに自分の中で実感があったんだろうか。
 もしくは――……。
「…………」
 コートを羽織ると、目の前がハッキリ見えた。
 まずは、何をおいても家に帰ること。
 ……そして、彼女からきちんと話を聞くこと。
 結論を出すのは、それから。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
 うでにドアの所に立っていた彼の元へ小走りで向かうと、小さな音とともに部屋の明かりが消えた。
 目指すのも欲しいのも、ただひとつ。
 彼女のいる、その場所だけ。

 いつもと……いや。
 昨日とまったく同じ調子でマンションのエレベーターを降り、まっすぐに伸びている廊下を歩く。
 ……果たして、彼女は来ているだろうか。
 少しだけ不安があるといえばそうなのだが、敢えて電話をすることはしなかった。
 ただ、一応……帰ることだけはメールしたんだが。
 返事はまだ、来ていない。
 アルコープの門扉を開け、玄関に鍵を差し込む。
 少し重たい金属音とともに開いた、鍵。
「……っ……」
 そのまま流れ作業でドアを開けると、すぐに、自分のモノとは違う靴が目に入った。
 ……いる、のか。
 それは間違いないんだな。
 そう思うと、少し緊張しているのに気付いた。
 彼女と会えるのは、嬉しい。
 それはもう、どんなモノよりも。
 ……だが、いったいどんな顔で会えば……?
 ガラにもなくそんなことで悩んでいる自分が、やはりおかしい。
「おかえりなさい!」
「……あ」
 靴を脱いで上がろうとしたとき、廊下の角を曲がったところから、彼女が嬉しそうに声をかけてくれた。
 ……だが、しかし。
 ぱたぱたと小走りでこちらに来たのを見て、思わず瞳が丸くなる。
「っ……走らなくていい!」
「え?」
 途端、彼女の足が止まった。
 少しだけ驚いたような顔で、両手をきゅっと胸の前に重ねる。
「あ……いや、その……」
 そんな彼女の格好を見て、慌てて我に返った。
 『なんでもない』と付け足しながらも、明らかになんでもない雰囲気の声じゃない。
 咄嗟に出たひとこととはいえ、確かに……妙だ。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
 彼女の元まで歩いて向かうと、すぐに『どうしたんですか?』と聞かれた。
 ……そりゃそうだろう。
 誰だって、いったいなにごとかと思うはずだ。
「……ほら、その……転んだら困るだろ?」
「……もぅ。転びませんよ?」
「いやまぁ……一応ね」
 こほん、と軽く咳払いをしてから首を振り、さりげなく彼女の肩を抱いてリビングに向かう。
 そのとき、ちらりと視線が彼女の腹部に落ち、なんとも言えない気持ちになった。
 ……だがしかし。
「少し薄着じゃない?」
「え?」
「ほら、身体冷やしたら困るだろ?」
 相変わらず、肩の出そうになっている服。
 それが少し不安で見つめていると、ぱちぱち何度かまばたきをした彼女がおかしそうに笑った。
「…え?」
「先生、どうしたんですか?」
「どう……って?」
「なんか今日、ヘンですよ?」
「……そう?」
「うん」
 鞄を置いてからコートを脱ぎ、手を出してくれていた彼女に渡す。
 すると、やっぱりくすくす笑いながら、『先生らしくないです』などと再び口にされた。
 ……はたして。
 俺が彼女を気遣うのは、そんなにヘンなんだろうか。
 ……そりゃまぁ確かに、普段から俺が優しくないと言われれば否定はできないが。
「ごはん、できてますよ」
「あー……うん」
「……あ。でも、先に手を洗って来てくださいね」
「わかった」
 まるで子どもだな。
 寝室に戻って簡単に服を着替えた俺に、彼女がかけて来た言葉がだ。
 なんか……笑える。
 普段と違って彼女と一緒に帰ってきたワケじゃないからか、どうも“夫婦”みたいな雰囲気がそこにあって、また笑みが浮かんだ。
「……っ……と?」
 言われた通り洗面所へ行こうとした瞬間、ふと、リビングのテーブルに何か置いてあるのに気づいた。
 先ほどは気付かなかった、それ。
 だが、少し離れているここからでさえしっかりと確認できるモノで、思わず喉が鳴る。
「……羽織ちゃん」
「はい?」

「……何か……俺に話すことない?」

「……え?」
 テーブルから、キッチンにいる彼女へ視線を向ける。
 普段と違って、髪をひとつにまとめている彼女。
 それがなんだか、“特別”めいた雰囲気があって、なんとも言えなかった。


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