「……えっと……」
「っ……!」
 彼女のほうへ歩いて行ったとき、その手元にあるモノが見えて思わず目が丸くなった。
「あっ……!」
「重たいモノは持たなくていいって!」
「え? あ、で、でも……っ」
「いいから!」
 手元にあったのは、たっぷりと湯の張られたデカい鍋。
 昔耳に入れた言葉が、こういうときは自分でも驚くくらいすんなりと出てくる。
 普段ならば、考えようとしても出てこないかもしれないのに。
 やはり人間というのは、いざってときはそうなるようにできているのかもしれない。

 重たい物は持たせない。
 身体を冷やさせない。
 転ばないように気をつけさせる。

 そんな三か条めいた言葉を昔誰かから聞いた気がして、咄嗟に身体が動いていた。
「……先生……?」
「用があったら俺がやるから。なんでも言って?」
「あの、でも……」
「いーから」
 鍋をコンロに置き、火を点けるべく少ししゃがむ。
 するとそのとき、少し上から笑い声が聞こえた。
「もぅ。先生ってば、本当にどうしたんですか?」
「……いや、それは……」
「なんだか、困っちゃう」
 手が止まった俺に代わって、彼女が慣れた手つきで火を点ける。
 ……そういえば『火を見せるな』っていうのもあったか。
 いや、あれは火事のことだったような気もするが……。
「……それで?」
「え?」
「何か、俺に話すことはない?」
 シンクで洗い物をする彼女に、改めて訊ねる。
 すると――……わずかに、彼女の表情が変わった。
「……え……っと」
「うん」
「その……」
「……うん……?」
 息がかかりそうなほどの距離まで近づき、すぐそこで返事をする。
 少し、近づきすぎだとは思う。
 そして同時に――……見つめすぎだとも。
 だが、こればかりはしょうがないだろう。
 なんせ、どうしても聞きたかったことだし、それに――……もう、目にしてしまったことでもあるから。
「……あの――……え?」
「とりあえず……手、洗ってくるよ」
「あ、はい」
 そういえば、それがまだだったことを思い出して彼女の横をすり抜ける。
 ……病気なんかにさせるワケにはいかないからな。
 受験生でもあり、そして――……大切な身体でもあり。
 そんなことを考えながら洗面所に入ると、普段より真剣な顔をしている自分が鏡に映っていた。

「……あ」
「ごはんにしちゃっていいですか?」
「うん」
 ものの数分と経っていなかったはずなのに、リビングのテーブルには幾つもの食器が並べられていた。
 温かそうな湯気の立つそれらは、どれもこれもうまそうで。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
 テーブルに着くと同時にフォークを渡され、なされるがままに動く。
 ……ふと横を見ると、当然ながら隣には彼女。
 少しだけ嬉しそうな……どこか、照れているような。
 そんな表情が目に入って、どうしてもそこから視線が動かなくなる。
「……えっと……」
「…………」
「先生……?」
「え?」
「何か、あったんですか?」
 まじまじと見ていた俺が気になったらしく、困ったように笑った彼女が、首をかしげた。
 その仕草もかわいく見えて、だが……同時に眩しくも映る。
「それは……こっちのセリフなんだけど……」
「え?」

「これ」

 そう言って彼女に見せたのは、テーブルの下に置かれていた分厚い雑誌。
 彼女が普段ウチで雑誌を読むことなんてまずなかったのだが、まさか最初に見かけるのがこの手のモノだとは。
 ……だが、だからこそ確信めいた思いも広がる。
 ああ、やっぱりそうだったのか……と。
「……それ……ですか?」
「うん」
 表紙から、タイトルから。
 すべてからひと目で内容がわかる、雑誌。
 ……それが、コレ。
 この、育児用品が網羅されていそうな雑誌だった。
「……これはどうした?」
「えっと……」
 テーブルの上にそれを置いてから、改めて彼女を見る。
 ……ずっと……もう、ずっとこのときを待ってたと言ってもいい。
 彼女と、きっちり話すこと。
 ちゃんと、ふたりで決めること。
 それを俺は、ずっと待ち望んでいた。

「……もしかして、先生……知ってたんですか?」

 小さく『あ』と言ったあとで、彼女がおずおずと俺を上目遣いで見上げた。
「……ん」
 心なしか、彼女の瞳が揺れているように思える。
 ……それは……やはり、そういうことから来るのか?
 まだ何を言われたわけでもないのだが、なんとなくそんな気がした。
「……そうだったんですか。それじゃあ……改めて話す必要はないですよね」
「え?」
「実は、先生と一緒に決めようと思って……これ、持って来たんです」
 1度目を伏せた彼女。
 だが、次の瞬間には本当に嬉しそうな顔をしてから、改めてカタログに手を伸ばした。
「これなんか、どうですか?」
「……これ?」
「はい。かわいいんじゃないかなぁと思って」
 折り目が付いていたページをめくりながら、彼女がにこやかに俺を見上げる。
 そこに載っているのは、いかにもという感じのするベビー服で。
「あっ、でも……こっちのほうがいいのかなぁ」
「……あー……」
「でもでも、洋服なら何枚あってもいいですよね?」
「…………そう……だな」
 嬉々として案を出す彼女に、まさか今さら『本当なの?』と聞けるはずもなく。
 ……だが、しかし。
 どうしてこうも、明るいんだ……?
 というか、話からしてすでに生むことが大前提のような感じで。
「…………」
 あれこれと悩みすぎてるのは、俺だけなのか……?
 はたまた、これこそが母となる女性の強さなのか。
 心底幸せそうな顔でページをめくる彼女を見ていたら、正直、言葉が何も出てこなかった。
「あ、これなんかどうですか? かわいい――……っ……え?」

「ごめん……!」

 彼女を、精一杯力をこめて抱きしめる。
 途端、重たそうな音を立てて雑誌が床に落ちた。
「え……? せんせ……?」
「……俺のせいなのに。ひとりで嫌な思いさせて……ホントにごめん」
「先生……?」
 彼女に落ち着いて話を聞いてもらおうと話し出したのだが、いつしかそれは自分を落ち着かせるようにしていたんだと気付いた。
 ……俺のほうが、ずっと動揺してて情けないな。
 彼女は、こうも凛としているのに。
「将来のことはもう決めたみたいだけど……それでイイのか?」
「……え?」
「確かに、俺だって見たくないワケじゃないし、いつかはそうなることをずっと考えてたから……嫌なはずはないけど」
 ゆっくりと身体を離してから両手を肩に乗せると、丸い瞳がぱちぱちとまばたきを繰り返しながら俺を見つめていた。
 ……そこにあるのは、まさに決意の表れ。
 曲がることのない確かなモノが、伝わって来る。
「幸せにするから」
「……先生……」
「だから……もう、ひとりで強がらなくていいんだよ?」
 まっすぐに目を見て呟くと、瞳を丸くした彼女が頬を染めた。
 照れくさそうに、恥ずかしそうに。
 それに伴って、視線が外れる。
「……ありがとう、ございます……」
「それは、こっちのセリフ」
「えへへ。でも、なんだか……照れちゃいますね」
 再び柔らかく腕を回し、引き寄せるように抱きしめる。
 腕の中で囁かれる言葉が温かくて、自然に顔がほころんだ。


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