順番に、呼びあげられていく名前。
 それに従って、それぞれが教卓にいる日永先生の元へと向かう。
 シンとしているわけじゃないけれど、みんなもあまり大きな声で喋っているわけじゃない。
 やっぱり……それぞれが、思うところ……あるよね。
 笑顔ながらも、ひとりひとりへ懸命に話しかけている日永先生を見ていたら、少しだけ気持ちが震えた。

「瀬那 羽織」

「っ……はい!」
 ゆっくりと顔を上げた先生が、笑みを浮かべて名前を呼んだ。
 ……本当に、これが最後。
 先生に呼んでもらえる、最後の名前だ。
「卒業おめでとう」
「……ありがとうございます……」
 真っ先に祝ってもらえた。
 そして、ゆっくりとこちらに向かって証書が差し出される。
「1年間、本当によくがんばったわね」
「……それは……」
「ホントのことよ? ……大学も、本当にがんばったじゃない」
 小さくも、優しい穏やかな声。
 まっすぐ私を見つめてひとつひとつ言ってくれるのが、すごく嬉しくて……だけど、同時にすごく寂しくなる。
「七ヶ瀬を狙うなんて、本当に大したものよ?」
「……でも、私……」
「大丈夫。瀬那がどれだけがんばってたかっていうのは、先生たちもちゃんとわかってるから」
 いつだって、遠ざけてきた大学。
 私には無理だって決め付けて、行きたい学部があるのに、見ないふりをしてきた。
 ほかにもあるはず。
 私に合っていて、無理をしなくても入れてもらえるかもしれない大学が。
 名前よりも何よりも、偏差値とばかり睨めっこしてきた。
 滑り止めばかりをたくさん増やして、本命の受験校をいつまでも決めないままで。
 ――……でも。
「瀬那は、落ち着いてやればちゃんとできるんだから。……慌てないで、まずは落ち着くことが大事よ?」
「……先生……」
「あなたは、陰日なたがなくて……本当に優しい子。少しだけ自信がないところがあるけれど、実力はちゃんと伴ってるのよ?」
 あの日。
 祐恭先生に言われて、自分がただ逃げていただけだと気付いた。
 本当は、行きたかった。
 だけど……って。
 傷つくのが怖くて、落ちることばかり考えて、高みを目指そうとしてなかった。
 無理だとか、できないとか、そんな理由ばかり探して付けて。
 ズルかった自分に、気付いた。
 ……でも。
 改めて進路相談をしたとき、日永先生は微笑んでうなずいてくれた。
 そして、言ってくれたんだ。

『一緒にがんばろう』

 って。
 そのひとことが嬉しくて、否定しないで丸ごと受け入れてもらえたのが、何よりの自信になって。
 先生がいなかったら、きっと今の私はいない。
 だから……嬉しかった。
 先生が、こうして私を見てくれていたことが。
 私はずっと、ひとりぼっちで受験に臨んでたんじゃないんだってことが……ちゃんとわかって。
「瀬那は、ずっとがんばってきたものね」
「……っ……」
 優しい、お母さんみたいな笑顔。
 うなずきながら囁いてくれた言葉に、想いがぐっとこみ上げる。
 ひとりひとりをちゃんと見つめてくれていたからこその言葉を、みんなにかけてくれているんだろう。
 どうりで、証書を手に戻ってくるみんなが、半分泣きそうな顔をしていると思った。
「……せんせぇ……っ」
「ほら。泣いたりしないのよ? これから、もっと泣くときがたくさん出てくるんだから」
「っ……でも……!」
「悲しい別れじゃないでしょ? いつだって、私はここにいるんだから。……迷ったら、会いに来なさい」
 ね? と頭を撫でてくれながら、先生が優しい言葉をさらに続ける。
 思わずぽろりと涙がこぼれて、ただただうなずくのだけが精一杯だった。
「ありがとうございます」
「それは、こっちのセリフよ。……ありがとうね、瀬那」
「……せんせ……」
「がんばったわね。……卒業おめでとう」
 改めて頭を撫でられ、すぐ近くで明るい声が聞こえた。
 情けないことに嗚咽が出始めて、ちゃんと笑えない自分。
 だけど先生は、それでも笑って頭を撫で続けてくれた。

 大丈夫。わかってるから。

 まるで、そう言ってくれているかのように。
「……はぁ……」
 証書を手に席へと戻ってから、ようやく顔が上がった。
 ……やっぱり……寂しい。
 この教室に二度と戻れないこともそうだけど、日永先生と……さよならしなきゃいけないってことが。
「……あ……」
 ぐしぐしっと涙を拭ってから顔をあげると、絵里が名前を呼ばれて教卓に向かう所だった。
 ……絵里は……何を話すのかな。
 真面目な面持ちで、しっかりとうなずいている彼女。
 だけど――……やっぱり途中から見せたのは……泣きそうな顔で。
 そのたびに日永先生は、私にしてくれたみたいに、頭を撫でていた。
 ホントに……みんなにとっての、お母さんなんだよね。先生は。
「…………」
 ふと、そんな日永先生から少し離れた場所に立っている、祐恭先生へと目が向く。
 ……先生は……どんなふうに見てるのかな。
 私のときもそうだったけれど、目が合ったとき微笑んでくれただけで、特に何かを言ってくれることはなかった。
 でも、1年間ずっと一緒だった先生。
 みんなにとっても……そして、私にとっても。
 当然だけど、特別じゃないはずがない。
「以上、34名。無事に卒業証書授与が終わりました」
 凛とした声でそちらを見ると、満足げな顔をして胸を張っている日永先生がいた。
 その顔は、やっぱりどこか自信に溢れているような気がして、こっちも笑みが浮かぶ。
「ほらほらー。アンタたち、いーい? 泣かないのよ? 今生の別れじゃないんだから」
 ぱんぱん、と手を叩いた彼女の声は、いつもと一緒。
 元気で明るくて、こっちまでパワーをもらえるような、本当に心強さそのもの。
 ――……だけど。
「……あら……?」
 そんな先生を見つめたまま、みんながゆっくりと立ち上がる。
 ずっと、思ってきた。
 ……ずっとずっと……みんなで、一緒に。
「日永先生」
「……え……?」
「瀬尋先生」
「っ……俺も……?」
 クラス代表の子がふたりを呼んでから、せーの、と小さく令をかけた。

「1年間、ありがとうございました……!!」

 34人、全員が声を揃えて頭を下げる。
 それからゆっくり面を上げて――……でも、それだけじゃ、終わらない。
 少しだけ瞳を丸くして顔を見合わせているふたりを見たまま、少しだけクラスからも笑いが漏れた。
「おふたりに、私たちからのお礼を込めて……1曲贈らせていただきたいと思います」
「……あら、何よ。『贈る言葉』でもしてくれるの?」
「ううんっ。もっとイイやつ」
 ちっちっ、と指を振った子に、日永先生がおかしそうに笑った。
 ふと隣を見てみると、同じように並んだ祐恭先生も……やっぱりおかしそうで。
 ……でも。
「いくよ?」
 だからこそ、私たちにも笑みが浮かぶ。
 どうしても、この歌だけは笑顔で。
 みんなで話し合ったとき、それも一緒に決めたから。
「せー……のっ!」
 静かに、代表が令を告げた。
 ――……途端。
 34の声が混ざって、なんともいえないハーモニーを紡ぎだす。

 『ありがとう さようなら』

 これを卒業式に歌ったのは、いったいいつ振りだろう。
 思い出せるのは、確か……小学校のときだったような。
 5年生のときに新任で就いてくれた先生だったからこそ、みんなでこれを歌ったら、一緒に泣いてくれたっけ。
 ……あれから、ずいぶんと経って。
 今では――……高校も卒業。
「……っ……」
 先ほどまでとは打って変わって、眉を寄せて聞き入っている日永先生が見えた。
 どうしても、これを歌おうって決めたんだよね。
 ……あれは、ずいぶん前のこと。
 ただ物を贈るよりも……ずっといいんじゃないか、って。
 それで、この歌に決めた。

 ありがとう さようなら……先生
 叱られたことさえ あたたかい
 新しい風に 夢の翼ひろげて
 ひとりひとりが 飛びたつとき

 ありがとう さようなら 先生

「先生、ありがとーー!!!」

 34の声が重なり、大きな響きを持って彼女に届く。
 途端、ハンカチを口元に当てていた彼女が、首を振ってそのまま目頭を押さえた。
「……せんせ……っ……」
「せんせぇ……!!」
 わぁっと教室が沸き、ガタガタと音を立ててみんなが教卓に集まる。
 嗚咽もあれば、涙声もあって。
 中心にいる先生方を囲むみんなの顔にも、やっぱり、寂しさや切なさ……そして涙があった。
「アンタたち……何よ、ちょっとぉ……最後にこんな……っ……」
「だって……! だって、先生ぇっ……!」
「ああもうっ! 最後は絶対泣かないって決めてたのに!!」
 ぼろぼろと涙を流しながら、日永先生が声を張りあげる。
 そんな姿を見ているこっちも当然ながら涙がこぼれて、いつしか小さな嗚咽が交じり始めた。
「せんせ……っ……先生、ありがとう……!」
「先生ありがとぉっ……!」
「先生っ……!」
「せんせぇ……ッ……!!」
 口々に彼女を慕う声が続き、何度も何度もそのたびに彼女がうなずいてくれる。
 ……そんなとき。
 ふと日永先生が顔を上げて――……隣にいた祐恭先生を見つめた。
「…………」
「……え……?」
「みんなー!! 瀬尋先生が泣いてるわよーー!!」
「えぇーー!!?」
「っ……!」
 途端。
 それまで日永先生に注がれていた視線が、わぁっと一気に彼へ向かった。
 慌てて瞳を丸くした彼が、手と首を振る。
 ――……だけど。
 確かに、気持ちその瞳は……少しだけ潤んでいるようにも見えて。
「先生、泣いたのっ!?」
「うっそ、感動してくれた!?」
「マジでー!?」
「ちょっ……いや、だから……っ!!」
 あれよあれよという間に、形勢逆転。
 慌てふためく彼をよそに、日永先生はちーんと鼻をかんでいた。
「……はー」
 軽く目元を押さえて涙を拭った彼女が、ひと息ついてから彼へと向き直る。
 ――……と。
「こらー! アンタたち、静かにしなさぁーい!!」
 いつもと同じ調子で、大きな声を張りあげた。
「ったくもー。先生が困ってらっしゃるでしょ! ほらほらっ、席についたついた!」
「えー? でも、先生が言ったんじゃ……」
「いーから!! ほらっ! プリント配るわよー!」
「……はぁーい」
 まるで、いつもと同じHRさながら。
 格好こそいつもとは違うけれど、でも……これじゃまったく『卒業式』の『そ』の字もない。
 ……でも、このほうがいいのかな。
 だって、だからこそ『らしいな』って思えるし。
「それじゃっ、改めて。プリント配るからねー」
 元気にハツラツとした声をあげた、日永先生。
 教壇に立つその姿を見ながら、誰ともなく笑い声があがった。


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