(おごそ)か。
 まさにその言葉しか当てはまらない、雰囲気の中で卒業生として紹介されて、予行のないほぼぶっつけ本番の式に臨む。
 卒業という形で送り出されるのは、中学以来。
 だけど……なんだかやっぱり気持ち的にはあのときとまったく違って。
 カノンが静かに流れる館内に日永先生を先頭にして進むと、ステージの正面に整然と並んでいる、普段座っている椅子とは違う席が見えてきた。
 保護者席と在校生の席。
 その間に作られた、狭い通路。
 統一されている色の敷き物の上を歩く音が、なんだかやけに大きく聞こえて。
 全卒業生が揃ったところで礼をしてから椅子に座ると、身体が震えた。
 ……寒さだけのせいじゃない。
 いつもの集会のときと違う教頭先生の声で、今日を改めて実感させられたから。

 第54回 卒業証書授与式

 1番前にあるステージの奥。
 そこに掲げられている文字を見ると、やっぱり切なくなる。
 ……本当に最後。
 今日でもう、ここに来ることもないんだ。
 こうして……長い話を聞くようなことも。
 そして――……。
「…………」
 この、制服を着ることも。
 ふと視線を落とすと、すぐに目に付く赤い花。
 胸ポケットよりも下。
 裾に近いその場所にある、これ。
 ……そう。
 卒業式や入学式の恒例になりつつある、赤いカーネーション。
 造花なのはもちろんわかっているけれど、でも、やっぱり特別な想いがあった。
 『ご卒業おめでとうございます』なんて書かれている、リボン。
 改めてその気にさせられるほど強い力と意味を持つこれを、今日までずっと、私は見るだけの立場にあった。
「…………」
 指先で触れれば、すぐに少し硬い感触が当たった。
 ……最後なんだよね。
 これを付けるのも、この制服を着て、堂々とこの学校に入れるのも。
 …………生徒でいられるのも。
「…………」
 各来賓による、長い式辞。
 今日の天気になぞらえたものであったり、ここ数日の陽気についてだったり。
 どうしても変わり映えのないと思ってしまう儀礼で、耳がそちらへとかたむいてくれない。
 ……最後くらい、ちゃんと聞かなきゃ。
 そう思って臨んだのに、やっぱり自分は不真面目なんだなと実感する。
「……っ……」
 ぼんやりとした頭で正面に向き直ると、同時に起立の号令がかかった。
 みんなと同じように立ち上がり、同じように頭を下げてから……腰を下ろす。
 式も半ばまできた、現在。
 残すはいよいよ卒業証書の授与と、送辞と答辞。
 そして――……校歌斉唱。
 初めは、馴染めない歌詞ばかりだった。
 それまでの3年間親しんできた中学の歌詞が印象強かったというのもある。
 ……でも、今は違って。
 自然と覚えた、3番までの校歌。
 でもこれからはもう、歌うこともない。
「…………」
 再び響いた、起立と礼の令。
 従ってから席に着くと、教員席に設けられたマイクの前に、教頭先生が立った。

「卒業証書、授与」

 静かな館内に響き渡った、凛とした声。
 同時に、『卒業式』を彷彿(ほうふつ)とさせる音楽が静かに流れ始めた。
 大勢の卒業生がいるから、毎年ひとりひとりが壇上に上がることはなくて、クラスの代表の子がそれぞれ受け取るだけ。
 ……でも、名前だけは呼ばれる。
 呼ばれたら、返事をして立ち上がる。
 …………高校最後。
 もちろん――……日永先生に名前を呼ばれるのも。
 1組のクラス代表が壇上に上がって、証書を受け取りながら頭を下げた。
 と同時に、すぐ隣に残っているほかの1組の子も、礼を。
 ……次は、2組。
 そう思いながらふと視線を動かすと、マイクのそばに日永先生が一礼してから立つのが見えた。
 手に広げているのは、クラス名簿。
 なんとも言えない面持ちで見つめた彼女が――……ゆっくりとマイクに向かって口を開いた。

「続きまして、2組」

 順に呼ばれていく、名前。
 1年間慣れ親しんだ、クラスみんなの。
 ……すぐに呼ばれる。
 彼女に呼んでもらえる、公の場では最後の自分の名前。
 そう思ったら、じんわりと心の深くが反応した気がした。
 ……やっぱり……切ない、な。
 もう終わりなんだ。
 この式が終わったら、本当の意味での……最後のHR。
 それを最後に、私たちはそれぞれの道を歩みだす。
 わかっていたこと。
 ……だけど……。

「瀬那 羽織」

「っ……はい……!」
 涙声にならないように。
 震えたりしないように。
 心を奮い立たせ、ハッキリ応えて立ち上がる。
 私からは見えないけれど、きっと……後ろの保護者席には、お母さんとお兄ちゃん、そして葉月の姿があるだろう。
 そして――……教員席からは、祐恭先生が。
 それぞれ、私を見てくれているだろうから。
 ……だから、ちゃんとしたかった。
 最後だからこそ、ちゃんと……イイところを見てもらいたかった。
 日永先生の声だけが響く、館内。
 じきに絵里の名前も呼ばれ、凛とした返事が聞こえた。
 2組でいられるのは、今日で最後。
 そう思ったらやっぱり……ステージに掲げられていた幕がぼんやり滲んだように見えた。

「ねえねえ、写真撮ろうよー!」
 式が終わったあと、戻って来た教室。
 先生たちの姿がまだないせいか、どのクラスからも大きな声が聞こえていた。
 卒業後の連絡を交わしたり、寄せ書きをしたり。
 はたまた、写真を撮っていたり。
 ……と、本当にそれぞれが思い思いの行動に出ている。
 もちろんそれは私も例外なんかじゃなくて、地元を離れる子たちと話したり連絡先を教えてもらっていたりした。
「羽織」
「……え?」
 そんなときだ。
 少しだけ控えめに、絵里が肩を叩いてきたのは。
「どうしたの?」
「ね、少し……話さない?」
 薄っすらと笑み浮かべつつも、やっぱりどこか控えめ。
 ……いつもと、違うような……。
 そんな彼女を見たままで、思わず瞳が丸くなる。
「……へへ。今日はいいよね?」
 あとをついていくと、彼女はベランダへシューズのまま降り立った。
 普段ならば、こんなところを先生に見つかりでもしたら大変。
 ……でも、今はまだその先生の姿もない。
 それに、きっと絵里も特別な想いがあったんだと思う。
 『今日くらいは大目に見てくれるわよね』なんて、小さく笑ったから。
「……今日で最後ね」
 手すりに両腕をのせて、伸ばすように手のひら突き出した彼女が、ぽつりと囁く。
 冷たくはない風。
 ……ううん。
 どちらかというと、まるで春みたいな。
 どこからか甘い花の匂いが漂ってきているような気もして、顔がほころぶ。
「……だね」
 すぐ隣に並んで、同じように手すりへ両腕を載せる。
 ……いつだったかな。
 以前、絵里と一緒に、こうしてここで話したときは。
 今日は、いつもと違って渡り廊下を歩いてくる人影も、中庭を通っている人もいない。
 こんなに天気がいいのに。
 ……なんだか、人が目につかないっていうのは、不思議な気持ちだ。
「いろいろあったわね」
「……ん」
「でも……たくさん、思い出ができたわよね」
「……うんっ」
 さらりと風を受けてなびく、絵里の髪。
 光が透けてきらきらと光って、すごくきれいだった。

「後悔なんて、ないわよね」

 くるりと、絵里が身体ごと振り返った。
 その顔には、とても満足げな笑み。
 ……だから、こっちにも当然笑みが浮かぶ。
 しっかりとした、自信を前面に表しながら。
「もちろんっ」
 にっこり笑って、大きくうなずく。
 たくさん、あった。
 まるで、人生におけるすごく大切なたくさんのことが、この1年に凝縮されていたかのように。
 絵里とは、これまで以上に一緒の時間をすごした。
 同じ1年前まではできなかったようなことも、たくさんした。
 話だって……もちろん。
 これまでは言えなかったことも、聞けなかったことも、全部話した。
 ……変わったんだな、って思う。
 私も、絵里も。
 すべてにおける――……いろいろな面で。
「高校は卒業だけど……でも、人生はこれからよね」
 にっこり笑った絵里の顔にも、やっぱり自信が満ち溢れていて。
「これからも、よろしくね」
 ありふれた言葉ながらも、口にすると、実感が湧く。
 ……これからも。
 いつまでも、ずっと。
 そんな願いを込めて、自然に差し出した手のひら。
 すると、少しだけ瞳を丸くしてから、おかしそうに絵里が笑って握り返してくれた。
「ほらー! 席につきなさーい!」
「……あ」
「わっ」
 最後の、最後……かもしれない。
 教室に入って来た日永先生の、一喝を聞けるのも。
「……あ!? こらっ、皆瀬、瀬那!!」
「う」
「見つかった……」
「そこに上履きで降りるなって、何度も言ったでしょうがー!」
「すっ……すみません……!」
「ごめんなさいー!」
 教室の入り口からびしぃっと指差されて、思わず固まる。
 ……ま……まさか、最後の最後で怒られるなんて、思いもしなくて。
「ひぃ……っ」
 どうやらそれは絵里も同じだったらしく、眉を寄せながら『センセー厳しい』なんて呟くのが聞こえた。
「……ったくもう」
 荷物を抱えて入ってきた彼女のあとには、いつもと同じように彼の姿があった。
 ……朝と同じ、あの……スーツ。
「……ぅ」
 そんな彼がくすくすおかしそうに笑っているのが目に入って、少しだけ頬が赤くなった。
 ……何も、最後の最後でヘンなところ見られなくても……。
 慌てて絵里と一緒に席へつくと、ため息をついた日永先生が、教卓の上に重たそうな荷物を置いた。
 それは――……青い、皮の表紙。
 まさにあのとき。
 式の最中間違いなく目に入った、あの……モノで。

「それじゃ、まずは……卒業証書を渡します」

 先ほどまでの雰囲気とは一変して、にこやかな笑みとともに宣言された言葉。
 聞いた途端、当然のようにやっぱり……少しだけ切ない気持ちがこみあげてきた。


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