「……いい天気」
 ドアを閉めてから鍵を掛け、バッグを肩にかける。
 冬から春へと移りゆく、季節の始まり。
 今年は本当に暖かくて、今日のこの日は特別そう思えた。
 眩しいという言葉がぴったりの、今朝。
 少し顔を上に向ければ、白い光に照らされた雲が輝き、本当に気持ちのいいすっきりした空が広がっている。
 こんな天気の下で卒業式ができるなんて、本当にいい日だな。
 いろんなものに祝福されているようで、自然に笑みが浮かんだ。
 ――……そのとき。
「……え……」
 石の外階段を下りようとした足が、ぴたりと止まった。
 同時に瞳が丸くなり、1点から視線が動かなくなる。
「……どうして……」
 ようやく搾り出せたのは、その言葉だけだった。
 微かに、唇が震えているようにさえ感じる。
 ……寒さからじゃなくて……きっと、驚きと喜びから。

「おはよう。羽織ちゃん」

 にこやかに笑った彼が、私を確かに見上げていた。
 日差しを受けて、きらきらと眩しいくらいに輝いている、彼の車。
 ……そして、先生その人も。
 普段と違うダブルのスーツを着込んでいる彼は、どこか――……あの、特別な日を思い出させる。
「先生……どうして……」
「最後だから」
「……え……?」
「一緒に登校できるのも――……みんなに、秘密にできるのも」
 今日までだよ。
 私を見つめたままで1段1段ゆっくりと上ってくる彼から、視線が外せない。
「……内緒の関係も、今日でおしまい」
 にこやかな笑みが、普段と違って見える。
 ……格好のせいなのかな。
 ちょうど私のひとつ下の段まで来た彼が、両足をそこで揃えた。
 …………うそ、みたい。
 先生がここにいるなんて。
 こうして……会いにきてくれる、なんて。
 でも、彼がしてくれたことはそれだけじゃなかった。
「っ……」
「卒業おめでとう」
 ガサ、という音とともに、目の前が一色に染まった。
「…………」
 何も、言葉が出てこなかった。
 目の前に差し出されたそれを見たまま、言葉にもならず、行動にも移せず。
 丸くなった瞳で見つめるだけが、今の私には精一杯だった。
「……なんだよ。そんなに意外?」
 少しだけ私を覗き込むようにした彼が、苦笑を浮かべた。
「まぁ、ね。……確かに、俺が花買うなんて初めてだし、こんなふうに……これだけまとめてもらうってのも、すごい恥ずかしかったけどさ……」
「っ……あ、あの……そういうわけじゃ……」

「でも」

「え……?」
「こうして迎えに来るものなんだろ? ――……新しい朝は」
「っ……!」
 そのとき彼が浮かべた、微笑み。
 それは、これまで見たことのないほど、優しくて……本当にきれいで。
 瞳の奥が、じんわりと潤んだ。
「……泣くのはまだ早いよ?」
「だ……って……」
 受け渡された、花束。
 見事なまでにほかの色がない、深い赤だけの薔薇。
 ……これまで、こんな大きな花束をもらったことなんてなかったのに。
 まさか、『いつか』と願っていたことが現実に起きるなんて、思いもしなくて。
「……せんせぇ……」
 ぼろぼろと涙をこぼしながら、彼を求める。
 すると、少しだけ笑いながらも、私をすぐに抱きしめてくれた。
「こんな……っ……信じられなくて………夢みたい……っ」
「……夢じゃないだろ?」
 すぐそばで聞こえた彼の言葉に、何度も何度もうなずく。
 落ち着かせるかのように背中を撫でてくれる、大きな手のひら。
 でも、やっぱりすぐに涙が止まることはなかった。
「嬉しい……っ……すごく、嬉しいです……!」
 ぐしっと不器用に涙を拭ってから、ちゃんと彼を見つめる。
 そのときも、やっぱり先生はすごく優しい顔をしていて。
 …………嬉しい。
 この感情がたくさん身体に溢れているけれど、でも、そんな言葉じゃ表せないほどの思いがあった。
「ありがとうございます」
「……それはこっちのセリフ。喜んでもらえてよかったよ」
 ひと息ついてから、できるだけ微笑むことを努力する。
 だけど、やっぱりなかなかうまくはいかなくて。
 ……でも。
 それでも彼は、私の頭を撫でてくれながらうなずいた。
 ――……本当に、最後。
 今日で、『先生と生徒』の関係も……何もかもが。
 そう思うと、なんだか寂しい気もする。
 ……だけど、やっぱり……嬉しいのもあるんだよね。
「それじゃ、行こうか」
「……はいっ」
 残っていた涙を拭ってから、今度こそちゃんと微笑んでうなずく。
 手を引いてもらって、ともに下りる階段。
 ――……一緒に登校できる朝。
 何もかもが初めてで、だけど……ずっと『いつか』と願ってもいたことで。
 開けてもらったドアから助手席に座ると、まるで、映画みたいな仕草の彼が閉めてくれた。
 ゆっくりと回り込んで、運転席に座る。
 そんな先生を見ていたら、当然のように笑みが浮かんで。
「……ん……」
 どちらともなく求めた。
 ゆっくりと……そっと、口づけを交わす。
 最初で最後。
 いろんな想いがここに満ちていて、しばらくの間もずっと笑顔しか浮かんでこなかった。
 ……だけど、これだけは言える。
 今の自分が本当に恵まれていて、幸せに満ち溢れていて……悦びでいっぱいだということだけは。

「どうする?」
「え?」
「このまま……門まで送っていこうか?」
「っ……」
 少しだけいたずらっぽい顔をした彼が、ギアを落とした。
 すぐそこから続いている、学校の塀とフェンス。
 ちょうどいつもの細い脇道の角でスピードを緩めた彼が、私を見る。
「……えっと……」
 時間は、いつもとほぼ同じ。
 幾人かの同じ制服を着た子たちが、まっすぐ門へ向かっていくのが見える。
 ……でも。
「…………降ります」
「そう?」
 どうせならば、いっそこのまま――……なんて思わなくもない。
 でも、今はまだ……。
 ……今日までは、私も彼も『先生と生徒』で。
 見られるわけには、いかない関係。
「……今日で、最後だから……」
「ん?」
「だから……今日までは、秘密の関係を保ちます」
 くすっと笑って彼を見ると、少しだけ瞳を丸くしてからおかしそうに笑った。
 その様子がこちらにも伝わってきたのか……なんだか、おかしくなる。
 くすくす笑いながら緩く首を振ると、ほどなくしてから彼が頭を撫でた。
「それじゃ……今日はここで見送るよ」
「……はい」
 髪を弄るように手を動かした彼が、小さくうなずく。
 そして――……。
「っ……!」
「いってらっしゃい」
 一瞬だけ、唇に感じた温もり。
 びくっと情けなく肩が震えてしまって、だけど……やっぱり嬉しくて。
「……いって……きます」
 はにかむように微笑むと、やっぱり優しい眼差しの先生が同じようにうなずいてくれた。
 ……なんだか、特別。
 今日という日が……本当に。
 微笑んだまま車を降り、振り返って――……改めて窓越しに彼と目を合わせる。
 ……特別なんだ。
 だって、今日で本当に……最後だから。
「…………」
 そう思うとまた笑みが浮かんで、軽く手を振りながら、なんとも言えない気持ちがいっぱい身体に広がった。

 普段着ないようなスーツ。
 それに身を固めて職員室へ入ると、昨日までとはまったく違う雰囲気が漂っていた。
 誰も彼もが、普段着ではない。
 まるでこれから、誰かの結婚式がここで行われるかのよう。
 着物を着ている先生方がいれば、礼服に白のネクタイといういでたちの先生まで。
 とにかく、ありとあらゆる場所に“祝い”という2文字が漂っている。
「おはよ」
「……あ」
 ぽん、と肩を叩かれて振り返ると、俺と同じように、少しだけくすぐったそうな顔をした純也さんがいた。
 だが、格好はやはり周りと同じで。
 普段見ない色のスーツにネクタイを合わせていて、まさに“ハレ”の格好そのもの。
 ……改めて、今日が卒業式なんだと実感させられる。
「いよいよだな」
「……ですね」
 門に掲げられていた、『第54回卒業証書授与式』の看板。
 玄関の目の前に生けられていた、大きな花。
 ……そして、この中にも漂う花独特の甘い香り。
 見れば、蘭や梅の鉢に交じって、いくつもの花束が箇所箇所に置かれていた。
 どうやら、気の早い卒業生が持ち込んだモノらしい。
 特に、担任を受け持つ教師の机の上に多く見られ、手紙らしきモノも添えられていたから確かだろう。
「……ちょっと寂しい?」
「え?」
 まじまじとそんな様子を見つめていたのがおかしかったのか、彼が囁く。
「……いや。まぁ……」
 なんとも、自分らしくない曖昧な返事。
 去年冬瀬に赴任していたときも、もちろん卒業式は経験した。
 ……だが、今年は違う。
 副担任として卒業生のクラスを受け持ち、そして同時に――……本日の主役その人を自分の彼女に迎えていて。
「……そうですね」
 本当に、今日で最後。
 いつもとはまったく違うムードに包まれている校内を歩いてきて、じわじわと実感が高まりつつあった。
 ……きっと……。
 きっとこれから教室へ向かえば、それだけで……また想いは変わるんだろうな。
 同じくクラスを受け持つ彼とともに交わした笑みは、やはりそれぞれの気持ちが表れていたんだろう。
 『らしくないな』なんて、互いに口にしたから。

 純也さんと別れ、気を引き締めてからともに教室へ向かうのは――……もちろん、ただひとり。
 袴を穿いて、赤に近いピンクの着物を合わせている我らが担任。
 日永先生、その人。
「いかがでした?」
「え?」
「……もう、1年ですものね」
 長くない廊下。
 だが、このフロアだけはほかと違ってシンと静まり返っているせいか、果てしない距離を歩んでいるようにさえ感じる。
「早いもので……経ってしまいましたね」
 そう言って微笑んだ顔は、やはりどこか寂しげで。
 見ているこちらも、少しだけ眉が寄った。
「瀬尋先生と一緒に作った、このクラス。……どうでした? 居心地は」
「悪くなかったです。……いや……よかったですよ。……とても」
 最後の言葉を確かに強調しながら、しっかりと笑みでうなずく。
 本音そのもの。
 そりゃあ確かに……最初は――……あの、日。
 こうしてともに廊下を歩いたあの朝は、ほんの少しだけ迷いもあった。
 どうして俺が、なんて思いもあった。
 ……だけど、今は違う。
 確かにここまで歩いて来た、道がある。
 だからこそ、後悔なんてモノはなかった。
 いや、むしろ……途中からハッキリと浮かび上がった道筋のお陰で、迷いも未練もすべてが吹っ切れたんだろうと思うが。
「そう言ってもらえてよかった。……正直言ってね、少しだけ心配してたんですよ」
 息をついた彼女が、改めて小さく笑った。
 それはまさに『先生』そのもの。
 ……参ったな。
 幾つになってもやはり、昔味わった気分は抜けてくれないらしい。
 彼女が俺にとっての担任にも思えて、苦笑が浮かぶ。

「ごめんなさいね、近道を邪魔してしまって」

「え……?」
 少しだけ申し訳なさそうに笑った彼女に、瞳が丸くなった。
 同時に足が止まってしまい、教室はすぐそこだというのに、一向に動いてくれない。
 ……だが。
 まるでそんな俺を予想済みだったかのように、彼女はゆっくりと3歩先で止まってからこちらを振り返った。
「本当は、もっと……いいえ。最初からずっと……この1年、本当に大変だったんじゃありません?」
「……それは……ええ。仰る通りです。……でも、自分は教師になることを考えてなかったんですが……実際にこの仕事に就いてみると、見えてくるものがたくさんありますね」
「あら、そう?」
「ええ。いろいろな経験ができましたし……本当に、貴重な時間だったなと思います」
 一瞬うなずきかかったものの、そのまま振りを横へ変える。
 後悔はしていない。
 ……そして同時に、否定も。
 俺にとって、この1年は本当に必要な年だった。
 ありえないことが起きて、ありえないことばかり味わって。
 ……だけど。
 どれもこれもが新鮮で、必要で、絶対で。
 俺の人生において、なくてならないときになった。
「……日永先生とお会いできて、1年をともに歩めて……いろんな自信がつきました」
 改めて彼女に頭を下げてから、にっこりと微笑む。
 すると、少しだけ瞳を丸くした彼女が、嬉しそうに笑った。
「そう……よかった」
 まるで、母親のように。
 ……そして、恩師のように。
 静かに返ってきた言葉で、妙にほっとする。
「やんちゃで、手を焼いて……だけど、かわいくてたまらなかった娘たち」
 ゆっくり振り返った彼女が、すぐそこにあるドアのプレートを見つめた。
 3年2組。
 いったい何度この数字を見ただろう。
 ……何度、このドアをくぐっただろう。
 ときに、なんとも言えない気持ちで。
 ……ときに、ほんの少しの期待を胸に。
「昨日までちゃんと会ってなかったのに……久しぶりに会った今日でお別れなんて、やっぱり酷だわ」
 静かな声で彼女を見ると、心なしか瞳が潤んでいるように見えた。
 ――……だが。
「それじゃ、いきましょうか」
 改めて俺を振り返った彼女の顔には、いつもと同じハツラツとした笑みが浮かんでいて。
「はい」
 うなずきながら応えた俺も、改めて背が伸びる。
「私たちの最後の仕事ですものね。……ちゃんと背を押してあげましょう?」
 にっこり笑った彼女。
 その顔には、自信と満足が満ち溢れていた。
 ……まさに――……34人の立派な娘たちを育て上げたという、揺るぎなき自負が。


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