「おはよ、絵里」
「あら。おはよう」
 ぽん、と肩を後ろから叩かれて振り返ると、そこには笑顔の羽織がいた。
 昇降口からさらに進んだ、2号館の廊下。
 ここは、右奥に化学室がある3階の部屋だ。
 反対奥にある渡り廊下を渡れば、教室はすぐそこ。
 だから、私は決まって空いているこのルートを通っていた。
「なぁに? 随分機嫌よさそうね」
「そうかなぁ? ……でも、そういう絵里こそ機嫌よさそうだよ?」
「フ。……まぁね」
 ものすごく嬉しそうな顔をされて、悪い気がするはずない。
 ……それに、どっちみち羽織には全部バレてるんだろうしね。
 なんせ昨日、彼女の家を出る時点で、なぜかみんな嬉しそうだったんだもの。
 …………中でも孝之さんの笑顔だけは、どっちかって言うと『自分の身の保全が確立したから』っぽかったけど。
 でもまぁ、いいってことよ。
「今日ね、お父さんから電話があったの」
「えっ!? おじさんから?」
「うん」
 羽織が驚くのも無理はない。
 だって、私も本当にびっくりしたんだから。
「それで、なんて?」
「……ふふ」
「ん?」
「ナイショ」
「えぇー?」
 実は私、一度言ってみたかったのよね。コレ。
 ていうか、一度と言わず何度でもって感じなんだけど。
 だって、羽織ってばめちゃめちゃかわいい顔するんだもん。
 ……きっと、祐恭先生もこんな姿ばっかり見てるから、ついつい手が出るおいしさ……じゃなかった。
 ちょっかいをいっぱい出すのよね。
 想像するまでもなく、祐恭先生が意地悪な顔してそんでもって困ってかわいい顔してる羽織のペアが目に見えて、また口元が緩んでいた。
「もぅ……教えてくれてもいいでしょ?」
「んー……どうしよっかなー……?」
「絵里ぃ」
「はいはい。わかったわかった」
 眉尻を下げて、かわいくねだるみたいな顔。
 ……ああもう。
 ンな顔したら、祐恭先生がどこからか嗅ぎ付けて来るじゃないの。
 なぜか私に対してまでも絶対に嫉妬するであろう祐恭先生が想像できて、やっぱりおかしくなった。
「もー。だから、そんな顔しないの。……ちゅーするわよ?」

 バサバサバサッ

 羽織のほっぺたを両手で挟んで、いたずらっぽく目を細めてやる。
 こうすれば必ず、羽織は『やめてよ、もー』とか言いながら、おかしそうに笑った。
 ……んだけど。
「……え?」
 思わず羽織のほっぺを挟んだまま首だけを動かすと、足元になぜか大量の白い紙が撒かれているのが目に入った。
「……?」
 ワケがわからず、もう1度羽織と目を合わせる。
 すると、私よりも先に羽織の視線が左へ動いた。
「……せん……せ……」
「え?」
 まさか、本当に?
 ……だとしたら、油断も隙も――……というより、恐ろしいくらいの勘と地獄耳とでも言うべきか。
 うかつなことは言えないし、できないわね……なんて、思いながらそちらを見た瞬間。
 あまりにも自分の想像を遥に超えた事象があって、思わず目と口が一緒に開いた。

「…………平野先生……?」

 そう。
 そこにいたのは、祐恭先生でもなければ、純也でもなく。
 ついでに付け加えるならば、ほかのどんな男性教師でもない――……見紛うことなき、彼女。
 平野リエ先生その人が、口に両手を当てて立っていたのだ。
「……うそ……」
「へ?」
「う、嘘っ……! 嘘でしょう? そんな……っ……」
 見開かれた瞳は、零れ落ちるんじゃないかってくらい、大きくて。
 まばたきをすることなく羽織と交互に見つめられて、何も言えなくなる。
「……あの……。平――」
「皆瀬、さん……」
「……はい?」

「あなた……っ……瀬那さんと、付き合ってたの……?」

「は?」
「え?」
 言葉を遮ってまでというよりは、どっちかっていうと、何も聞こえていないみたいな。
 そんな雰囲気アリアリで言われたのは、ものすごくワケがわからなくて。
 ……なんなの? いったい。
 思わず羽織と顔を見合わせたら、案の定お互い眉がしっかりと寄っていた。
「……あの、平野先――」
「ひどいっ……ひどいわっ……! 不潔よ、そんな!」
「は……はぁ……?」
「やっぱりそうだったのね。……やっぱり……あなたたちがそういう関係だったなんてっ……」
「……何を……」
 ふるふると髪を振り乱しながら首を振り、うるうると涙で滲ませた瞳で見つめられ、言葉に詰まった。
 ……っていうか……えぇ?
 何よコレ。
 いったいどんな展開なの?
 かわいい格好で、どこからどう見ても“かわいらしい先生”の彼女。
 だけど――……言っていることは支離滅裂。
 ……ワケわかんない……。
 そもそも、『やっぱり』って何?
 彼女が何を考えているのかまったくわからず、だからこそなんだか怖く思えて――……1歩あとずさっていた。
「ねぇ、教えて!」
「わっ!?」
「いったいいつからなの? いつから付き合ってるの? キスは……ううんっ。それ以外のことも、もうしちゃったの!?」
「……は……ぁっ!?」
 あんぐりと口を開けたまま表情が引きつるこちらとは、まさに正反対。
 必死な表情でがしっと腕を掴んできたかと思いきや、涙をいっぱいに溜めた瞳で食いついてくる。
 ……こ……これわ。
 思わず硬直して羽織を見ると、やっぱりものすごく困った――……というよりもショックを受けた表情で先生を見ていた。
 いくら女子校だからっていったって、そんなカップルが誕生するなんてことはまずありえない。
 女子校の中身を知らない人間が吹聴することはあっても、中にいる人間がそんなことを言うなんて。
 ……でも、まさか。
 いや、だけど……。
 ぐるぐると巡り巡る考えを必死に肯定したり否定したりしていたら、目の前の先生が首を振った。
「いいっ……それでも、私はいいの……!」
「は……?」

「それでも私っ……だって、皆瀬さんのこと好きだから!!」

 ちょーん。
 言っちゃったよこの人……!!
 なんとか決定的なひとことが出ないようにがんばっていたけれど、結局無理だった。
 好きだから。
 ……好き。
 てぇと、それはアレですか。
 ひ、人として好きとか……やっぱ、そういうレベルじゃないのよね。
 涙をかわいらしく白のレース付きハンカチで拭きながら何度も見つめられ、ぞくぞくと身の毛がよだった。
 不肖(ふしょう)、皆瀬絵里。
 これまで数々の困難に出会ったり、打破し難い事象もたっぷりと味わってきた。
 ですが。
 私はこれでも、れっきとした“ど”ノーマル。
 いくら、後輩先輩同級生問わず女の人からラブコールをもらおうとも、それに答えようという気が起きたことはない。
 ……というワケで。
「でも、私……そういうつもりは――」
「いいのっ!」
「……え?」
「わかってるのっ……」
 とりあえず、どさくさに紛れて抱きつこうとしている彼女を引き離し、きっぱりと告げよう……としたものの。
 なぜか彼女は私の言葉を遮ってまで、首を振って瞳を向けてきた。

「あなたと瀬那さんは、幼いころからの深い関係だってことは……ちゃんとわかってるから!」

「……わ……」
 わかってねぇーー!!!
 思わず、この人気のない廊下どころか、校舎全体に響き渡るほどの大声で叫びそうになった。
 ぜんっぜん、わかってない。
 ビックリするくらい、まったく。
 ……なんなのこの人……!
「あの、だから先生……」
「いいのっ! だって私知ってるのよ!? あなたたちは、幼稚園から続く深い仲だって!」
「……いや、だからそれは……」
「だって、一緒にお泊り保育でも同じ布団で寝たんでしょう? お風呂だって一緒だし、ましてやっ……ましてや、お着替えまで……!!」
 ……誰か。
 誰か、このあらぬ妄想を繰り広げているオトメを止めてくれないか。
 …………何を言ってるの……。
 っていうか、いったいどこからその情報を得てきたの?
 そりゃ、確かにどれもこれも否定できないことだけど、別に、そのケがあってしてたわけじゃなくて。
 布団は、隣に寝てた男の子がおねしょしたせいでびしょ濡れになったからっていう理由があるし、お風呂や着替えは、幼稚園児ならば『いっせいのーで』でやるものじゃない?
 ていうか、この人はこんなんで幼稚園時代を過ごしてこれたんだろうか。
 それこそ男女問わない“イモを洗うよう”な生活だってことは、誰だってわかるだろうに。
 まぁ、彼女の幼いころの姿なんてまったく想像でき――……るけどさ、そりゃ。
 何が理由でこうなったのかはわからないけれど、とりあえず、今のこの状況を受けてやる暇はなくて。
「それに、それにっ……! あなたと田代先生が従兄妹同士だってことも知ってるのよ!?」
「……へぇ」
「へ、へぇって……! 皆瀬さんっ、男の人と一緒なんかでよく平気でいられるのねっ!?」
「いや……まぁ」
 平気も何も、その男の人が彼氏なんだけど。
 なんて言ったら、卒倒しちゃうかしら。
 嫌悪というより不快感むき出しで迫られ、思わず苦笑が浮かぶ。
「ひょっ……ひょっとしてあなたっ……」
「……は?」
「バ――」
「はいはいはいはいはい!!」
「むぐぅっ!?」
 ぎくっ、とまるで何かに気付いたみたいな顔をした彼女が、ふるふると指を震わせながら言おうとしたこと。
 それを先に読んで口を押さえてやると、じたばたとその手を外すべくもがいていたが、純也と対等にハレる私よ?
 そんなひ弱でもなければ、コツを知らないわけでもない。
 むしろ、か弱さを売りに出しているような彼女と比べたら、雲泥の差。
 そのお陰で、やすやすとその言葉を続けさせずに済んだ。

「いらない知識を、うちの彼女に吹き込まないでもらえるかしら?」

「ッ……!!」
 ひとこと耳元で告げてやってから、その手を離す。
 すると、先ほどまでとは比べ物にならないほど弱々しい雰囲気で、その場に片膝をついた。
「……え?」
 ふるふるした顔で平野先生が見つめたからだろう。
 きょとんとした顔の羽織は、私と彼女とを見比べながら人差し指で自身をさした。
 ……ふ。
 だってもー……なんだか疲れちゃったんだもん。
 ここはもう、一気にカタをつけるしかないでしょ。
「……え? ……え? っ……絵里……?」
 一歩あとずさった羽織に、にっこりと微笑んだままで歩み寄り――……。
「ッ……!?」
「ま、そーゆーワケだから。一応学校にも内緒にしてあるんで、黙っててくださる?」
 ぐいっと肩を引き寄せ、ぷにぷにの頬に目一杯くっついてやった。
「や……やっぱり……!」
 途端、ひぃいっと小さな悲鳴が聞こえたのは、恐らく気のせいじゃないだろう。
 目の前の平野先生はものすごく血色悪い顔している上に、ようやく立ち上がったものの足元がおぼつかないらしく、フラフラしている。
 こりゃあ、相当ショックだったみたいね。
 嘘をついているのは悪いと思うけれど、でも、自分の身の保全が第一。
 ここはひとつ、羽織にも無理矢理だけど付き合ってもらうしかない。
「さ、羽織。行きましょ? 早くしないと、みんな来ちゃう」
「え? あ……う、うん……」
「ほらー。早く行かないと、できないじゃない」
「……え?」

「毎朝、教卓のトコでしてる“らぶちゅー”が」

 にっこりこり。
 首をかしげながら羽織に言うと、後ろで大きな音がした。
 でも、振り返らない。
 だってそんなことしたが最後――……オオゴトもオオゴトになって、学校中がパニックに陥るだろうから。
「ぎゅって抱きしめて、ちゅーして……あーもー、早く行きましょ!」
「えぇっ!? いや、あのっ……で、でも、わた――」
「いいからっ!!」
 ぐいっと手を引き、ダッシュよろしく廊下を駆ける。
 なんだか、ものすごく遠くに感じられた渡り廊下。
 そこを曲がるとき振り返ると、先生は両手両膝をがっくりと床につけたまま、うなだれるような格好でいた。
 ……うーん。
 もしかしたら、あのまま置いてきたのは――……ちょっと、酷だったかしら。
 あんな姿の先生を純也とか祐恭先生が発見したとしたら……ねぇ?
 ひょっとして、ひょっとしないでもなし。
 ……でもまぁ…………。
「……いっか」
 1号館へ入ってからすぐ右へ曲がり、教室に入る。
 そこに広がっているのは、昨日までと何も変わらない光景。
 ……同じって、やっぱり……大切よね。
 おはようと何人にも声をかけられて、それがなんだかほっとして嬉しかった。
「……絵里ぃ……」
「大丈夫よ」
 不安そうな、というよりも、まるで今にも泣き出してしまいそうな羽織。
 そんな彼女に真顔でうなずいて、よしよしと頭を撫でる。
 大丈夫。
 多分、アレほどまでに大きなショックを受けたら……二度と接触してきたりしないだろうから。
 そう思いながらうなずくと、徐々に徐々にショックが和らいでいったような……そんな気がした。



ひとつ戻る  目次へ  次へ