――……後日。
「失礼しまーす」
 いつも通りに、羽織と準備室へ向かったとき。
 平野先生の姿がどこにも見えず、それがほっとしたような不安なような……そんな感じでいっぱいだった。
 ……んだけど。
「ねぇ、純也」
「あ?」
「平野先生は?」
 こそこそと彼へ近寄り、耳元で囁く。
 すると、何やら変な顔をしてから、目の前の祐恭先生と顔を見合わせた。
「それが……なぁ」
「……そうそう」
「…………何よ」

「なんでも、一身上の都合とやらで急に休職されたんだよ」

「…………」
「…………」
 ごく、と喉が鳴ったのは、恐らく羽織も一緒。
 ぎぎぎと鈍い音をさせながら羽織を見ると、やっぱり凝り固まったままなんとも言えない顔をしていた。
「……あは……は」
「…………」
 乾いた笑いと、無言の表情。
 だけど、しっかりお互いコンタクトは取っておいた。

 『私たちのせいじゃないわよね?』
 『私たちのせいかな?』

 ……微妙に食い違っていたような気が、しないでもないけどね。
 でもとりあえずこの件の真相は――……お互い、彼氏には決して話せないと思った。

「ねぇ、絵里」
「ん?」
 そんな準備室からの、帰り道。
 あの事件が起きたあの廊下をふたり肩を並べながら通っていると、羽織がおもむろに口を開いた。
「……ねぇ……この前言ってた『内緒』って……そういえば教えてもらってないよね?」
「あー、アレはねぇ……」
「うん」
 もしかしたら、ここを通ったから思い出したのかもしれない。
 ショックがあったせいか、羽織はあのあともまったく聞いてこなかったし。
 ……まぁ、別に焦らすようなことでもないから、教えてあげてもいいんだけど……。
「…………」
「…………」
「……ナイショ」
「えぇっ!?」
 ちらりと彼女の様子を伺いながら考えていたら、そんな言葉がぽろっと出た。
 だって、たいしたことじゃないのに、そんなに『どきどきわくわく』みたいな顔をされてると、ねぇ?
 こう言いたくなるのが、サガってヤツなのよ。うん。
「もぅ、絵里ぃ……! 教えてくれるって言ったじゃないー!」
「あはは。だって、羽織ってばカワユイんだもーん」
「んもぅっ! そうじゃなくてっ!」
「かわいいよー、ハニィ」
「絵里っ!!」
 先に駆け出し、振り返りながらキスを飛ばす。
 かわいい顔して必死に追って来てくれるのが、なんだか嬉しかった。
 ……うーん。
 やっぱり私は、祐恭先生の1番の理解者だと思うわ。
 いじめがいがある羽織のツボを心得てるんだから。
「ねぇ、絵里っ!」
「どーしよっかなぁー」
「もぅ! 待ってってばぁ!」
 だけどまぁ……さっきも言ったように、教えてあげないつもりもないし別にそこまで隠し立てすることでもない。
 ――……ただ。
 そのときは私が羽織に弄られる番になる、っていうだけで。
 ……どうしようかな。
 教えてあげようかしら。
 そんなことを考えながら足を緩めると、不意に腕を後ろから引かれた。
「……掴まえたっ!」
 そのときの、表情。
 それがものすごくかわいくて、なおかつ……手を出したくなるようなモノで。
 ……かわいいんだから、もう。
 満面の笑みを浮かべて子どもみたいに言われ、思わずこっちまで笑みが浮かんだ。

 ――……先週、賞をいただいたんだって?
 すごいじゃないか。純也君も喜んでいたよ。
 ……きっと、優秀な化学者になるだろうな。
 なにせ、純也君のお墨付きだ。これ以上安心することはないだろう?
 それから、料理もがんばってるそうじゃないか。
 そっちに戻ったら、そのときは作ってもらおうかな。
 …………ん?
 どうして知ってるか……って?
 はは。それは簡単なことだよ。

 絵里。
 夜遅くまで、純也君がパソコンに向かっているときがあるだろう?

 どんなに遅くても、どんなに忙しくても。
 こちらが、『いい』と言ってもなお、彼は約束を果たしてくれているんだよ。
 ……絵里。
 感謝しなさい。
 彼に出会えたことを。
 そして、誇りに思いなさい。
 彼に大切にしてもらえていることを。
 私たちは、ふたりが幸せなことが何よりも幸せなんだよ。

 ……言われるなんて、思ってもなかった言葉。
 そして、知らなかった事実。
 だけど、そう言ってもらえて本当に本当に嬉しくて。
 心の底から、幸せだと思えた。
 感謝しようって……改めて思った。
 父の優しい言葉に、ただただうなずくしかできない私を――……隣に立ちながら、頭を撫でてくれた純也に。
 ……今回は、特別にね。
 そんな言葉を、プラスして。

 ――……ちなみに。
『絵里さん、アナタ……宅の純ちゃまに、毎日ちゃんとした食事作ってあげてるのかしら?』
「お言葉ですが、お母さま。お母さまこそ、いったいどういう教育をされてますの?」
『んなっ……!? なんですって!!』
「お宅の息子さん、今日もご飯にマヨネーズかけて召し上がってましたわよ? ……まったく。育ちが知れますわね」
『な……ななっ……なんですってぇええ!!!?』
 受話器を握り締めたまま、瞳を細める。
 現在は、夕食時真っ只中。
 そして今のは、少し前に起きた事実だ。
 受話器を持ったまま振り返ると、案の定、箸を持ってひきつっている純也がいて。
 その手にあるお茶碗には、やっぱりマヨネーズ付きの刺身が乗っかっていた。
 ――……あの日。
 あの、純也のお母さまにいろいろ言われたあの日から、私の態度も割と変わっていた。
 いいたいことは言う。
 ヘンに気取ったり着飾ったりせず、ありのままでタメを張る。
 ……だって、言いたいこと言って生きなきゃ損だって気付いたんだもの。
 それに、いつまでもギクシャクしているのは、やっぱり本望じゃないし。
「……オイ、絵里」
「何よ坊ちゃま」
 相変わらず、受話器からぎゃーぎゃーと『宅の純ちゃまが!』とか『舌が麻痺するわ!』とか言い続けられているけれど、耳からは遠く離しているので害はない。
 それにしたって、ここまで聞こえてくるって……どんな声量よ。
 きっとお母さまのそばでは、耳栓をして野球中継を見ているお父さまがいるんだろう。
 おかわいそうに。
 『……ちっとも中継が聞こえねェじゃねーか』とか言いながら枝豆食べてそうで、ちょっと笑えた。
「お前……さぁ」
「ん?」

「やっぱ……強いよな」

 箸を持ったままうなずかれ、ぴくりと眉が動いた。
 ……まだ言うか、この馬鹿息子。
 静観する前に、自分の母親どうにかしろっつーの。
 と、は思いながらも。
「……まぁね」
 勝手に顔が笑ったから、仕方がない。
 それがすべてを明白に表しているような気がして、なんとなくある種の自信が生まれてきたのは――……言うまでもなかった。

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