まだ、2日。
 ……それとも、『もう』2日?
 どちらにせよ、今の私は割と落ち着いていた。
 この前やった抜き打ちテストの点もよかったほうだし、今日は私の出席番号と同じ日なのに、まだ指されてないし。
 ……まぁ、そうは言ってもまだお昼休み。
 後半は化学と数学という、指される確率大幅アップな教科が控えているからなんとも言えないんだけど。
「絵里?」
「ん? なに?」
「……えっと……」
「……何よ。ほら、行くわよ?」
「え!? あ……うん。そうだね」
 化学の教科書、そしてノート。
 提出用の問題集とペンケース。……その他諸々。
 それらを抱きしめるような格好で持ったまま、教室の出入り口の戸にもたれる。
 少し遅れて――……というより、私を見つけて。
 羽織はお弁当箱をバッグへしまう前に、慌てた様子で駆けてきた。
「行くって……えと、化学室? だよね?」
「ほかにどこ行くのよ。トイレくらい、私はひとりで行くけど?」
「ま……まぁ、確かにそうだろうけど……」
 なんで、こんなにぎこちないんだろうかこの子は。
 視線を合わせないままで手のひらを重ねたり、指を弄ったり。
 って、教科書類一切持って来てないじゃないの。
「……羽織」
「え?」
「アンタねぇ……そんなに珍しい? 私が自分から行きたがるのが」
「ふぇ!?」
 じと。
 瞳を細めて、じぃっと見つめてやる。
 と、まるで酸素不足の金魚よろしく、人の顔を見つめながらパクパクと口を開いた。
「……だって……」
「だって、何よ」
「………………なんか……心配で」
「……は?」
「え!? あ、ううんっ。ご、ごめん。……なんか、変なこと言った……?」
「……言ったっていうか、なんて言うか……」
 一瞬見せた顔。
 それは、なんとも言えないような、心底からの迷いや不安を露にしている表情で。
「…………」
「……わっ!?」
 思わず、真顔のまま彼女の頭をぐりぐりと撫でつけていた。
 びっくりしたように、私を見上げる羽織。
 ……そりゃそうだ。
 でも、なんとなく……こうしたらいいんじゃないかって思ったから、仕方がない。
 長年この子と付き合って来た私には、それが“ベスト”だって思ったから。
「だいじょぶよ」
「……あ……」
「アンタが心配することは、何もないから」
 ぱちぱちとまばたきをした羽織に、ふっと笑う。
 ついでのおまけに『そういうことじゃないし』と付け加えると、みるみるうちに嬉しそうな笑顔へと変わってくれた。
「うんっ! ……あっ!? ご、ごめっ……ちょっと待ってね。今、荷物持ってくるからっ」
「ったく。早くしなさい。5秒ね、5秒」
「えぇ!? そん――」
「ごー、よんー……」
「うぇ!? ま、待ってよー!」
 ご丁寧にこっちを振り返った羽織をまったく見ないまま、指折り数える。
 ……やっと戻ったか。
 慌てて『ちょっと待って!』を連呼し続ける羽織。
 そんな彼女の、いつもらしい姿をやっと見ることができて、正直ほっとした。
 いったい、どれほど私を心配していたんだろう。
 それとも……やっぱり、私のせいかな。
 羽織に、私がヘンな決意をしたって思わせるほどの余計な心配をさせてたんだ。
 それがわかって、正直申し訳なかった。
 ……昨日の今日、だもんね。
 『好きじゃないかもしれない』なんてぶっちゃけ発言をしちゃった翌日だから、余計に不安を抱かせてしまったのかもしれない。
 でも私、ひとことも『純也と別れる』なんて言ってないんだけど。
 もしかしたら、珍しく私が自分から準備室へ行こうとしたから、『まさか』を連想させたのかもね。
 ……ホント、私にはもったいない子だわ。
 ばさばさっとプリントをばら撒いて『えー!?』なんて言ってるかわいい幼馴染が目に入って、思わず笑みが浮かんだ。

「失礼し――」
「……すみません、また……」
「いいえ、とんでもないですっ。むしろ、こちらこそ……助かると言いましょうか……」
「……え?」
「あっ、えっ!? い、いえっ、あのっ……ご、ごめんなさいっ……! 今のは、わ、忘れてくださいね」
「……はぁ……?」
 『失礼します』を言うよりも先に。
 部屋の奥から届いた、血みどろ愛憎じゃない、甘ったるいほうの昼メロ。
 ちょっと古めかしいというか懐かしいようなやり取りとともに聞こえたのは、なんだか聞き覚えのあるようなトロけてる声と、疲れたおっさんの雰囲気漂う声だった。
 ……疲れてるっつーより、いろんな意味で枯れてるわね。アレ。
 ま、多少は日々に潤いを与え続けている絵里ちゃんがそばにいないんだから、ソレくらいあって当然だろうけど。
 いい機会だから、私の大切さをじーーーっくりと身に沁みてほしいものね。
 たかがジーパン1本色褪せさせたからって、文句言わないくらいに。
「失礼します」
 にっこり。
 得意の『有無を言わさない』笑みで、声をワントーン上げてからもう1度入室のあいさつを述べる。
「はわっ……!? あっ、あっ……! み、皆瀬さっ……!?」
 すると、何やら私たちが入ってきたことが相当の驚きだったのか、丸い瞳をさらに丸くして、平野先生が倒れそうなくらいのリアクションを取った。
 ……っていうか。
 実際に、床に落ちてたプリントのせいで、すってーんと音を立ててその場に尻餅ついちゃったんだけど。
 可哀想にめいっぱい涙を溜めて、『私ったら……』みたいに苦笑する彼女を見ていたら、思わず口が開いたままになった。
「……先生、大丈夫?」
「えっ? あ……ええ、だいじょう……ぶ……。ありがとう、皆瀬さん」
「いいえ」
 少しかがんで手を差し出し、華奢な真っ白い手を取ると、予想以上に温かい感触がそこにはあった。
 ……子どもみたい。
 なんとなくだけど、不意にそう思ったりして。
 ……って、先生に対して失礼かしら。
 でもねぇ。
「……先生?」
「えっ!? あっ……えっと……えへへ。ご、ごめんなさいね。変なところ、お見せしちゃって」
 かぁあっと顔を真っ赤にして、ものすごく照れている彼女を見ていたら――……ねぇ?
 誰が、『教師』だと思えるだろうか。
 下手したら、私服で登校しちゃった同級生とか、イイトコ同級生のお姉ちゃんって感じよ?
 まぁ、年齢は純也より下らしいから、あり得なくはないんだけど。
「それにしても先生、今日もかわいいですね」
「えっ!? かっ……かわいいだなんて、そんな……。皆瀬さんのほうが、ずっとかわいいわよ?」
「何を言ってるんですか、もー。そんなわけないでしょ」
 かわいらしく両手を合わせてにっこりと微笑まれ、苦笑しか出なかった。
 お世辞でも、あんまり『かわいい』なんて言われたことがなかっただけに、ついついおかしかった。
 今日の彼女は、フリルがたくさん付いたスカートと、ひらひらのブラウス。
 胸元にレースの大きなリボンが付いてるあたり、男心をくすぐられるんだろうか。
 ……いや、思っただけだけど。
 実際、若い男性教諭2名は、特に心動かされてる雰囲気じゃなかったし。
 って、まぁ……眼鏡してないほうの教師は、なんか、やたらかわいい包み持っちゃってるから、すでに――……むしばまれてるのかもしれないけどね。
「…………」
「…………」
「……先生?」
「え? ……あ、ごめん。何?」
「もぅ……何じゃなくって、授業の連絡ですよ?」
「……あぁ、そうか。……ごめん、つい」
 …………ちょっと。
 つい、って何よ。『つい』って。
 遠くで聞こえた羽織とのやり取りで瞳を細めると、一瞬合った目をバッと逸らしてから、目の前の愛しい彼女ちゃんだけに集中し始めた。
 ……ち。
 これだから男は嫌なのよ。
 っていうかね、もしもここにほかの生徒が入ってきたらどうするの?
 ンな、らぶらぶモード突入みたいな雰囲気かもし出しておいて、言い逃れできるとでも思ってるのかしら。
 そんな不純教師約1名をじとーっと細めた瞳でしばらく睨んでいたんだけれど……まぁいいわ。
 羽織が嬉しそうだから、許しておいたげる。
「そのお弁当、先生が作ったんですか?」
「えっ!?」
 純也が持っていた包みを指さして呟くと、ほほほ、と笑いを交し合いながらの会話がストップした。
 私は、まだ笑ったまま。
 ……なんだけど、なぜか平野先生はものすごく衝撃を受けたみたいな顔で、唇を開いて。
「ちっ……違うの……! ちがっ、違うのよ!? ねぇ、皆瀬さん! 誤解しないで!!」
「……は? いや、あの……」
「違うのっ! 本当に、本当に違うのよっ!」
「や、別に……責めてるワケじゃなくて……」
 まじまじと見つめてくるその大きな瞳が、今にも潤んでしまいそうでちょっと怖かったりして。
 だから、フォローのつもりでそう言ったんだけど、急に落ち着きがなくなったかのように、先生は私から視線を逸らすと、そのまま――……。
「え。……せんせ?」
「平野先生?」
「すみませんっ……私……私、失礼します……っ」
 ぺこりと頭を下げると同時に、俯いたまま一目散に準備室をあとにしてしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 急に訪れた、妙な沈黙。
 ……というか、静けさ。
 …………。
 ……あれ……?
 私、別に……何か変なこと……え? 言った?
 私、彼女に何か……した!?
 思わずぽかーんとしながら羽織や祐恭先生を見てみるけれど、ふたりもやっぱり少し驚いたように瞳を丸くして首をかしげるだけだった。
 ――……唯一。
「絵里」
「……何よ」
「ちょっと。……こっち来い」
「……はぁ……?」
「いいから、来いって!」
 かわいい模様の包みを持ったまま、神妙な顔をしているその男。
 ものすごく深いため息と同時に、ものすごく冷たい眼差しを向けてきた純也だけは、なんだかまったく――……私の味方はおろか言い分も理解してくれそうにはなかった。


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