「お前なぁ……!」
 準備室から実験室へと繋がるドア。
 そこから入ってすぐ……コレだ。
 ドアにもたれ、がしがしと頭をかいて――……心底不快そうに私を見る。
 ……あーあー、そうですか。
 そんなに気に入りませんか。
 ていうか、どうでもいいけど……その包み。
 それ持ったまま人に説教垂れるのだけは、やめてくれないものかしら。
 ものすごく腹が立つというか、人を馬鹿にしてるというか。
 なんだか無性に気になって、嫌なんだけど。
「お前、もう少し気を遣えないのか!?」
「何よ急に」
「急じゃないだろ!? ……俺は、これまでだって、ずっと思ってきた」
 ……出たわね、説教魔。
 くどくどくどくどくどくどくどくど。
 純也はもー、ホントにこれでもかってくらい、人を諭す。
 よく言えば、理論的。
 悪く言えば、『ああ言えばこう言う』。
 もーー、とにかく口ごたえしようものなら、間違いなく『それはこうだからだろうが!』って言ってくるのよね。
 ……めんどくさ。
 ここはひとつ、黙ってうんうんはいはいと聞いておくのが、得策だわね。

 ――……と。
 私はまだ……このときは、『いつもと同じ』としか思ってなかった。
 私がうなずいて聞いてれば、終わるって。
 すぐに、『もういい。疲れた』とか言って、純也がため息混じりに話を終わらせる、って。
 そう信じて――……疑わなかった。
 だって、そうでしょう?
 始まりは……いつもと、同じだったんだから。

「……あ。もしかして、何? なるほど……。そういうこと?」
「は? ……何がだ」
「何が、じゃないわよ。なるほどね。そういうことが背景にあったんだ」
 ははーん、とニヤけ、ぴんときた考えを言おうか言うまいか悩んでみる。
 焦らし焦らし。
 ニヤニヤしながら純也を見てみると、心底居心地悪そうな顔で、瞳を細めた。
 ……あぁ、なるほど。
 やっぱ、そうなんだ。
 純也が怒った理由。
 それは、単純明快で。
 ……正直、腹も立たないわ。
 馬鹿過ぎてむしろ笑っちゃう。
 そう思った途端、フ、と鼻で笑っていた。

「純也、平野先生のこと好きなんだ?」

「…………は……ァ?」
「あーあー、いーっていーって。なるほどね。そういうことか。そりゃ、怒るわよねぇ? 愛しのリエちゃんが性悪エリちゃんに泣かされはぐったら、ねぇ? 嫌だもんねぇ?」
 きゃぴるん、と両手をかわいく握って肘を曲げ、ブンブンと顎下で振ってやる。
 居心地悪いというよりは、ものすごくワケわかんないと言うか……あ。もしかして、怒ってる?
 なるほど、なるほど。
 そりゃあ、怒るわよねぇ?
 ……なんせ、愛しのハニーを……純也にしてみれば冒涜(ぼうとく)されているんだから。
「仲良くなっちゃったなら、しょうがないわよねぇ。理想系ってヤツ? 彼女、純也好みだしね」
「……あのな――」
「この2日。何があったのか知らないけど……あ。もしかしたら、部屋の模様替えとかもされちゃってたりして?」
「……は?」
「あ、それとかそれとかー。食器とかキッチン用具とかも、増えちゃったりしてる?」
 くすくすと笑って腕を1度組んでから、指先で頬から顎のラインを撫でる。
 ……これは、私のクセだ。
 目の前にある事象が、真実であるかどうかを見極めるときに出る……クセ。
 本当か、どうか。
 この一瞬できっと決まるはずだと思ったら、視線なんか逸れる余地はない。
「それ」
「……は?」
「愛情たっぷり弁当だもんねぇ? 愛情スパイス、てんこ盛り。ついでに言えば、『通い妻』みたいな感じかしら?」
 すぅ、っと瞳が細まった。
 これまでのきゃぴきゃぴした雰囲気を一掃し、普段の私へと表情を変える。
 お遊びは、ここまで。
 見極めなきゃいけない時間っていうのが、ちゃんとあるの。
 大人だけじゃない、どんな間柄の世界にだって、ルールってモンはちゃんとあるでしょう?
 ……ちゃんとしなきゃね。
 人に物を教える仕事をしているならば、なおさらに。
「自分の身くらい、自分できれいにしなさいよ」
 パキ、っと低いトーンで口早に告げると、静かな教室だからか、目一杯響いて聞こえた。
「…………」
「…………」
 しばらく続いた、沈黙。
 重苦しくて、べったりと圧し掛かってくるかのような雰囲気が、実際に息苦しい。
 だけど、それを最初に破ったのは――……思った通り。
 呆れたような、純也のため息だった。
「……何を言うかと思えば……」
「何よ」
「妄想も、ここまできたら立派だな。……病気だぞ、お前」
「……なんですって……?」
 ピリッ、と空気が音を立てて張り詰めた。
 言うまでもなく、これでもかってくらい冷めた視線を純也に向けたのはもちろん。
 言うにこと欠いて、病気……?
 腹が立つ以前の問題よ。
 ……自分は何してたワケ?
 さっき聞いた声だけのやり取りに画が付いて脳裏に浮かび、強く噛み締めた奥歯が軋んだ。
「馬鹿馬鹿しいにも、ほどがある。……何? 平野先生がなんだって?」
 怒りを帯びた口調。
 だけど、それはこっちがやりたいことだ。
 ……なんで、逆切れしてるワケ?
 怒りたいのは……ううん。
 怒っていいのは、私だけなのに。
 目の前で、仮にも自分の彼氏が知らない女から手作り弁当受け取ってるのよ?
 しかも、へらへらしながら、の軽薄馬鹿なおまけつき。
 ありえない。
 そんな態度取られたのに、なんで私が怒られなきゃいけないの?
 説教垂れれる身分じゃないクセに。
 明らかに怒っている瞳で見据えられて、心底頭にきた。
「家に上がりこんで、女房気取り? ……馬鹿馬鹿しい。何を言うかと思えば、随分下らねぇことばかり考えられるんだな。女子高生ってヤツは」
「……なんですって……?」
「よほど暇なのか? お前。羽織ちゃんちに転がり込んで、周りの迷惑顧みずに、我が道を行く。……いい加減気付けよ。お前のせいでどれだけの人が傷ついたり苦しんだり……つらい思いしてると思ってんだ!」
 バシン、というよりもずっと強い音。
 余韻を引きずりながら未だに耳に残る音を立てて、純也が包みを机に置いた。
 ……最低。
 言葉だけじゃ飽き足らず、行動に移すってワケ。
 しかもそれ、だいたい純也の私物じゃないくせに。
 かわいらしい包みを1度も見ず、さらにまったく躊躇せず今の行動に出た彼が、正直信じられなかった。
 …………サイッテー……。
 人には『気を遣え』とか散々言ってるくせに、自分はどうなのよ……!
 睨んでいた瞳を細め、腕を組む。
 信じられない。
 許せない。
 浅はかな考えはどっちだって言うのよ……!
「ていうか、純也こそ――」
「平野先生だって、そうだろうが!!」
「ッ……はぁ……!? なんで、そこであの人が出てくるのよ!!」
「なに……!?」
「だって、関係ないじゃない! 身内でもなければ、友達でもない。たかが、同僚の教師にすぎないクセに!!」
「そういうことを言うんじゃない!!」
「なんですって!?」
 『たかが』と口にした瞬間。
 それまでも必死めいた表情を浮かべていた純也が、さらに声を荒げた。
 何よ。
 何よ何よ、何よそれ……ッ!!
 そんなに大事ってこと!?
 そんなに、私が『たかが』呼ばわりしたのが気に食わないわけ!?
 ……もう、ホント信じらんない。
 最低。
 サイッテー……!!
「結局ッ……結局、アンタだって口ではなんだかんだ言いながらも、ああいう大人しい、いかにも『三歩下がってあとついてくる』みたいな女がいいってことでしょ!?」
「なんだと!?」
「だって、そうじゃない!! 三つ指付いて出迎えられて、いつだってしゃしゃり出てこない!! そういう女が、かわいくて理想なクセに!!」

「絵里ッ!!」

「……っ……」
 売り言葉に買い言葉ではあっただろう。
 それはわかってる。
 でも、いつだって私たちはそういう喧嘩をしてきた。
 だから、なんとも思わなかったし、これが『当たり前』だった。
「……何よ…ッ…」
 でも、違う。
 ……今はもう、そんな雰囲気じゃなかった。
 ビリビリと空気が痛いほど震えて、嫌ってほど声が耳にこびりつく。
 ……いつもは、こんなとき名前呼んだりしないクセに……!
 そこまでして、私を黙らせたいワケ?
 そんなにもあの人が大事なワケ……!?
 悔しさよりも、歯がゆさで。
 涙が浮かんでしまわないようにぎゅっと身体へ力をこめると、純也も同じように1度瞳を伏せてため息をついてから、改めて私を見つめた。
「……お前、そういう言い方はないだろ」
 静かな、声。
 さっきまでとはまった違って、諭すような……そんな雰囲気の静かなトーン。
 でも、正直言ってこういうときの純也は――……すごく嫌いだ。
 大人だっていう見えない権力を振りかざして、私の頭を無理矢理にでも押さえつけようとしているから。
 ……結局は、私を子どもだと見ている証拠。
 甘い、って。
 何もわからない、聞きわけのないガキだ、って。
 そう思ってるから、こんなふうに言うんだ。
「仮にも彼女は先生なんだぞ? ……そういう人間に向かって、そんな――」
「……何よ」
「何……?」
「何よ、それ」
 ハッ、と短く笑いが漏れた。
 何を言い出すのかと思えば、それ?
 ……ちゃんちゃらおかしくて………ヘドが出そうだわ。
 皮肉るように嘲笑して純也を見つめてから、ふっと表情を戻してやる。
 最低な教師ね、田代純也。
 初めて会ったあのとき。
 彼を軽蔑したのと同じように――……敵意を(あらわ)にした表情へ。

「これまでは、私がいくら教師相手に何か言ったところで『先生なんだぞ』なんて1度も言わなかったくせに……!!」

 睨みつけるよりも、吐き捨てるように。
 純也へはっきり言うと、何か言いかけた唇をきゅっと結んだ。
「あー、そう。ああそう!! よっぽど嬉しかったのね」
「何……?」
「そうでしょう? ニヤニヤへらへらして、バッカみたい。……情けないったらないわね。最低よ」
 ひとことひとことをしっかり純也へぶつけ、すぐに続きを紡ぐ。
 有無を言わせたくなんてない。
 だって、そんな必要ないんだもの。
 ……ハッキリした。
 純也になら『そんなことない』って言動をもらえるに決まってるなんて思ってた私が、馬鹿だったってことが。
 信じていたぶん、大きいのよね。
 そうしてもらえなかったときの、ショックと反動が。
「そりゃあ嬉しいわよね? だって、自分じゃなくてほかの誰か――……しかも、あんなにかわいい人が作ってくれたんだもんね」
「……お前、何言って……」
「知ってるのよ! 平野先生みたいな人、好きなんでしょう?」
「あのな。……だから、それは――」
 何度となく、口にしたことがある。
 そのことを知ってから、何度も何度もことあるごとに口にしてきた。
 喧嘩のときは、決まって必ず。
 ある種の決まり文句のようなモノだった。
「知らないとでも思ってるの?」
「……何……?」
「そう思ってるのは、アンタだけなんだから……!」
 まるで、とぼけているような……はたまた装っているような。
 眉をひそめて私を見つめた純也の態度が、頭にきた。
 そう。
 アンタやっぱり、あの人の子だわ。
 残念だけど――……100%、間違いなく。
「これまでの彼女だって、そうだったって。お淑やかで、清楚で、可憐。口ごたえひとつしない、育ちのいいお嬢さんばかりだったって……!!」
「……はぁ……?」
 同じように、また繰り返された。
 ……そうね。
 そりゃそうよ。
 確かに――……知らなくて当然。
 だって、いつだって……!
 いつだって私は、ひとりでずっと味わってきたんだから。

「ッ……アンタのお母さんが、散々私に言いつけてきたの……ッ純也、知らないでしょう!?」

 これまでの、比じゃなかった。
 頭に来ていたのと、目の前の純也の態度。
 それで、これまで1番大きな声が室内に響いた。
「何……?」
 その瞬間。
 純也は、明らかに表情を変えて。
 驚いたように瞳を丸くしてから、喉を動かした。
 ……遅いわよ。
 そんな顔してくれるなら、どうしてもっと早くそうしてくれなかったの?
 悔しくて悔しくて、たまらず視線が床へ落ちた。
「何度も何度もっ……キリがないくらい、これまでの2年間で何百回も聞かされたわ!」
 ぎゅっと拳を握り、思い出してしまわないように瞳を閉じたりしない。
 ……目をつぶれば、浮かんでくる。
 これまでも、ずっとずっとそうだった。
 あの人。
 あの顔。
 まるで、心底嫌なものでも見るかのような目で、あの人は私に何度も告げた。
 決まって必ず、純也が口を挟めない状況で。
 あるときは食事の席。
 あるときは電話口。
 そしてあるときは文字に起こしてまで、わざわざ私に送り付けてきたこともあった。
「これまで見たことがある彼女は、アナタとはまったく違ったって。どうして急に好みが変わったのかしらって。……ッ……騙されてるんじゃないかって……何か弱み握られてるんじゃないかって……!!」
 嘲るよりも、ずっとずっと嫌な感じの声だった。
 いつだって、大切なのは純也で。
 私はいつでも、悪者だった。
 電話口から流れ続ける、度々の嫌がらせ。
 ……そう。
 アレはもう、嫌がらせだ。
 だけど純也はそんなこと欠片も知ることがなかった。
 いつだって、計算尽くの行動だったからだ。
「っ……知らないでしょ……!」
 純也の母親は、彼だけがかわいい。
 唯一の男で、末っ子の彼が1番。
 ――……私はあの人にしてみればいつだって『大事なひとり息子に入れ知恵している嫌な女』でしかなかった。

「育ちが知れるわね、って……そこまで言ったのよ……!!」

 言った瞬間、涙がひと筋頬を伝った。
 噛み締める歯は軋み、握った両手は微かに震える。
 ……1番悔しかった言葉だ。
 あれは、本当に本当につらかった。
 思い出すたびに、涙が滲んだ。
 ……だって、そうでしょ?
 この言葉の先にあるのは、私じゃないのよ。
 私の両親や祖母なのよ……!!
 何も知らないくせに、私のすべてを見透かしたような、勝手な押し付けの罵詈(ばり)
 私だけじゃない、大切な両親や親族一同を馬鹿にされた気がして、本当に本当に悔しかった。
「言っちゃいけない言葉ってたくさんあるでしょう!? よりにもって何よそれ……! 育ちが知れる? ……ふざけないで……!!」
 涙声になって霞んでしまうのが悔しくて、必死に呼吸を整える。
 同情なんて、いらない。
 無意味な謝罪は、もっといらない。
 言われた人間にしかわからない痛みを、代理である純也にわかってもらおうなんて、これっぽっちも思ってないんだから。
「冗談じゃないわよ!! そこまで言われて、どうして私が笑ってられると思ってるのよ……!!」
 首を振りながら叫びように告げ、きゅっと唇を噛む。
 しゃくりが上がりそうで、それが悔しかった。
 ……こんな顔、見せたくもないし見せる気もない。
 だから、零れそうになる涙を堪えるために、自然とそうしていた。
「……もういい。もう……いいわ」
「何……?」
「終わりにしたいの。……もう嫌。本当に嫌。……どうしてそこまで言われて、耐えてなきゃいけないの……? あの人好みで自分も好きになった女がいたら、そっちに行けばいいでしょう?」
「……だから、何言って……」
「アンタがそうするなら私だってそうする! もっと楽に生きる……ッ楽しく笑ってすごせるほうがいい!!」
 伸ばされた手が触れそうになって、ぎゅうっと両手で自身を抱きしめていた。
 つらいのは、もう嫌。  我慢するのも、自分の感情押し殺したまま笑みや感情を無理矢理繕ったりするのも、もうたくさん。  何度となく考えたことだ。
 あの人のイヤラシイ物言いと、嫌悪しか感じない表情と。
「私だってひとりの人間なの……ッ……まだ……たかが18なのよ……?」
 ぐいっと瞳を手で拭ってから、息を整えて純也を見つめる。
 ……やめてくれる? そんな顔。
 まるで、まったく欲しくもない同情をかけてられているような気がして、嫌悪でいっぱいになった。
 一緒よ。
 結局は、純也も一緒。
 やっぱり――……あの人の血を継いだ男に間違いないんだ。
「自分、18のとき何してた? ……ッ……考えなくてもわかるわよね……!」
 『それは』と、唇が動きそうになって、目を逸らしていた。
 何度か聞いたことがある、過去。
 だからこそ、純也は何も言えないはずなのに。
 ……別にそれが悪いとかなんとかなんて、今さら言うつもりはさらさらない。
 だけど、今の私は18歳。社会人のマナーも常識もほとんど知らないと言っていい、高校生だ。

「そんな人間が……ッ……何もかも飲み下して、器用に生きられるはずないじゃない……!!」

 吐き捨てるように、大きな声で告げる。
 荒く上下する肩がわかったけれど、今さらどうしようもない。
 ここまで感情が昂ぶったのは、初めてだ。
 ……これほどまでに、自分の考えを、実際の過去を、純也にぶつけたのも――……もしかしたら、最初で最後かもしれない。
「…………」
 そう思ったら、ふっと身体から力が抜けた。
 と同時に、ゆっくりと顔が上がる。
 ……そこにある顔。
 それは飽きるほど見慣れた純也の顔で。
「……私にだって……」
 ……でも、皮肉なものね。
 こんなときになって、初めて向けられる眼差しと――……態度があるなんて。

「私にだって……優しくしてくれてもいいじゃない……!」

 あの人みたいに。
 そう心の中だけで付け足してから、くるっと背を向けてドアに向かう。
 もちろん、純也が相変わらず背を向けている準備室への物じゃない。
 そうじゃなくて……きっと、心配した羽織が待ってくれているであろう、大きな両開きのドアだ。
「っ……オイ、絵里……!」
「バイバイ」
 そちらを振り向かずに、ひらりと手を挙げる。
 ドアノブを掴んで、その瞬間に言ってやるんだ。

「もう二度と、会いたくない」

 アンタにも。
 ……そして、アンタの母親にも。
 そういう意味をこめて瞳を細めると、神妙な面持ちで喉を動かした、最後になる純也の立ち姿が確かに見えた。
 もう二度と、振り返らない。
 目で追ったりもしない。
 だって、私はそう決めたから。
 すべてを洗いざらいぶちまけるのと引き換えに、そう……誓ったんだから。

「……っ……!」
 パタン、とドアを閉めてひと息つくと、窓へもたれるようにしていた、心配そうな顔の羽織が駆け寄ってきた。
「……あ、あのっ……あのね……?」
 でも、何度か視線を合わせては俯き、合わせては俯きの繰り返し。
 ぎゅっと両手で教科書類を抱いているところからして、ものすごく戸惑っているのは確かだ。
 ……そりゃそうよね。
 大声で、これでもかってくらい叫んできたんだから。
 下手したら、準備室どころか3号館への渡り廊下を隔てた向こう側にある生物室にまで聞こえてるかもしれない。
「…………」
 そうは思ったけれど、でも、別に構わないとさえ思えた。
 妙にすっきりしていて、あれほど悩んで苦しい思いをした時間が、嘘みたいに思えたから。
「ッ……え……?」
「大丈夫よ」
 あのとき。
 あのときと、一緒だ。
 あの――……今から数十分前、揃って教室を出るときと、まさに。
「……絵里……」
「ったく。そんな顔しないのよ」
 もう、大丈夫だから。
 もう、羽織にも……そして、葉月ちゃんにも。
 心配をかけることなんて、ゼロなんだから。

「行きましょ?」

 羽織の顔を覗き込んだ瞬間、自分でも驚くくらい自然に笑みがこぼれた。
 ……あぁ、なんだ。
 私、ちゃんと普通に笑うことできるんじゃない。
 心配して、損した。
 涙に暮れるんじゃないかとか、悲痛すぎて身体に変調をきたすんじゃないか……とか、いろいろ考えてたんだけどな。
 やっぱり、人間、いざってなると強いのかもしれない。
 特に、女ってやっぱり強いって言うし。
「……絵里……」
「ほら、行くわよ?」
「絵里っ……!」
「ほらぁ!」
 私の代わりに、今にも声を上げて泣いてしまいそうな羽織。
 でも、もちろんそうさせるつもりなんて、まったくない。
 だから、そうさせるよりも先に、この場から遠く遠く遠ざかってしまうことにした。
 ――……決着をつけた場所とアイツに、精神的な別離を告げてやるためにも。


ひとつ戻る  目次へ  次へ