「……ん……くすぐった……ぃ」
「すげー気持ちいい」
 くすくすと笑い声を交えながらの、このまどろみの時間。
 これは、やっぱり何よりもあたたかくて居心地がいい。
「……先生」
「ん?」
 お互いに、吐息がかかるほどのごく近い距離。
 この距離ならば、俺でさえ眼鏡がなくともしっかり顔が見える。
「…………えへへ」
「……なんだよ」
 かわいい顔しちゃって。
 ふにゃん、と顔を緩めた彼女の笑顔についつい笑みが浮かぶ。
 先ほどからずっと触れている、彼女の髪。
 ……ああ。
 この柔らかさと滑らかさは、夢も現実も変わらないんだな、なんてことがふと思い浮か――……ぶと同時に。
「……? 先生?」
「……そういえば、さ」
「え?」
 ……今ごろ思い出さなくてもいいのにもかかわらず、あの、夢の中の彼女のことが蘇る。
「……夢で、羽織ちゃんに捨てられかけたんだよ」
「え……?」
「いや、だから。夢で、羽織ちゃんが『もういらない』って言ったんだって。俺に」
「…………えぇえええ!?」
 夢で見たあのシーンを思い出しながら彼女に告げると、一瞬の間のあとで、彼女にしては珍しく大きな声をあげた。
 でもま、それでほっとすることはできる。
 当然ながら、彼女は微塵もそんなふうに思ってなかったらしいから。
「なっ!? ど……えぇえ…!? なんでそんなっ……」
「……よかった」
 慌てふためいている彼女とは反対に身体から力が抜ける。  ……そうだ。
 どうせだったら、もうひとつ聞いておくか。
 そう思い、彼女の肩を軽く叩く。
「……え?」
「俺が教師を辞めるって言ったら……どうする?」
「……先生が…?」
「そ」
 あのとき。
 夢の中で彼女は、きっぱり首を横に振った。  『もういらない』という意味を込めて。
 ――……だが、しかし。
「……そうしたら私……バイトします」
「…………は?」
「え? そういうことじゃないんですか?」
「……いや……まぁ、そうだけど」
 思いもよらない答えが返って来た。
 情けなく口を開けたままの俺を見た彼女が慌てて手を振るものの、しばらく収まりそうにはなくて。
 ……いや、ちょっとびっくり。
 まさか、そんな答えが返ってくるとは思わなかった。
「……えっと……私、何か変なこと言いました……?」
「いや、そういうわけじゃ……ないんだけど」
 まるで、『何かマズいことを言っただろうか』という、むしろ不安そうな顔の彼女に――……つい、笑いが出た。
 そして、それを見た彼女がまた一層不思議そうな顔をする。
 ……面白い子だな。
 面白いっつーか、なんつーか……。
 やっぱり彼女はこうでなくっちゃ。
 ことあるごとに、こうしてイイ意味で俺を裏切り続けてくれるんだから。
「それはじゃあ、何? 俺のこと養ってくれるの?」
「……う……うん」
「うん、じゃないだろ」
「え?」
 俺とは違って、何やら深刻そうな彼女。
 だからこそ、なんとも嬉しさとおかしさで声とともに笑いが出た。
「そーか、そーか。……んじゃ、よろしくね?」
「え? ……ホントに辞めちゃうんですか?」
「まさか」
「……えぇ? じゃあ、どうして?」
「いや、別に」
「えぇえ……?」
 くすくす笑いながら彼女を抱き寄せ、皺を寄せた眉間に人差し指を当てる。
 ……かわいい子。
 そして、これこそが彼女という人の真実。
 ある意味ではまぁ、あの夢もよかったのかもしれない。
 こうして、今ではすっかり身近な存在になっている彼女の大切さを、改めて実感することができたんだから。

「……ありがとう」

「……え……? 先生……?」
「さて、昼メシどうしようか」
 耳元で小さく囁いてから、ワザと語調を変えてやる。
「……ん」
 すると、しばらくはなんとも言えないような顔をしていた彼女も、くすっと小さく笑ってうなずいた。
 相変わらず、俺は幸せ者だ。
 何の文句も言わずに、俺を丸ごと肯定してくれて。
 どんな言葉でも言い表せないほどの、充足と幸せを与え授けてくれて。
 ……無償の、愛情。
 そして、心底信頼できる相手だからこそ得られる、安らぎ。
 ――……幸せって、今の俺を言うんだろうな。
「……ん……くすぐった……ぃ」
「…………俺は気持ちいいけど」
「もぅ……」
 彼女の素肌を撫でながら抱き寄せ、髪に顔を埋める。
 ……はぁ。
 ふんわりと鼻先に香るそれだけで、自分自身がずいぶんと落ち着くのがわかった。
 これからも、どうか。
 どうか――……。
「…………」
 彼女だけに聞こえる言葉を囁きながら、自分らしからぬ柔らかい笑みが漏れた。

 ――……ちなみに。
「……先生、どうして私がえっちな夢見たって……わかったんですか?」
「う」
 昼食のパスタを食べているとき、彼女が思い出したようにこちらを見上げた。
「……か……」
「か?」
「……勘」
「勘?」
「そ。勘だよ、勘。羽織ちゃんの顔見てたら、ぴーんと来た」
「えぇ? そんなぁ……!」
 視線を合わせることができずにパスタを食べ、そのまま紅茶で飲み下す。
 ……言えるわけないだろ。
 『実は俺が弄ってたから』なんてこと。
「……そんな顔してないのに……」
「…………」
 はぁ、と小さくため息をついてパスタの続きを食べ始めた彼女を見ながらも、内心は焦りっぱなし。
 もし、なんらかの拍子でアレがバレたらと思うと――……こわ。
 ……そんなわけで。
 本日の昼食は、残念なことにとても惜しいことをした気分でいっぱいになった。
 ……まぁ、オイシイ思いはできたからいいんだけど……ね。


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