教室に響く、着うた。
 先ほどよりも少し大きめに鳴っているその曲名がわかった瞬間、瞳が丸くなった。
「……これ……」
 こくり、と喉が鳴る。
 サビの部分から流れ出した曲は、聞き覚えがある――……どころではない。

 『FOREVER MINE』

 間違いない。この曲は、あるアーティストのアルバムに入っている曲だ。
 思わず通話終了できずに聞き続けていたら、彼の手がぴくりと動いた。
「……っ!」
 声が出そうになって、慌てて口を押さえる。
 すると、伏せたまま器用にスマフォを取り出し――……耳に当てた。
「……もしもし?」
 目の前で起きている光景が、不思議でたまらなかった。
 あの洋楽の着うたで起きなかった彼が、すんなりと起きてスマフォを手にしている。
 あまりにも違いすぎる対応を見てしまい、すごく嬉しくなった。
 だって、『特別扱い』されてるみたいに思うじゃない。
 確かに、もしかしたら先ほどの着信で起きたのかもしれないけれど、でも――……。
「……こら」
「あ」
「……あ、じゃないだろ。何。嫌がらせ?」
「ち、違います……けど……」
 目が合っていきなり睨まれ、慌ててスマフォを置く。
 まさか目の前に羽織がいるとは思わなかったらしく、祐恭はあからさまに不機嫌そうな顔になった。
 彼は、寝起きがあまり良くない。
 気持ちよく寝ていればいるほどに。
 これまで、起こしたことで(げき)を飛ばされることはなかったが、かったるそうに絡まれることはしばしば。
 そのため、目が合った瞬間思わず身体を引いた。
「……何してんだよ」
 身体を起こして大きく伸びを見せてから、首を軽く振る。
 立ち上がって肩を軽くほぐし、いかにも『寝起きです』という顔でこちらに歩いてきた祐恭。
 眼鏡を外しているせいもあってか、やけに目つきが悪い。
「……何?」
「あの……よく、寝てるなぁって……」
「……で?」
「あ、さっき、電話鳴ってましたよ?」
「それで?」
「……だから……ええと、あの……」
 ものすごく不機嫌そうな顔で見下ろされ、つい視線が外れる。
 ……すると。
「っ!」
 祐恭が机に腰かけた途端、羽織の顎を掴んで鼻先をつけた。
「人が気持ちよく寝てるの知ってて起こしたの?」
「うぅっ……ごめんなさい……」
「いい度胸してるね。許さないよ?」
「えぇっ!? ……ぅ、ごめんなさいってばぁ……」
「そんな言葉じゃ許さない」
 ぐいっと顔を近づけるようにしてから、わざと鼻先をつけて口角だけを上げる。
 その顔は、いつもよりもずっと意地が悪そうな……というよりも、人が悪そうに見えた。
「許してほしいときには、どうするもんだ?」
「……謝る……」
「それだけじゃ、駄目だっつったろ。……態度で示そうとか思わない?」
「態度……ですか?」
 祐恭の言葉に羽織が眉を寄せた途端、笑っていた口元が引き締まった。
 いたって真剣な顔つきに、喉が鳴る。
 普段の授業のときよりも、運転のときよりも、ずっと真面目な顔。
 自分に向けられることの少ない表情に、思わず喉が動いた。
「だっ、て……まだ、学校だし……」
「関係ない」
「けど!」
「羽織」
「ッ……!」
 瞳を細めて名前を囁かれ、身体の奥が震える。
 ……ずるい。
 今、持ち合わせている感情すべてを思いきり顔に出して、彼を見る。
 そんなふうにされたら、何も言えなくなることくらいわかっているくせに。
 思わず唇を尖らせて羽織が眉を寄せると、表情を変えずに祐恭は軽く首をかしげた。
「…………」
 顎を捉えられたまま顔を上げれば、すぐここに顔がある。
 艶っぽい唇に目が行ってしまい、わけもなく慌てた。
 ……はぁ。どうか――……誰も通りませんように。
 開いたままの廊下側の窓を一瞥してから、そっと瞳を閉じて唇を寄せる。
 いつもと同じ口づけのはずなのに、やけに緊張していて、鼓動が大きく身体に響いた。
 唇を合わせるだけのキスは、必ず文句を言われる。
 けれど、どうしても最初から深いキスをすることなどできなくて、結局何度かの口づけをすることになった。
「…………」
 いつしか腰に回されていた手に慌てながら唇を離すと、目の前で彼がうっすら目を開けた。
 眼鏡がないせいか、やけに近くにいるように思える。
「……え?」
 吸い込まれるように瞳を見つめていると、途端に彼の瞳が細まった。
 驚いて目を見張ると、親指で唇をなぞられる。
「スマフォ」
「……スマフォ、ですか?」
「そう。貸して」
 何を言われるかと思いきや、突然の単語に羽織は思わず面食らった。
 だが、言われるままにスマフォを取り出し、彼の手のひらに載せる。
 ――……と、ひったくるようにして祐恭が掴み、おもむろに自分のスマフォを弄り始めた。
「……先生?」
 不思議に思って彼を見ると、口角だけを上げてスマフォを耳に当てた。
 そんな彼の姿を黙って見ていた羽織だ……が。
 自分のスマフォが光ったのを見て、慌てて彼に手を伸ばした。
「ちょっ、やっ……! 返して!!」
「いいだろ、別に」
「よくないです!」
「自分は何に設定してんのかな。え?」
 ひょいひょいと羽織をかわして意地悪な笑みを見せていると、ほどなくして着うたが響いた。
「……う……ぁ」
 止まることなく流れている歌を聞いているうちに、頬がみるみる染まり……大人しく椅子に座るしかできない。
 一方で、意外そうに瞳を丸くしたのは祐恭だ。
 着うたを流したままでスマフォを目の前に置き、机に手をついてから自分のスマフォをしまった。
「……ふぅん」
 どこか楽しそうな色を見せる祐恭の声に顔をそむけると、頬から顎へと指先が触れる。
「どうにでもして、いいんだ?」
「っ……それは、だから……歌詞で……」
「けど、これを選んだってことはそういうふうに考えてるって意味だろ?」
「……違うもん」
 羽織が祐恭の着メロに設定していたのは――……。

 『I AM YOUR BABY』

 まさに、歌詞もタイトル通りの曲だ。
 それを知っているからこそ、祐恭は意地悪そうに笑う。
「どうしてやろうかな」
「……ぅ」
 耳元で笑いながら呟くと、羽織はみるみるうちに困ったような顔になった。
 それがおかしかったのか、さらに彼は続ける。
「どうにでもしていいんだろ?」
「……やだ……」
「こんな着うたにしたのが悪い」
「っ……だって」
 正直、羽織がこの曲に設定したのは『祐恭に聞かれることはない』と思っていたからだった。
 もし彼に聞かれるようなことがあるとわかってさえいれば、もっと無難なものにしていただろう。
 タイトルを見たとき、つい反射的にダウンロードしてしまった曲。
 だからこそ、こればかりは何を言われても仕方ないのだが……やはり、少し気まずさがある。
 彼が知れば、必ず何か言われるだろうとは思っていたが、まさかこんなに早い段階でバレてしまうとは。
 穴があったら入りたいと思っても、バチは当たらないはずだ。
「じゃ、これからは遠慮なく」
「ち、違うんですってば!」
「違わない。それに設定したのが悪い。俺もアレにしたからには、そうするから」
「……え?」
 瞳を丸くした羽織が祐恭を見あげると、途端にふっと笑みを浮かべた。
 それは今までの意地の悪そうなものとは違い、柔らかい……彼女が好きな笑み。
「ずっと、俺のモンだろ?」
「せ、んせ……」
「つっても、俺の場合は『思い込み』だけで終わらせないけど」
 にっ、と口角を上げて頬に口づけをしてから、やっと机から立ち上がった。
 何も言えずに頬を染めている彼女を見下ろし、いつものような笑みを見せる。
「でも、先生どうしてこんなところで寝てたんですか? 準備室で寝ればいいのに……」
「ほかの専科教師がいる前で、堂々と居眠りできないだろ? みんな、仕事してるんだから」
「……教室ならいいんですか?」
「バレないかなと思って」
 肩をすくめての即答。
 その姿も声も、まるで高校生みたいだ。
「でも、だからって私の机占領しなくてもいいじゃないですか」
 ジャージが置かれた机を見て、つい苦笑が漏れた。
 だが、彼は平然とした顔でジャージを取ると、しれっとした顔を見せる。
「せっかく教室で寝るんだったら、彼女の椅子のほうが寝やすいんだよ」
「……変わらないと思うんですけれど」
「変わるの。……でも、まさか戻ってくるなんて思わなかったな」
「そんなに疲れちゃったんですか?」
「すげー疲れた」
 かったるそうに伸びを見せてから向き直った彼が、机に置いたままだった眼鏡を上着のポケットから取り出したケースへしまった。
「……先生、眼鏡しないんですか?」
「これから運動する人間が、眼鏡でどうするんだよ」
「そう……かもしれないですけど」
 結局、何のスポーツをやるのか聞いていないため、少しだけその行為が不思議に思える。
 ということは、コンタクト……のままで昼寝をしていたのだろうか。
 それとも、今は裸眼?
 なんて、どっちでもいいのに細かいところが気になるのは、性格のせいかもしれない。
「ほら、行くよ」
「あ……はい。え、あ、でも、一緒に歩いてたら……」
「教師と生徒が一緒に歩いてて何が悪い?」
「……あ。そっか」
 教師と生徒。
 少なくとも、この“学校”という場所では相変わらずその関係のまま。
 ……なのに、教室でキスはまずいと思う。
 なんて、苦笑しながら考えたのは言うまでもない。


ひとつ戻る  目次へ  次へ