「いや、本当に久しぶりだな」
「そう言われると……確かにそうかもしれないですね」
 普段、袖など滅多に通すことのない“四つ矢菱”の紋服。
 それを羽織って立つのは、これまた滅多に足を運ぶことのない、冬瀬市の弓道場だった。
 本日ここに来たのは言うまでもなく、先日の、ある人との約束を果たすためというわけだ。
「……そういう格好を見ていると、学生時代の面影はあまりないねぇ」
「そうですか? でも、まだまだですよ」
「いや。十分“教士”の顔をしてると思うがね」
「恐縮です」
 にっと笑った彼に軽く頭を下げ、苦笑を返す。
 ……でも確かに、彼のこういう顔を見たのは……確かに学生時代以来かもしれない。
 野心的で、なんとも言えないオーラがあって。
 ……まさか、彼が自分の“義父”になるなどとは夢にも思ってなかったな。
 学生時代は担任としてだけでなく、所属していた弓道部顧問としても――……しごかれたし、叱られた。
 今でこそこんな柔和な笑みが似合う人になったと思うけれども、昔はこんなんじゃなくて。
 笑っているところがなかったわけじゃないが、怖いときは本当に怖かった。
 ……めちゃめちゃ、半端じゃなく。
 だけど、そうじゃないときとの落差が激しかったせいか、生徒たちはみな『怖い』と言いながらも慕っていて。
 ほかのクラスの連中とも、話している姿をよく見かけたもんだ。
「……それにしても、先生は今でもこっちに顔出してるんですか?」
「ん? ああ、たまにね。さすがに今は新しい師範が来てはいるんだが――……まだまだ若者でなっとらんところがある」
「……へ、ぇ……」
「……ん? どうした?」
「へ!? あ、いえ。何も」
 顎を撫でながら呟いた彼の瞳が、一瞬鋭さを増した。
 それは確かに“一瞬”ではあったのだが、それでもやはり――……昔の彼の面影は十分過ぎるほど残っていて。
 ……こわ。
 『なっとらん若者』という言葉が出た途端に喉が鳴った自分は、やっぱり……その、やましいことがあるからなのだろうか。
 昔は、お世辞にも“できのいい生徒”とは言えなかった自分。
 何度も職員室に呼び出されたし、親だって……面談以外で1度も学校へ来なかったとは言えない。
 それが、今では彼の大切なご息女の“彼氏”で。
 ……はー。
 俺は、彼に認めてもらえてるんだろうか。
 いや、あの、認めてもらえてるからこそ、こんなふうに……笑顔で話してもらえてるんだろうけどさ。
 ……実は『あのどうしようもない教え子が娘の彼氏なぞになりおって……』とか、誰かに愚痴ってたりしないだろうか。
 もちろん、瀬那先生が誰かにそんな愚痴をこぼすとは思えないけど。
 ……いや、でも……。
「祐恭君?」
「はいッ!!?」
「……どうした? そんな深刻そうな顔して」
「へ!? あ、い、いえ。何もっ……ない、です」
 眉を寄せた彼に慌てて乾いた笑みを返し、明らかに違和感のある笑顔で首を振る。
 ……言えるワケがない。
 『実は先生に言えないようなことを、お嬢さんに散々しこたまやってます』なんて。
 ……ていうか言ったら……きっと俺は殺されると思う。
 たとえ今では温厚になっている彼だとしても。
 ……いや、彼だけじゃなくても、きっとそうなるだろう。
 いったい、どこの世の中にいるだろうか。
 大事な娘にあんなことやこんなことをされてると聞いても平静を装っていられる父親が。
 …………ありえない。
 まずきっと、無理。
 俺は親になったことがないからわからないが、もしも――……将来自分の子どもが『教師と付き合ってる』なんて知ったとしたら。
 もしかすると、俺は彼のように寛大にはなれないかもしれない。
 『理不尽』だとか『矛盾』とか言われるかもしれないが、それはそれ。
 ……だからこそ、今目の前にいる瀬那雄介という俺にとっての恩師であり、義父……になりうる存在の人であるこのひとりの男は、とてつもなく器がデカいんだと思うわけだ。
 ていうか、器がどうこうのレベルじゃないよな。
 人間ができてるというか、懐が深いというか……。
「……大丈夫かね?」
「え!? え、ええ! もちろんです」
 どうやらまたもやあれこれと考え込んでいたらしく、改めて彼が心配そうな顔を見せた。
 ……危ない危ない。
 もう少しで、あれこれと不要な失態を見せるところだった。
 『なんでもないです』と彼に首を振って羽織の紐を締め直し、背を正す。
 ……そういえば。
「…………」
 まじまじと改めて見れば、今着ているコレも彼女と同じ名前。

 『羽織』

 そして、ふと視線を隣に向ければ、その名前を付けた父親である彼がいる。
 ……なんか、不思議な感じだな。
 いや、『何が』と言われても、うまく説明はできないんだけど。
「……あの、瀬那先生」
「ん?」
「あとでいいんで……ひとつお答えいただきたいことがあるんですが、よろしいですか?」
「ああ、構わんよ」
 背を正してから彼に身体ごと向き直り、今少しだけ考えたことを口にしてみる。
 聞きたいこと。
 ――……それはもちろん彼女の名前について……だったりするワケなのだが、今はもう時間も迫っている。
 なので、またのちほど……無事に役目を果たすことができたら、聞いてみよう。
「……それじゃ、始めてしまおうか」
「あ、はい」
 ざわつき始めた場内を見回した彼が、ほかの人間に合図を送ってから俺を見た。
 今日は、ここで弓道を習っている人々たちメインで行われる、新年射始め演武。
 ……で。
 俺は、彼の手伝いの名目で――……一射披露することになっていた。
 ……すげー緊張。
 ただでさえ彼の前で射ること自体が数年ぶりなのに、挙句の果てには、何やら『なんとか会長』だのといった肩書きを持っている人間がずらっと並んでいるわけで。
 ……あそこに座ってるじーさんなんて、やたら風格もあるし、着物もスゴいし、何より髭がスゴ――……って、そうじゃないだろ。
「え?」
 そんなふうに、やたらおかしなことばかり考えていたとき。
 不意に、瀬那先生が肩を叩いた。
「それじゃ、一射願いましょうか。……瀬尋教士?」
「……あ」
 にやっとした笑みは、いったいどんな意味を含んでいたんだろうか。
 正直、彼にそんな名前で呼んでもらう日が来るとは思わなかった。
 ……それもこれも、すべては……彼女のお陰か。
「わかりました」
 小さな笑みとともにうなずいたとき。
 今、ここにはいない彼女の笑顔がふと浮かんで、自然に顔が緩んだ。
 ……この“羽織”と同じ名前を持つ、あの、彼女。
 あたたかく、優しく……そして、しっかりと包み込んでくれる、かけがえのない俺の大切な子。
 ……安心感とか、そういうのはまさに一緒だな。
「それじゃ、よろしく」
「はい」
 改めて肩を叩いてくれた彼にうなずいてから、背を正して場の中央へと向かう。
 ……彼がつけた、彼女の名前。
 それが今では、俺にとって誰よりもどんなものよりも大切な言葉になった。
 ……感謝してもしきれないな。
 にこやかに笑って片手を挙げた彼を見ながら、そんなことがふと浮かんだ。


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