「さぁ、どうぞ。遠慮しないで、もっとたくさん食べてね」
「ありがとうございます」
 所変わってのここは、ウチよりもずっと賑やかな雰囲気が漂っている、彼女の実家。
 ……そう。
 瀬那先生と、奥さんの雪江さん。
 そして、彼女の従姉妹である葉月ちゃんがいる瀬那家――……のダイニング。
 ……ああ。
 そういや、孝之もいたんだな。
 メシという声がかかったにもかかわらず、リビングのソファに座っているヤツを一瞥してから改めてそう思った。
 ひと足先に、今日から出勤だったらしい彼。
 そのせいなのかどうかはわからないが、表情からしてお世辞にも『機嫌がいい』とは言えない。
 ……何したんだか。
 そういえば、先日会ったときと違って、葉月ちゃんの様子もあまり芳しくない。
 まるで……お互いに避けているような雰囲気。
「…………」
 ……何もそこまで似なくてもいいだろ……。
 ふたりの様子があまりにも俺たちと似すぎていて、ため息よりも先に苦笑が浮かんだ。
「…………」
「…………」
 夕食が始まってから大分経ってはいるのだが――……相変わらず、俺の隣に座ったままの彼女の表情は暗い。
 ときおり視線が合いそうになるたびに、つい不安で……俺のほうが彼女をまっすぐ見ることができなかった。
 ……もし、また彼女の瞳が揺れたら……?
 そんなことにでもなったりしたら、この暖かい雰囲気をも気遣うことなくぶち壊してしまいそうで、何よりも怖かった。
「しかし、今日は本当に助かったよ。……ありがとう、祐恭君」
「いえ、とんでもないです。こちらこそ、お役に立てて嬉しいですよ」
 目の前に座ってボトルをかたむけてくれた瀬那先生に首を振り、両手でグラスを持つ。
 彼は酒が苦手だし、俺は車。
 そのため、当然といえば当然のように、グラスへは烏龍茶が注がれた。
「ちょっと、孝之。アンタもこっちに来て食べなさい」
「あ? ……まだいい」
「まだって……あのねぇ。片付かないでしょ? こっち来ないと」
「……るせーな……」
 新しい鍋の具を運んできたお袋さんが、孝之へ声をかけた。
 だが、まるで興味ないかのように、孝之が返したのは生返事。
 ……珍しいな。
 どんなときだろうと、メシは呼ばれなくても食べるヤツなのに。
「あら、いいのよ? 祐恭君。そんな子、放っておけば」
「あ、ええ。大丈夫です」
 あまりにも“らしくない”部分を見つけてしまったからか、ついそちらへと足を向けていた。
 それを見て、当然のように孝之が眉を寄せる。
 ……別に心配なんてしてないって。
 そういう表情で首を振ってソファへ腰かけると、気まずそうにため息をついてから少し横へとずれた。
「……なんだよ」
「それはこっちのセリフ」
「…………」
「…………」
 お互いにテレビを見つめたままで、続けるやり取り。
 だから、表情はわからない。
 ……まぁ、声でなんとなくわかるんだけど。

 『芳しくない』

 まさにそんな雰囲気が、どちらともなく漂っていた。
「……葉月ちゃんと、何かあったんだろ」
「それはこっちのセリフだ」
「……何?」
「お前のほうこそ、アイツと何かあったんだろ?」
 てっきり、コイツのことだから言葉に詰まると思ってた。
 ……なのに、どうだ?
 まさかこんなふうに切り返されるなんて、正直想像もしてなくて。
「……なんだよその顔は」
「別に……」
「あっそ」
 パーカーのポケットへ両手を突っ込んだままこちらを見た孝之に、たったそれしか返せなかった。
「お前とアイツ見てりゃ、ガキだって『何かあったな』ってわかるっつーの。あからさまに、お互い避けやがって。……そんなんじゃ、『何かあったんで心配してください』って言ってんのと同じじゃねぇか」
 まるで毒を吐くかのように短く笑い、足を組んで姿勢を崩したままチャンネルを変える。
 だが、そんな孝之の表情も俺に言わせてもらえば――……十分すぎるほど物語っていて。
「……自分だって何かあったクセに」
「あ?」
「なんだよ」
 ようやくこちらを見た孝之を両腕を組んで見返すと、しばらく俺を睨んだままでいてから……ふいっと視線を外した。
 ……ほらみろ。
 お前は大抵、何かバツが悪いことがあるとすぐにそうやって避けるじゃないか。
 昔と変わらないんだな。
 学生じゃなくなっても、そういうある種のクセみたいなモノは。
「俺じゃないほうがいいのかな、って思ったんだよ」
「……は?」
「彼女には、丸くなっても下手なフォローすらできない年上じゃなくて、荒削りでもいろんな方法を知ってる同い年とかのほうが……って」
 彼女を泣かせたこと。
 それは、俺にとって大きすぎた。
 取り返しがつかなくて、どうしていいのかもわからなくて。
 ただ、穏便にその場を取り繕うだけの方法を知っている“形”だけができあがった下手な大人よりも、いろんなことを吸収しながら成長して幾つもの方法を学んでいく器用な子どものほうが……彼女には相応しいんじゃないか。
 それならば、彼女があんなふうに泣くことも――……ましてや、怯えたりすることもないんじゃないか。
「…………」
 ふと瞳を閉じるたびにまぶたの裏へ浮かびあがる、あの……怯えている彼女の姿。
 そればかりが何度も何度も繰り返し蘇ってきて、心底つらくてたまらなかった。
「別れるってことか」
「……そういうんじゃない。ただ――……俺を怖がってるんだよな」
「羽織が?」
「ああ」
 意外そうな声の孝之を見ることができず、視線を落として小さくうなずく。
 ――……と、一瞬だけ間を空けてから、すぐに声をあげて短く笑った。
「馬鹿じゃねぇの?」
「……なんだよ」
「お前、それじゃあ何? そんなことでアイツがお前を嫌いになったとか思ってンの?」
「別に、そういうわけじゃ……」
 まるで、何もかもを見透かしたような顔。
 そんなモンを見せられて、どうして黙っていられる?
 だが、孝之はその表情を崩さないまま、フンと小さく笑った。

「いろんな意味で、めでてぇな」

「なっ……」
「お前ら、これまで喧嘩とかしなかったのか?」
「……別にそういうわけじゃ……」
「そーゆーワケだろ。……アホくさ。俺はお前たちと違ってもっと深くてこう……こんがらがった悩みなんだよ、馬鹿が」
 キッとこちらを向いて身を乗りだした孝之は、『いいよな、お前らは教科書通りで』などとやけに意味深な言葉を吐いた。
 ……なんか、腹立つ。
 別に、これまで喧嘩らしい喧嘩をしなかったわけじゃない。
 ……そりゃまぁ、互いに罵りあったりとかはしなかったけど。
 でも、今回は“喧嘩”というものとはまったく違っていて。
 どちらかと言うと一方的に俺が悪いわけだし。
「…………」
 あんなふうに言うつもりはなかったし、彼女を泣かせる気なんて毛頭なかった。
 だから、困ってるんだろ。  悩んで、苦しんでるんだろ。
 ……彼女にあんな顔させたのは、俺だから。
 だから……迷ってるっつーのに。
「…………」
 ――でも。
 どうしてもひとつだけ、許せないことがあった。
 別に、普段だったらこのまま黙っていてもいい。
 ……だが。
 今は、話が別。
 なんせ、コイツは俺にものを言えるような立場になんていないからだ。
「……随分と、知ったクチ利くなお前」
「あァ?」

「その言葉、そっくりお前に返してやる」

「……ンだと」
 瞳を細めたまま孝之を見つめると、1度瞳を丸くしてから睨み返してきた。
 ……でも、そんな顔される筋合いはないんだよ。
 お前、自分が何したかわかってるのか?
 俺は知らないが、どうせ余計なこと言ったんだろ。
 だから、葉月ちゃんと話はおろか、顔もロクに合わせられないんじゃないのか?
 自分のしたことは棚に上げて、俺にはいけしゃあしゃあと言いたいこと言ってくれるじゃないか。
「……自分はどうなんだよ」
「だから、何が」
「人のこと言えるような立場じゃないんだろ? ……お前も」
「っ……」
 瞳を細めてソファにもたれ、少し上からモノを言ってやる。
 すると、途端にぴくっと反応を見せたが、それが何よりの証。
 ……やっぱりな。
 どうりでお前がヤケに突っかかってくると思ったよ。
 自分が機嫌悪いからって、俺に八つ当たりすることないだろうが。
「何があったのかは知らないけど、葉月ちゃんだってそんな簡単にお前を嫌いになったりするような子じゃないだろ?」
「……なんでそこで葉月が出てくんだよ」
「そりゃ出てくるだろ。……あからさまに避けてるんだから」
「別にそういうわけじゃねぇっつの」
「何にせよ……お互い人のことはよく観察できるってことだな」
「…………」
 ジト目を向けた孝之に肩をすくめてから、ふと……ダイニングで話を続けている、彼女たちふたりを見てみる。
 ……先ほどと言うより、俺たちの前にいるときとは雲泥の差。
 笑顔と、笑い声。
 それがあるということは、少なからず“楽しい”わけだよな。
 …………。
 一方、少し離れた場所にいる俺たちふたりは――……というと。
「…………」
「……ンだよ」
「別に? お前なら、もう少し反論するんじゃないかと思ったから」
 『珍しく折れたのか?』なんて呟いてから隣にあった新聞を手に取り、経済面を開く。
 ……と、何やらワザとらしいため息をついてから、鬱陶しそうな顔をこちらに向けた。
「あのな。俺は肯定したつもりなんて、これっぽっちもねーんだけど」
「へぇ? それじゃ、どういうワケだよ」
「……るっせーな。別にいいだろ? つーか、お前に関係ねぇし」
「それはこっちのセリフだ。知ったようなクチ利きやがって……」
「は……ァ?」
「なんだよ。そうだろ? だいたいお前、自分が素直じゃないって自覚してないから悪いんだろうが!」
「どうしてそこで俺の話になるんだよ!! 今してたのは、俺じゃなくてアイツのことだろ! つーか、その前に!! そもそもお前の話してたんじゃねぇか!!」
「だから!! それはどーでもいいっつってんだろ!? 別に俺は、お前の指南受けようなんてこれっぽっちも思ってないんだから!!」
 始めはお互い、些細なことだった。
 そもそも最初の言葉は、別に煽ってるつもりもなかったんだから。
 ……それに、孝之を向いて言ったことでもなかった。
 なのに、だ。
 なのにコイツは、案の定食いついてきた。
 だから、俺じゃない。
 悪いのは、きっかけを見逃さずに吹っかけてきたコイツ。
「ンだよ、この……!!」
「なんだよ……!!」
 先に立ち上がって指差した孝之につられるような格好で、俺自身も立ち上がる。
 バサっと新聞をソファへ投げ、指差したままのその手を弾いてやりながら。
「だいたいお前、自分の態度改めるって気まったくないだろ。それが周りに迷惑かけてるって、わからないのか?」
「ハッ。なんだよ。お前俺に説教タレんの? いい気なもんだな。あ? テメェのことすら解決できねぇ教師のクセに」
「……なんだと……」
「ホントのことだろ。あァ? 何ビビってんだよ。……だっせぇことしてんじゃねぇぞ、マジで」
「お前、人のこと言えるのか?」
「るせぇな。そういうお前こそ、俺に物言える立場じゃねぇだろうが」
 互いに瞳を細めたまま睨み合い、じりじりと近づく。
 ……ああ気にいらない。
 この顔だよ、コレ。
 最初に会ったときも思ったけど、やっぱりコイツ目つき悪いよな。
 なんつーかこう……無駄に、与える印象がワルすぎ。
 ……よく、こんなヤツと知り合いになったよ。俺も。
 物好きだな、ある意味。
「だいたい、昔から気にいらないんだよ! お前のそーゆートコが!」
「はァ? それは俺のセリフだっつーの!」
「なんだと!?」
「ンだよ!!」
 ぐいっと襟元を掴まれて、反射的にその手を払う。
 ――……それが、ある意味すべての始まりだった。
「ふっ……ざけんなよ、お前!!」
「ンだよ!! お前に関係ないだろ!」
「はァ!? だったら、最初から人に話すなっつーの!!」
「別に、お前に相談に乗ってくれなんて言ってない!!」
「お前の相談なんかに誰が乗ってやったんだよ! 馬鹿か!!」
「るっさい!! お前こそ、自分のカタきっちりつけろ!!」
「だから!! 言われなくてもわかってるっつーの!!」
「言われる前にやるのが社会人ってモンだろうが、バァカ!!」
「何ぃ!?」
「ンだよ!!」
「ちょっ……! たーくん!?」
「先生!? 待って!!」
 互いにどつきあいながらまくしたて、半分我を忘れかけていた。
 だから、慌てたように飛んできた彼女たちの存在に気付いたのは、だいぶあとのことで。
 ……クソが……!
 せっかく、人が彼女の両親にはいい印象を与えていられたのに、これで全部パーだ! ちくしょう!!
「絶対許さないからな、お前!!」
「ハ。だったら、どーだっつーんだよ!」
「……な……にを……!?」
「なんだよ!! あァ!?」
「やめないか、ふたりとも!!」
「もー、祐恭君まで……。落ち着きなさい!」
 まさに、一触即発となった最終局面で、結局――……もっとも醜態を見せたくなかった彼女の両親によって、互いに引き離されることになった。
 後悔先に立たずを身をもって知ったのは……気まずい沈黙と同時に現実へ引き戻されたとき。
 このときを『最悪』と言わずして、いったいいつ言う?
 ……ホント最悪。
 互いに睨み合ったまま離れはしたものの、この気持ちだけはしばらく落ち着かなかった。


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